市川大祐の冒険は終わった…17歳で日本代表になった男が引退するまでの知られざる14年

2016年の11月13日に市川大祐選手は引退式を行いました。21歳までの華々しい活躍を知る人は多いと思います。しかし、その後のケガによる不調から調子が上がらずに落ち込んだ時期、30歳を過ぎて初めて清水を離れ、さまざまな人と知り合った2011年以降はあまり知らない人が多いと思います。17歳で日本代表になった伝説の選手の知られざるストーリーは市川選手本人に語っていただきました。 (清水のグルメランチ

市川大祐の冒険は終わった…17歳で日本代表になった男が引退するまでの知られざる14年

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10月29日、市川大祐が引退を発表した。
19年間続いた彼の第1ステージは、今年で終わりを告げることになった。
それは波瀾に満ちた道のりだった。

 

1998年、17歳で日本代表入りし、2002年、21歳でワールドカップに出場する。
だが、それは単なるプロローグに過ぎなかった。
そこからが市川の激動の人生がスタートしたのだ。

 

なぜ25歳、そして29歳の時に、ワールドカップに出場しなかったのか。
もしかすると33歳の時にもチャンスがあってもおかしくない。
なのになぜ、2006年、2010年、2014年の3大会で、市川の姿を見かけなかったのか。

 

実は市川は2003年以降、一度も日本代表に召集されなかった。
ワールドカップに出場する以前の問題だったのだ。
若き天才に何が起きたのか。

 

市川がプロとなって、最初の4年間は有名だ。
だがその後の市川の苦難は、なかなか広く知られることはなかった。
その知られざる期間は、もう14年にもなろうとしている。

 

2002年までの市川は、厳しくも美しいストーリーの中に身を置いていたと言えるだろう。
そして2003年からは別の人生が始まる。
この2つを知ってこその市川のプロ生活というものだろう。

 

知るほどに苦しくなるが、
そんな現実の中に身を置き、
一区切りを付けた市川の姿を記録しておきたい。

(※主にプロデビューから2002年までの活躍について語っていただいた記事もあります。ご覧になりたい方はこちらをどうぞ)

 

来年1年間は膝が持たない、だから引退しようと…

本当はね、今年所属している八戸をJ3に昇格させて、そこで一段落つくかな、と思っていたんですよ。だけど残念なことに昇格できなかった。せっかく新スタジアムもできたのに。来年こそは、何としても悲願を達成しなければいけない。サポーターを何年も待たせちゃダメなんです。

 

そういう状況になって、自分の体を見つめ直したときに、本当に来年1年間もつかどうかわからなかった。去年よりも右膝は痛みが増していて、膝が「ずれる」感じがあり、怖さが出てきました。MRIの画像を見るとそんなに変わっていなかったけど、自分の中ではより悪くなっていた。

 

そういう状態だから、たぶん来年1年間は持たない。なのに、それをごまかして契約すると、結局チームに迷惑をかけるんです。だからこの際、引退しようと思いました。

 

ただ、9月の終わりに止めようという方向で考えがまとまった後も、なかなか言葉を口に出せなかった。決心したつもりでも、それを表に出すまで時間がかかりました。そして今、こうやって自分の気持ちを話せるようになったんです。

 

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八戸の夏は暑くげっそり痩せました

 

25歳で周りが求める自分は捨てました

2002年日韓ワールドカップ――一番憶えているのはベルギー戦の試合前の光景ですね。1998年のフランスでは、メンバー入りできなくて立つことが許されなかった試合のピッチに、自分の力で立てたという思いがありました。その感慨に、流れてくる君が代を聴きながら闘争心に火がついたこと、そしていよいよ始まるんだという高揚感がごちゃ混ぜになっていました。

 

グループリーグ第3戦のチュニジア戦ではヒデさん(中田英寿)にアシストするんですけど、こうプレーしようという考えはなかったんですよ。身体が自然に動いていました。ボールをまたいで、クロスを上げたときにはスローモーションのような感じ。ボールがゆっくり流れていって、そこにヒデさんが合わせた。上げた瞬間に「これは入るな」みたいな気持ちがありました。

 

フィリップ・トルシエ監督も喜んでましたね。僕は監督からかなり文句を言われるほうだったんです。よく小突かれていました。でも、まぁ日本人は大人しいから、「もっと戦う姿勢をみせろ」と求めていたんだと思います。結局、大会はベスト16のトルコ戦で負けてしまいました。ですが、そのときに「自分に何が足りないか」「自分でやらなければいけないことは何か」に気付くことができたんです。だから負けたけれど、その後気力を充実して前に進むことができました。「次のドイツワールドカップこそもっと上に進みたい」と思って、2003年の清水のキャンプインに臨めたんです。

 

ところが、そのキャンプでも右膝半月板を負傷しました。

 

シーズン途中で手術をして、復帰したけれどまだ痛い。シーズン途中には再び傷めてしまって、結局シーズンが終わって2回目の出術をしました。2003年はリーグ戦23試合に出場するのですが、自分としては納得できる内容じゃなかった。出てるんですけど、本当に痛くて。思い描いているようなプレーが全然できなかったですね。

 

それでも何とか2004年のキャンプには間に合いました。そのシーズンに賭けたんです。キャンプは途中までよかったのですが、プレシーズンマッチで右肘を脱臼したんです。腕が完全に逆向いてました。その後調子が上がらず、そのシーズンはリーグ戦3試合にしか出場できませんでした。しかも出た試合で負傷し、その後も違和感が消えず、そこからずっと膝が痛い状態が続いて。あんまり痛いので詳しく調べてみると、今度は左膝の半月板を損傷していました。

 

それがなかなか治らない。そうなると、だんだん気分が落ち込んでいって、誰とも会いたくなくなっていました。ケガの状態がよくなっていけば、まだ希望が持てたんでしょうけど、待っても待っても膝の痛みが取れない。ずっと痛くて、気になって。周りは2002年の、日本代表に選ばれたときのイメージがあるから、いろいろなことを言われましたね。だから練習にも行きたくなかったし、人と会っても話すのを避けてました。本当に苦しかったですね。何より自分に2002年が終わって、いろいろ思い描いていたことがあったのに、それが一気にできなくなった。それは本当に苦しかったです。本当に苦しかった。

 

秋口に、大木武さんに電話しました。自分の気持ちを話してちょっと楽になったんです。ただ、当時の大木さんは心配してくれたけど、別のJクラブのユースの監督だっので、結局は自分でやるしかない。そして自分で決めるしかないんです。

 

だから僕はもし2005年が終わったとき、「もし2004年のような状態だったら引退しよう」と決心しました。2005年シーズン、24歳で引退かって、ちょっと感じる部分はありました。2002年のワールドカップが終わって、2年でダメになったのかって。でも、その当時の状態でやれるほどプロは甘い世界じゃないってわかってましたし、自分でも続けるのは無理だと思っていましたから。

 

だけど、その勝負と思っていた2005年、転機が訪れました。長谷川健太新監督が就任して、「イチを復活させる」と言ってくださったんです。それでもシーズン始まるときは不安でいっぱいでしたね。膝もまだ痛いし。けれど、ケンタさん(長谷川健太)が言うならやらなきゃいけない。そしてケンタさんは僕にブレーキを踏ませてくれなかった。

 

ケンタさんは、僕の調子がよくないからとサブでスタートさせるという選択をしなかったんです。先発に名前が入っていて、お前しかないだろうって目で合図される。まだ自分でやれるという自信がない中で、ケンタさんが背中を押してくれたというか、引っ張ってくれたというか。もうやるしかなかったです。ケンタさんも最初はなかなか結果が出なかったから、自分自身で「まだまだ」だと思っている僕を使い続けるのは大変だったと思います。それを我慢して使ってくれてるのがよくわかりました。

 

だから強い気持ちを持つしかなかった。やらないでそのまま終わるのか。終わるんだったらやるしかないって。でもそれがよかったんです。ケンタさんが使い続けてくださったんで、自信が少しずつ戻ってきました。自分の中でも2005年は過去一番リーグ戦で出ているんです。最後の広島戦で交代したからフル出場はなりませんでしたけど。そのときのコーチが、元チームメイトのサントスでした。サントスの存在が一番大きかったですね。常に僕に対して自信を与えてくれた。清水では「プロを知りたかったらサントスを見ろ」といわれていた人でしたからね。その人の支えは強かったんですよ。

 

ただ、僕の調子はぐっとよくなったわけじゃなかったんです。まだ苦しいことの方が多かった。そのときに思いました。「2002年の自分のイメージは忘れよう」「もう自分のよかった状態のことを見るのは止めよう」って。そして「自分がやれることを一歩ずつ確かめていこう」って。

 

今日一日、練習が全部できた。それをよかったと喜ぼうって。そこからでした。2日間練習ができた、1週間できた。走る喜び、蹴る喜び。毎日練習ができる喜び。周りの人からは全然変化なんてわからなかったかもしれないけれど、自分としては毎日数センチずつ進んでいく感じだったんです。僕は周りの声を一切聞きませんでした。周りが求める自分は捨てました。25歳ですね。

 

30歳で契約満了、清水を離れ新しい世界へ

2006年、ドイツワールドカップが近づいていたけれど、僕はもうあまり意識していませんでした。2002年以降、ずっと代表には選ばれてなかったですからね。2006年は常に目標として頭の中にあったんですけど、2003年から2005年を考えたときに、プレーができているという喜びのほうが大きかった。そしてまだ自分としてはもうひとランク上に上げられるというか、まだ上があるとも思ってましたし、そうでなければ代表に入れないだろうと思っていました。そしてそのレベルまで自分を今、上げようとしたらもう自分が持たないと思っってました。だから2006年は、悔しさとはまた別の感情を持って見ていました。今の代表選手のプレーや、いろんな国の選手を見て、こういうプレーをするんだとか。

 

とにかくその時点での僕は清水でいいプレーをすることが大切でした。ケンタさんが就任した後は若手選手がどんどん育ってきた。そして6年かけてじっくりチームを作り上げていったと思います。岡崎慎司、藤本淳吾、本田拓也、兵働昭弘たちがいた清水らしいチームでした。

 

ですが2010年、長谷川監督がチームを去るのと同時に、30歳になった僕も契約満了となりました。実は30歳になるまで清水から出たことがなかったんです。清水を離れることになったのは、本当に辛かったですね。けれど、今振り返ると、そこからいろんなチームに行っていろんな方に会えた経験は本当に大きいと思うんです。ずっと清水にいたらそれも素晴らしかったんでしょうけど、またこうやって新しいことを感じたり見ることができたんですよ。

 

2011年、僕は甲府でプレーすることになりました。甲府と清水はすぐ近くでしたから、安心ではありました。ただ、甲府に行って清水の環境がすごく恵まれていたことを感じました。自分たちが当たり前だと思ってたことが当然のことじゃなかった。クラブハウスがあるとか、練習場を持っているとか、医療機器やトレーニングルーム、お風呂やシャワーがあるのは当たり前だと思っていましたから。それに飲み物が違いましたね。清水では、ピッチサイドのボトルに水とスポーツドリンクに加えて、お茶が入ってるボトルもあるんです。それは清水だけかもしれませんね。土地柄です。

 

甲府には清水よりも優れていたこともありました。練習後に冷えたフルーツが用意されるんです。清水にいたときも、練習後には剥いたオレンジがいつも用意してありました。ところが甲府では、クーラーボックスにぶどうや桃、サクランボウもありましたね。練習直後に冷やされた桃の皮を剥いて食べるんですよ。最高でした。

 

2011年、甲府に来ていろいろ違いを知ると、今までの自分たちの環境に対する感謝が湧きました。そしてそれ以上に、自分がまだサッカーがやれるということへの感謝がありました。甲府は甲府の良さが凄くあって、今まさにクラブを作り上げつつある、これからもっと大きくなっていくという途中だったので、そういう楽しさはありました。

 

ただ、チームの調子はあまりよくなくて結局降格してしまうんです。僕は契約満了となり、それでトライアウト受けました。

 

実はトライアウトの前に水戸からオファーは頂いていました。ですが、今の自分をしっかり見てもらわなければいけないと思ったんです。昔のイメージの僕じゃないって知ってもらわないといけないって。僕のことをいろんなチームは知ってるけど、今の自分を知ってもらう、見てもらわなければいけないので。今の僕を見て、それでもよければどうかプレーさせてくださいという気持ちだったんです。

 

できればトライアウトを受けたくないという気持ちはありました。ギリギリまでできるなら受けたくないと。「市川もトライアウトに出てくる選手になった」と言われることは想像できました。でも、今の自分、僕のサッカー人生は間違いなくこれだったんです。そう考えたとき、自分で感じて思ったことをやるっていうのが大切だと思って。出たことで、いろいろなマイナスの感情を超えられたと思います。だから出たことでスッキリしました。終わった後で「本当に出てよかった」と思いましたもん。それも2005年の時の、一歩ずつ重ねた試練を乗り越えられたからだと思います。あのとき苦しんだから、乗り越えられたんでしょうね。

 

それから水戸でプレーさせてもらうことになりました。2012年、水戸では32試合出場したのです。ところが最後は膝が痛くなって水も溜まり始めました。だから最後は厳しかったですね。2003年に傷めたところです。軟骨はあるんですけど、損傷していて。だからもう翌年の契約はないだろうと覚悟してました。実は最初2年契約って言われてたんですけど、お願いして単年度契約にしてもらっていたんです。2年契約しても、膝のケガがあるんで2年目にプレーできるかどうかわからない。プレーできないのにチームに在籍するっていうのも違うと思ってたんで。

 

2012年のシーズンオフに、僕は清水でチームメイトだった斉藤俊秀さんに相談していました。このままプレーを続けるのか、引退するのか気持ちがまとまらなくて。そんなモヤモヤした気持ちを、理路整然としたトシさん(斉藤俊秀)に聞いてもらおうと思ったんです。そうしたら斉藤さんはその日の夜に会おうって言ってくれました。トシさんがいろいろアドバイスしてくれました。とりあえず今はゆっくりして、そこで最後に残った気持ちが大切だよって。そしてそれが「プレーしたい」という気持ちなら、トシさんがプレーイングマネージャーだった藤枝で一緒にやらないかって言ってもらいました。

 

だけど、最初はなかなか返事ができなかったです。膝のことがあったんで。やるとなったら膝を手術しなければいけないのはわかっていました。それを認めてもらえるかどうかもありました。だからトシさんに正直に「プレーしたいけれど、この膝をよくしたい」と言ったんです。それで了承してもらって、膝の移植手術をしました。

 

軟骨の悪い部分を除去して、別の所の軟骨をもってくる。ドクターからこの手術はサッカー選手としては初めてと言われましたね。そしてよくなるけど、リハビリを頑張らないと復帰できる保証はないと宣言されました。手術して6カ月ほどリハビリにかかりました。楽じゃなかったですね。必死でリハビリをしてやっと試合に出ることができたんです。その復帰戦が天皇杯の清水戦、日本平でのゲームでした。その試合で初めてベンチに入って、後半残り15分ぐらいから出ました。日本平でまたプレーするなんて、運命を感じましたよ。

 

ところが藤枝の2年目、2014年は、膝はよくなったものの、筋肉系のケガが続いたんです。筋肉系だったんで治るだろうとは思っていましたが、そろそろ藤枝から次のステップに進まなければ行けないとも感じていました。

 

だから自分からクラブに辞めると告げて、そのあと半年間、自分でずっと練習していたんです。ひたすらトレーニングを積んで身体を作って、いつチャンスが来てもいいようにと備えていました。草薙のサブトラックに毎日行って、トラックを走ってたんですよ。サッカーをやる場所はなかったですね。芝生の広場に行って一人でドリブルしたり蹴ったり。

 

先が見えない中だったんで不安は大きかったですね。収入もなくなったし。それでもJ1時代から知っている方々にいろいろサポートもしてもらったり、実家も近かったんで親にもサポートしてもらってました。だからできたと思います。誰も焦らせるような言葉は言わなかったし、温かく見てもらってました。

 

岡田武史氏からの電話で今治へ、そして八戸での引退

そうしたら2015年の5月、6月ぐらいに知らない番号から電話がかかってきたんです。出たら「岡田です」って。その瞬間に直立不動ですよ。岡田武史さんですから。「あ、ご無沙汰してます。お久しぶりです」って。そこで岡田さんから「FC今治でやらないか」って言ってもらったんです。まずお話を聞かせてくださいって、すぐ今治に行きました。すると岡田さんが自ら車で練習場とか試合会場とか、今後スタジアムの建設を考えているところとか案内してくださいました。今後の構想を聞かせていただいて「ここでプレーしたい」と思うことができました。

 

チームの最終目標は、地域リーグの決勝で勝ってJFLに上がることでした。その地域リーグ決勝は3日連続で試合をする大会です。どうして世界一過酷な戦いだって言われているのがわかりました。だって普通は試合から試合までは48時間空けますからね。でも、そういう中でもう一度燃えるような思いでプレーできました。

 

ただ、予選リーグを突破できませんでした。JFLに行けなかったのは残念で自分としても悔しかった。そして今治は半年契約で、僕自身も上がれなかったら終わりだろうと思ってました。上がれなくて本当に申し訳なかったです。結果が出なかったことがすべてでしたね。

 

それでも個人的には2試合目、3試合目に90分プレーできたことが自信になったんです。さらに2試合ともアシストできた。またサッカーやっている喜びを強く感じられましたね。FC今治の契約が満了になり、これで自分のプロサッカー選手生活も終わりかって覚悟もしました。それでも90分を連続2試合できたという自信もついて、まだサッカーをする場所が見つけられるんじゃないかと思ってました。

 

すると八戸から声をかけてもらったんです。必要としてもらえる喜びはありましたし、八戸は去年、JFLファーストステージに優勝したのですがスタジアムの問題で昇格できなかったんです。でも、もうスタジアムができるし結果次第で上がれる。そういうやりがいがあるところなんです。声をかけてもらってすぐ八戸に行って環境も見せていただきましたし、みなさんの人柄にも触れて、「ここでプレーしたい」と思うことができました。

 

これまでの移籍でラッキーだったのは、どこも海産物が美味しかったということですね。清水は港町ですし、最初に移籍した甲府も、マグロの消費量が静岡に次ぐぐらいなんですよ。だから食事が大きく変わるということがなくて、安心しました。水戸も海があって環境はほぼ一緒です。食べられなくなったというものはありませんでした。

 

僕はその土地の名産を食べるのが楽しみだったんです。だから自分でいろいろ携帯で調べて、どんどん新しい店に行ってました。甲府にいたとき美味しかったのは、ほうとう、吉田うどん、鳥のもつ煮。水戸はお寿司屋さんと仲良くなって、いろんなお寿司を食べさせてもらいました。王道の寿司が美味しいんですよ。

 

今治では住んでいるところのすぐ近くに小料理屋さんがあって、そこに通っていました。カウンターにお番菜みたいに7、8品並ぶんですよ。それ以外に黒板にメニューが書いてあって。バランスよく自分で取って。八戸では自分でサラダだけ作ってから外食しようと思っています。どうしても外食すると野菜が少ないですから。スーパーでレタス、トマトなんかを買って料理しようと思ってるんです。そういう管理は若い時からやってきましたからね。

 

食生活に不安は無いのですが、膝にはずっと不安がありました。自分ではやれると思っていましたが、なかなか先はわからないし、ケガは突然やって来るから。だけどサッカーに対する気持ちは17歳の頃から変わらなかった。だからJFLでやっていても、負けた試合は無茶苦茶悔しいし、勝てばものすごくうれしいし。J1でも地域リーグでも変わらないんです。環境もスタジアムも観客数も違うけど、喜びは年々増していた。

 

自分がなかなか結果を出せないから、いろいろチームを渡り歩いたと思っています。その悔しさはありますが、年々プレーできる感謝の気持ちが強くなっていました。自分がプレーができる、好きなことができる場所があった。いろいろなところで支えてくれる人がいる。若い頃から「いろいろ感謝しろよ」「人と会うのは大事だぞ」「人脈大事だぞ」と言われ続けて、何となくわかってたんですけど、年齢を重ねてその言葉の深さを感じるようになりました。また何年後かには、今まだわかっていない深さがあったと思うんでしょうけど、それでも今強く深く感じてます。

 

現役生活を19年やってきましたが、1年として同じ時間はありませんでした。ずっと目の前の1年をやり切ること。それがないと先は考えられないと思っていました。思い描くことはありましたが、その考えと現実は違いますから。だからしっかり現実を見据えて。そして自分の足でしっかり進んでくることはできた思っています。

 

プロ選手を辞めた後に何をするか、実は何にも決まっていません。何か決まったから止めるんじゃないんです。まずはやりたいことを見つけて。ちょっとゆっくりします。

 

今の自分から、1998年の開幕前の自分にアドバイスができるとすれば、「一つひとつの積み重ねが大事。焦らず、自分のペースで」と言いたいですね。確かに自分のペースじゃなかったですよ。高校3年生になる春休みに、いきなり韓国戦でしたから。

 

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こちらの名物は五戸の馬肉鍋。みなさん、ぜひ食べに来てください

 

市川大祐 プロフィール

f:id:g-gourmedia:20161114113428j:plain清水エスパルスの下部組織から1998年にトップ昇格しJリーグデビュー。同年、岡田武史監督によって日本代表に選出され、17歳322日で日本代表として国際Aマッチデビュー。

2002年にはトルシエ監督が指揮するW杯日韓大会に出場。

2016年からはヴァンラーレ八戸に所属し11月13日に引退式を迎えた。静岡県出身、1980年生まれ。

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。

ブログ:http://morimasafumi.blog.jp/

                             
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