サイバーバロックの系譜

比較的、仕事・研究活動に余裕がある時期なので、久しぶりに駄文を書いてみる。
個人的に私は、何事かの余暇や趣味において物事を鑑賞したり楽しんだりするとき、その趣味(tasteという意味での)の中枢や系譜が何であるのかを意識する。音楽において自分のUSインディーの系譜はアメリカのビート文学的メンタリティとイギリスのパンクのインパクトから産まれた一つの潮流として自分では把握しているし、ある程度、説明もできる気がする。今回は最近、私が欲しているような世界観や物語のあるテイストについて書いてみようと思う。
タイトルに「サイバーバロック」なる言葉を題したが、これは私の造語であって、特にそういうものや様式(スタイル)が既にあるわけではない。ただここ数年の私がとりつかれている物語やゲーム、そうったものが持つある種の雰囲気をサイバーバロックという言葉で表現したいだけである。
「サイバー」という言葉はわかるとおもうが、SFにおける「サイバーパンク」からとった用語である。私はSFについてそれほど詳しくないのであるが、サイバーパンクのモチーフとはごく大雑把にいって、高度情報技術、世界や宇宙よりも個人の内面、組織から外れたアウトサイダー(パンク)、私的な独白によるハードボイルドタッチといったモチーフが挙げられる。ところが日本で「サイバーパンク」という言葉の使われ方は、以上のような元々のサイバーパンクSFが持っていたモチーフというよりも、映画『ブレードランナー』の持っている雰囲気に影響されているように思われる。

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ブレードランナーサイバーパンクか否かとかそういった問題はまあ難しいし、SF好きの中でも議論されているだろうが、少なくとももともとの80年代サイバーパンクムーヴメントが持っていたモチーフとは異なるものとして日本人の想像力に影響を与えたように思える。(参照:サイバーパンク - Wikipedia
そのブレードランナー的なモチーフとは、退廃的な近未来社会、テクノロジーの発達の先にあるゴシック的廃墟美とか、実際のところ情報技術とか関係ないある種の映像的イメージ、世界観にあると思う。つまり物語形式や思想、メッセージよりももっと漠然とした雰囲気や様式(スタイル)にその主眼があるのだ。
そういった「ブレードランナー的雰囲気」をサイバーパンクとして表現するのは、やっぱり角が立つというか、ミスリードであると思うので、個人的には「サイバーパンク」というより「サイバーゴシック」とか「サイバーバロック」とか呼びたい。まあサイバーってなんねんって思う人もいるだろうが、そこは言葉のあやとしてお許し頂きたい。
例えば、押井守攻殻機動隊サイバーパンクとしてのモチーフの極めて優秀な実例だと思うけど、第二作「イノセンス」はサイバーパンク的要素と同じくらい「サイバーゴシック」的要素が豊富である*1
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イノセンスの映像描写の美しさは、どちらかといえばサイバースペースの表現というより、あの未来の日本の退廃的美しさや択捉特区の巨大なビル群、汎東アジア的な混交文化にあるように思われる*2
実際にその世界観の描写において押井守自身が建築様式に意識的であったと言われる。押井自身の言葉によると、たしかチャイニーズ・ゴシックという仮想建築様式があの世界観の基礎ということだ。
周知の通り、「ゴシック」というスタイルを表す用語は、美術史の様式の中でも極めて人気が高く、何度も何度もリバイバルされ、現代では端的に「ゴス」と呼ばれるファションやスタイルに完全に定着している。もちろん、オリジナルのゴシック建築とゴスのスタイルがどれほど共通点を持っているかは、かなり謎ではあるが、現代においてもゴシックの系譜は根強くポピュラー文化に残っているのは間違いない。
一方、美術史の様式においてゴシックと並ぶほど重要な「バロック」に関してはそれほどの人気はない。バロック様式が他の地域に影響を及ぼし、「ウルトラバロック」と呼ばれる特異な建築様式を生み出したこともあるが、現代の文化においてバロックは少なくともゴシックほどのポピュラリティはないのである。この人気の差異自体、理由が気になるところだが、おそらくゴシックよりもバロックというものの雰囲気やイメージが掴み難いのであるように思える。バロックの持つ特徴は、建築や音楽、絵画などでかなり異なるし、廃墟美のような典型的な美的範疇を持ちにくいようだ。せいぜい「バロック的」と表現することによって意味されることは、その派手さやケバケバしさ、巨大さ、荘厳さなどといったものであろう。ただ多くの美術史家たちが共通しているのは、これらの美的要素が絶対王政という権力のシステムやメメント・モリといった時代精神を反映しているということであって、端的な見た目に現れるものではないのかもしれない。
以上のように現代のポピュラー文化においてバロック的なものはそれほど人気がないわけであるが、以下では例外的にバロック的モチーフ、しかも近未来的なSFとバロック的なモチーフが融合している事例、つまり私が「サイバーバロック」と呼ぶ事例を紹介していってみよう。
まずかなり意図的にバロック的なモチーフを利用しているように思えるのは、ゴンゾ制作のアニメ『巌窟王』(2004)だろう。
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巌窟王はアニメーションの出来としてかなり素晴らしいし、この時期のゴンゾのアニメには注目すべきものが多いのではあるが、ここでは巌窟王のサイバー要素とバロック要素について簡単に紹介したい。周知の通り、巌窟王とはデュマのモンテ・クリスト伯であり、このアニメはその翻案なのであるが、複雑なことにもともとこの企画はアルフレッド・ベスターの『虎よ、虎よ』のアニメ化を目指していたのだ。ベスターをアニメにしようとするゴンゾの気概には目を見張るものがあるが、著作権上の理由から結果として、実際にはベスターの『虎よ、虎よ』がモチーフにしていた『モンテ・クリスト伯』を原作としたアニメ化になった。
しかしながら、もちろんモンテ・クリスト伯を忠実に再現するというより巌窟王は大胆な翻案がなされており、舞台は月への植民や惑星間移動が可能になった未来であり、ロボットによる戦闘シーンがあったり(一回だけだけどw)、ベスターの作品にあった要素も取り入れようとしている。モンテ・クリスト伯が屈辱から復讐を目指す主人公の視点から描かれるのにたいして、アニメの巌窟王は復讐される側の貴族の息子アルベールの視点で描かれるなど、物語自体の翻案の巧みさなど素晴らしい部分はいろいろがあるが、ここではその映像的イメージと世界観に言及する。
巌窟王は非常に興味深い世界観を、ベスターの翻案にももともとあった近未来的要素と原作の第二帝政期のブルジョワジーと貴族の社会を融合(そもそもベスターの作品自体「ワイドスクリーン・バロック」と呼ばれる)を映像によって表現している。クラシックな車とサイバーなガジェットの同居、オートクチュールの衣装に投射されるテキスタイルのイメージなど、SF的要素とフランスの第二帝政期の雰囲気の融合の果てにある意匠は「サイバーバロック」と呼ぶにふさわしいように思える。もちろん、第二帝政期はオリジナルのバロック時代の絶対王政とは時代がかなり異なるが、その権力の集中と奢侈の文化はバロックと呼ぶにふさわしい。何よりもアニメ巌窟王の公式のキャッチコピーはそのジャンルを「幻想の未来都市パリを舞台に復讐のパンクオペラが幕を開く」(参考HPKADOKAWAオフィシャルサイト)と呼んでいる通り、やはりこの作品にはバロック的要素が根強いのである(オペラと絶対王政のつながりについては適当に調べてください。)。
絶対的な権力の元にある近未来的世界、奢侈の文化、視覚的な未来的派手さ、こういった雰囲気全体がサイバーバロックの特徴だと勝手に妄想している。ただし巌窟王のサイバーな部分は端的に未来的であるという以上にはなく、その点はちょっとうすいけど、まあ長くなったので今回はこのへんで。
この話、反響があればまた書きます。

*1:ちなみに同じ攻殻機動隊でもSACはサイバーパンクだとは思わない。なぜなら、SACの素子は単なる組織の犬であって、原作のマンガや押井守版にあるような個人的な知的好奇心による探求やアウトサイダー的振る舞いをしないからだしかしながら、このことは作品としてのSACの出来を貶めるものではにない。

*2:もちろん、イノセンスの面白いところは、そのような現実と思われた映像描写が実はサイバースペースの中であったことを示す場面にあるが。コンビニでの襲撃シーンやキムの館のシーンなどのループ構造である。