松尾匡のページ

12年2月20日 いわゆる「政府の失敗」論は何を問題にしていたか



 前回のエッセーで触れた「父母教育後援会」の表彰論文の審査。こりゃ学術誌のレフェリーか学会発表のコメンテーターかってな仕事になりましたよ。グラフや数式をワープロ書きしてたらどれだけ時間がかかるかわからないと思ったもんで、最後は、鉛筆手書きしたやつを速達で送るほかないと、住んでる町の郵便局の向かいにあるファミレスで作業して、できたーっと郵便局にかけこもうとしたら...もう時間切れで閉まってるじゃないか。と、ちょうどそこに、職場から帰宅したばかりのカミさんから「今どこにいる」と電話がかかってきたもので、拝み込んで久留米郵便局の本局に車で連れていってもらい(ボクは免許持ってないのだ)、なんとか間に合ったのでした。ここまでやる必要もないとは思ったのですけどついつい...。
 そのあと、22日と24日の商人道講演用のパワーポイントファイル作成にかかり、これも17日には完成。翌18日は久しぶりに午前中寝倒して、夕方からはカミさんが職場の同僚から借りてきた「三国志」のDVDを見てすごすという、近頃滅多にない本当の休日になりました。
 本当は新書原稿を書かないといけないのですが、なかなか進まないので、ちょっと最近考えていることで昨日からエッセー更新作業。
 前回のエッセーでも紹介した、田中秀臣さんとの対談で話題にした、「リスクと主権と責任のバランス」の問題ですけど、これでもって、いわゆる「政府の失敗」論が本当に言っていることは何かということを整理してみたら、世の中での理解のしかたは大いなる誤解だったとわかるという話です。

【いわゆる「政府の失敗」とその理論化の時代】
 1970年代に、先進各国ではスタグフレーション(不況下のインフレ)が進み、財政赤字も膨らんで、それまでのケインジアン政策が行き詰まりました。ケインジアンって「ケインズ派」ってことですけど、ここでは、公共事業とか福祉とかに政府支出をバンバンして景気をよくしようという政策をさします。同時に、国営中央指令経済をとるソ連や東ヨーロッパでは、経済の停滞が進行していきました。
 これが「政府の失敗」と呼ばれます。ケインジアンの経済理論や国営中央指令経済システムはこんな「政府の失敗」をもたらしたのだ──こう批判する経済理論が、1980年代くらいから受け入れられていきます。シカゴ大学のフリードマンらが先鞭を切り、サプライ・サイド・エコノミクス、合理的期待形成学派などがケインジアン批判を進め、その結果「新しい古典派」と呼ばれる潮流が学会を制覇しました。それは、民間人の自由な経済活動にまかせておけば、市場メカニズムが自動的に働いて調和するというもので、政府が経済に介入する政策は有害無益だと言います。思い起こせば、これはかつてハイエクが、ケインズや社会主義に反対して声高に主張していたことでもありました。
 このような理論のお墨付きを得て、1980年代から世界中で、市場の自由化・規制緩和、民営化、財政支出の削減を押し進める政策が取られるようになったわけです。いわゆる「新自由主義」政策ですね。ソ連や東ヨーロッパでも、1980年代を通じて、なんとか停滞を打破しようと、市場メカニズムを取入れる改革が進められたのですが、やはりうまくいかず、とうとう1989年には東ヨーロッパで、1991年にはソ連本体で、国有経済体制は崩壊しました。そして、民営化、市場の自由化が進められたわけです。これも、どうしてうまくいかないかが、コルナイらによって明らかにされました。
 この動きが、その後全地球的規模でさらにどんどん強まっていったわけですね。
 こうした動きは、「大きな政府から小さな政府へ」とか「社会主義から資本主義へ」とか「左から右へ」等々と、世の中では意識されました。お金持ちや多国籍大企業などの強者がこの動きに乗っかって、「働く者や社会的弱者に配慮した経済システムから、お金持ちや大企業に有利な経済システムへ」という動きとして推進されました。競争がなくて甘やかされた世の中はうまくいかないから、競争の勝者が十分に報われるようにしよう、そうやって国際競争に打ち勝てば、経済が発展して社会的弱者にも恩恵が降りてくると言われたりしました。
 この結果、世界中で格差や貧困、過重労働などが問題として吹き出してきたわけですが、そうすると今度は、「政府の失敗」論の論点そのものが批判される動きも出ています。
 しかしこのような解釈は「政府の失敗」論が本当に言っていることを正しく反映したものだったのでしょうか。

【ベーシック・インカムは「大きな政府」か「小さな政府」か】
 例えば「ベーシック・インカム」って制度が提案されていますね。英語を知らない人はたくさんいますから、誰でも意味の見当がつくように、なるべく和訳で呼ぶのがいいと思いますので、以下では「基礎所得制度」と言っておきますが、生活していけるだけの「基礎所得」を全員一律に公的に給付する制度です。
 そう聞くと、究極に平等を重視する「大きな政府」の考え方だと思いますか。保守派、右派の人たちの中には、聞いただけで嫌う人も多いでしょう。

 ところがこれ実は、典型的な「小さな政府」論者の、フリードマンが提唱していた「負の所得税」と数学的には同じです。違いにこだわる人もいるのですが、呼び方は何であれ、実際に制度として導入される時には、一番事務手続きが簡単になるようにするので、結局は同じものになります。かの「ホリエモン」も提唱しています。
 そう聞くと、左翼側には、これがあれば他の社会保障はいらないだろうってことで、福祉削減の手段にするつもりだろうと警戒する人が出てきます。たしかに、フリードマンは、これでいろいろな福祉制度はなくして、一本化することを主張しています。しかし、左翼側が圧倒的に弱い現状では、どんな社会変革を導入しても、現実にはブルジョワ側に都合のいいヘンテコなものになってしまう可能性が高いわけで、そういう力関係上の問題を持ち出すのは原理原則の批判としては的外れだと思います。
 小沢修司さんは、一人月8万円の給付は、給付前所得税率45%でまかなえると言います。そうすると乱暴な単純計算では、一人月16万円の給付を税率90%でまかなう制度もあり得ることになります。他方で、雀の涙のような基礎所得を給付して、税率は今よりずっと低くする基礎所得制度も考えられるわけです。つまり、基礎所得制度そのものは、「大きな政府」にもなるし「小さな政府」にもなる。どっちになるかをめぐる闘いはもちろんあるでしょうが、基礎所得制度そのものが原理的にどうなのかということをめぐる論点はそこにはないということです。

【行政に状況に応じた胸三寸の判断をさせるかどうかの違い】
 実は基礎所得制度は、現行生活保護制度などの「措置制度」に対する批判として出てきたのです。「措置制度」というのは、人が直面したいろいろな事態に応じて、その人の必要を行政が判断して、必要な措置をとるという原理のことです。現行生活保護制度は、生活保護を下さいという申請があったら、本当にその必要があるかを行政が審査するわけですね。収入が本当にないのか、本当に働くことができないのか、資産は持っていないか、最低限度を超える生活はしていないか等々。そして、給付が始まったらずっとこの基準を満たしているかどうかが監視されて、ちょっとでも基準をはみ出したら打ち切られてしまいます。日本の場合、往々にしてこの審査が人格を否定するような屈辱的なもので、その後も私生活が縛られ、役人が生殺与奪権を握っていることをいいことに母子家庭のお母さんの身体を搾取するとかいうこともよくあって、それがいやで受給資格が本当はあるのに申請しない人がたくさんいます。
 最近ではこんな事件もありましたが。
http://blogos.com/article/30215/
 その一方で、ヤクザには簡単に生活保護が出たりするわけです。それに、ちょっとでも収入があると打ち切られるならば、稼げる条件ができても稼がない方がマシになってしまいます。

 ハイエクとかフリードマンとかの本当の自由主義の精神からすれば、これは許し難い事態でしょう。この立場からすれば、行政にあれこれの状況に応じた判断をさせるから、こんな個人の自由へ侵害がおこるのであって、そんな判断が入らないように一律に配ってしまえということになります。
 徹底した自由主義の立場の人は「リバタリアン」と呼ばれますが、この立場からすると「大草原の小さな家」が理想なわけです。無主の荒野(本当はアメリカ原住民のものだったのだがその話はまた別のこととして置いておいて)を誰もが自由に開墾し、たくさん食べたい者はたくさん働いてたくさん収穫を得て、自由時間が大事な人はほどほどに働いてほどほどの収穫で自由時間を享受する。そんな人がいろいろあっていいということです。実は正反対の立場と思われているマルクスが再建を目指した「個人的所有」の原初状態もこれですね。
 ところが現実の工業社会や都市生活では、万人が耕せる無主の荒野があるわけではありません。働きたくても働けないことはいくらでもある。だから最低限の生活を支える仕組みを作って、「大草原の小さな家」の世界を人為的に作りましょうということです。これが基礎所得制度の本質なわけです。現行生活保護制度と違って、税率がどうあれ、稼げば稼ぐほど実入りが大きいことに違いはありません。その中で、どれだけ稼ぐかは自給自足の農民同様に各自が自由に選べるわけです。
 この支えが、どれほど手厚いものにするかをめぐっては、「財界側vs左派側」といった対立があるでしょう。しかし、基礎所得制度の根本精神を受け入れるかどうかということは、「財界側vs左派側」といった対立とは無関係なのです。

 左派側からの基礎所得制度に対する批判の中でも、原理的な批判は、本来措置制度は望ましいものだという批判です。人々のいろいろなニーズに合わせて、行政が適切に配慮して措置することは望ましい目指すべきことだという立場です。いわゆる「左右」にかかわらず、この点に基礎所得制度をめぐる本当の対立点があり、「政府の失敗」論は、この点で措置制度を批判して一律で手心の余地のない基礎所得制度を提唱する立場にあるわけです。
 これはボクの考えなのですが、基礎所得の給付を、物価にかかわらず金額で固定して、おカネを作ることでまかなったとしましょう。そして、税収の方は、決まった支出は別にして、吸収してしまって世の中に出さないことにします。そうすると、不況で失業者が多くなって税収も少ないときには、おカネの発行が吸収よりも多くなってデフレ脱却、景気回復に役立ちます。逆に景気が加熱しているときは、税収が増えて吸収されるおカネが発行よりも多くなってインフレを抑制し、経済を冷やすのに役立ちます。特に、超完全雇用になってもなお需要が旺盛でインフレが進んでいるときには、基礎所得の実質的な価値が目減りして、生活を補うために労働供給が増えますので、需要超過を解消する方向に働きます。
 このような自動調節的性質も「政府の失敗」論の言っていることに合致しているのだと思います。

【「政府の失敗」論は不況対策を否定しているか】
 以前のケインジアンは、「大きな政府」を唱えて、不況になったら政府が積極的に不況対策をとって、総需要を拡大させ、景気を拡大するべきだと言っていました。
 フリードマンたちはこれを批判したわけですが、では、不況になってもそのまま放っておくべきだと言っていたのでしょうか。実は、フリードマンは、1929年の世界大恐慌と引き続く大不況の原因を、必要な景気対策をとらなかったことに見ています。もっと中央銀行がたくさんおカネを出すべきだったにもかかわらず、おカネを出すのを引き締めてしまったと。
 フリードマンが「政府の失敗」を見て提唱しているのは、政策をとるなということではなくて、「裁量からルールへ」ということです。「裁量」というのは、そのときそのときの状況に合わせて担当官が適切な政策を自由に選ぶことを指しているのですが、これをやめて担当官のさじ加減の効かない「ルール」にするべきだと言うわけです。
 でもこのことは、状況に合わせてそのときそのときに適切な政策をとることを否定しているわけではないのです。フリードマンは、貨幣供給量を年一定の決まった率で増やしていく「k%ルール」というのを唱えていたのですが、これは、中央銀行が何も判断せずに自動的に一定率の貨幣を発行していくという意味ではありません。「貨幣供給量」というのは世の中に出回っているおカネの量のことですので、景気がいいときには、民間の銀行が貸出を増やして貨幣供給量は増え、景気の悪いときには、民間の銀行が貸出を減らして貨幣供給量は減ります。だから、一定の率でそれを増やしていくためには、景気のいいときにはおカネの発行を引き締め、景気の悪いときにはおカネの発行を増やさなければならないのです。ただ、その政策の基準が明確で個人の判断の違いが入り込む余地がないところが要点なのです。
 このような主張の根拠には、消費者や企業経営者などの経済行為にとって、将来の予想がとても重要な影響を与えることが認識されるようになったことがあります。これがフリードマンから、合理的期待形成学派に受け継がれ、新しい古典派の方法論の要になった考え方です。政府が、勝手な判断で政策を決めていては、将来がどうなるか民間人がちゃんと予想できないことになってしまいます。そんなリスクがあると、市場メカニズムが正常に働かなくなります。だから、担当官の恣意が入らない明確なルールで経済政策をとって、ちゃんと将来予想がつくようにしましょうというわけです。

【インフレ目標政策はルールで予想を確実にする景気対策】
 だから、これらの論点は、彼らの市場万能論や政策無効論とは何の関係もなかったわけです。
 その後復活した新しいケインズ理論は、人々の将来予想が自己実現されるという新しい古典派の理論の枠組みをそのまま使って、デフレ不況が持続して世の中の生産能力が無駄に余らされてしまう事態を説明できるようになりました。
 この立場の論者は、ボクも含めて、積極的な経済政策によって総需要を拡大して景気を拡大させる政策を提唱しています。そこで提唱されている政策は、みなさんご存知の通り、「インフレ目標」を定めて、それを実現するまで中央銀行がバンバンおカネを出していく政策です。こないだアメリカの中央銀行であるFRBがとうとうこれを導入したので、今までかたくなにこれを拒んでいた日本銀行も、とうとうインフレ目標めいたものを決めました。こんどばかりはアメリカ追従で本当によかったです(アメリカの方が追従したと言っている人もいるみたいですけど)。この程度ではまたどんなしょぼい回復になるかはともかくとして、これで来年の今頃にははっきりと景気回復の数字が出ているでしょう。中国がコケるのだけが懸念材料ですが。

 この「インフレ目標」というのも、人々の将来予想を確定させる政策という意味で、まさしく「政府の失敗」論の本当の要点に則っているわけです。
 これも一種の「ルール」です。中央銀行の胸三寸で勝手に変えることができるわけではないのです。だからこそ人々の予想を定めるのに役立つわけです。しかし、だからといってそのときそのときの状況に合わせた政策判断を否定しているわけではなくて、景気が悪くてデフレになったらインフレ目標に近づけるようにおカネをたくさん出す、景気が好くなりすぎてインフレが目標を超えて高まったら、またインフレ目標に近づけるようにおカネを引き締めるという、機敏で断固とした政策を要求するものです。
 だから、将来予想の重視とか、恣意性なき「ルール」政策志向という「政府の失敗」論の論点を受け入れることは、「小さな政府」とか経済自由放任政策とか総需要拡大政策反対とかインフレ悪魔論とかとは全く関係がなかったわけです。おカネを積極的に出して景気を好くする政策だってここから出てきたわけです。

 さらに言えば、ボクはそれと並行して最低賃金の引き上げスケジュールを示すことを提唱していますが、これも、将来のインフレ予想を確かなものにするためです。それに、失業いっぱいの中では、景気が回復しても労働市場が締まってくるまで時間がかかりますから、多くの人々は財の物価上昇予想を抱いても賃金の上昇予想は抱かず、将来苦しくなるのに備えて貯蓄しようとするかもしれません。そうしたら消費が減って景気が悪くなる原因になりますから、そうならないように賃金上昇の予想も抱かせるという効果もあります。
 このことについては、インフレ目標を提唱する人たちの間でも、財界側に近いか労働側に近いかによって、もちろん意見の対立があるでしょう。しかし、将来予想の重視とか、恣意性なき「ルール」政策志向という「政府の失敗」論の論点はともに受け入れているという点では、ともに、昔のケインジアンとは違うということになります。

 ちなみにこの立場からすれば、中央銀行が「成長分野はどこか」などと勝手に判断して、あれこれ特定のところに資金を流そうとすることは言語道断ということになります。新しい古典派の言い回しでインフレ目標政策を拒みながら、そんなことに手を染めていた中央銀行があったやに記憶していますが、新しい古典派の何が貢献だったかを理解していない政策だったと思います。

【ハイエクが必要と考えた「国家」とは】
 これは、自由主義の旗手ハイエクが「国家」というものをどう位置づけていたかを見てもわかります。
 ハイエクは、あれこれの権力者たちが恣意的な判断をして動かす国家を忌み嫌っていたのですけど、国家が不要と言っていたわけでもありません。ハイエクが必要と考えた国家の本質は、やはり「ルール」です。市場取引の場を提供する「取引ルール」なのです。特に、民法。それから商法など。要するに私法の体系です。あと度量衡とか。
 これらは、明文化された法律自体というよりは、その背後にある不文の法の方が大事です。無数の市場取引がなされて、判例が積み重なるうちに形成されてきた不可視のルールがあるというわけです。法律はこれの「現れ」なんですけど、政治家たちはこれを書き表すときに、生身の判断が入ってズレちゃう。だけど、背後の「法」自体は、政治家たちが束になってかかっても勝手に変えることはできないものだというわけです。
 だから、ハイエクの国家観のイメージの中心にあるのは司法ですね。特に民事裁判です。

 このハイエクの国家観は、民族的な伝統や慣習を重視するナショナリズム思想みたいに解釈されたりもしますが、全く違います。市場取引の場があって、その中でそれをスムーズにいかせるために、取引ルールが形成されていくわけです。だから、市場取引の範囲に合わせて、このルールがカバーする範囲も変わっていかなければなりません。国民国家の国境にとどまるものではないのです。
 それゆえ、市場取引の範囲が国境を超えたものになれば、必然的にハイエクの意味での「国家」もまた国境を超えたものになります。EUが統合して、民法ルールが共通のものにすりあわせられたことは、その意味で当然だったと言えます。イギリスのサッチャー首相は、ハイエクらの「政府の失敗」論の思想を旗印に掲げて、民営化や規制緩和などの新自由主義的改革を徹底して導入したのですが、最後にはEU統合に逆らって失脚しました。実はハイエク思想など全く理解していなかったということでしょう。
 現在、EUにとどまらず、世界中でいろいろな分野での取引ルールの国際的すりあわせや統合が進んでいますが、ハイエクの立場に立てば当然のことと言えます。

 注意すべきことは、ハイエクの考える取引ルールの中に、「工場法」も含まれているということです。労働時間の制限などの労働基準を定めた法律です。今日では、環境保護基準や食品の安全基準なども含まれるでしょう。どれも全体の利益のためには高い基準があった方がいいのですけど、自分の企業だけが守っていたのでは競争に負けてしまいます。だから全体でルールにしておく。
 今日ではこれらもまた、世界的にすりあわせなければならないでしょう。
 ここでも、どれほど高い基準を定めるかということをめぐっては、財界側と労働側の闘いがあるでしょう。ハイエク主義だからと言って、労働基準をなくしてしまうんだということにはならないわけです。労働基準が高いと国際競争で不利になるならば、国際的に高い基準をルール化しようという志向だって、同じ発想からでてくるのです。

【なぜ自由な市場にまかせ、国家は手を出さないのか】
 ハイエクが自由な市場にまかせるのが望ましいと言ったわけは、消費者のニーズとか、生産のための技術とかについての情報が、場末の一人一人の人の現場に、ときには言葉にすらできない形で偏って存在していて、どんな頭のいい中央政府でも、そんなものを把握することは不可能だからです。こんな中では、現場の情報を知っている各自が、その情報を自分のために最大限利用して、その成果を交換するにまかせるしかないわけです。
 それなのに、中央政府が、必要な情報を把握できもしないのに、「あるべき状態」を白紙に設計して人々に押し付けるならば、思いもよらないことが起こって人々に被害をもたらすリスクが大きいです。そんな「設計主義」はいけませんというわけです。
 これは、ナチスやケインジアン政策にもあてはまる理屈なのですが、主にはソ連などの国営中央指令経済を批判するために言っていたことでした。だったら国有だとしても、市場メカニズムを導入して、各企業が現場の情報に基づいて自立的に判断して商売できるようにすればいいのかということも思い浮かびます。しかし実はそれでもうまくいきませんでした。

 それを分析したのがハンガリーの経済学者のコルナイでした。
 ソ連型体制崩壊の原因は、俗には「競争がないからみんな怠けてしまった」などと解釈されていますが、そんなことは本質的ではありません。出世競争はたいへん熾烈でした。スターリン時代は命がけでした。経済的にうまくいかなくなった一番本質的な原因は次のことです。
 ソ連や東ヨーロッパでは、同じ産出をするのに抱え込んでいる資材や設備の量が、西側資本主義国よりもずっと多かったのです。これは、国から急なノルマの変更などがあったとしても、簡単に超過達成してボーナスがもらえるように、経営者が日頃から大目に資材や設備を抱え込もうとしていたからです。市場メカニズムの導入が進むと、なおさら過剰な設備投資に走りました。
 国有企業で倒産はないし、失敗して赤字が出ても経営者が自腹で責任を取るわけではありませんから、こんなことになるのも各経営者の合理的振る舞いの結果なのです。このために、経済全体で、生産資材や設備を生産するために労働などの資源がたくさん割かれて、消費財に割かれる資源は世の中の必要よりも少なくなってしまいました。それで、慢性的な消費財不足になってしまったのです。
 だから、在庫投資や設備投資の決定をする人は、そのリスクをかぶる責任を負わなければならない。そうじゃないと、非効率な決定でもどんどんやってしまうということです。

【民間人が自由な判断をしてリスクをかぶる。政府はリスクの元にならずリスクを減らす。】
 さきほどのハイエクの論点と合わせるとこういうことです。つまり、消費者のいろいろなニーズや望ましい生産技術などは、不確実なわけです。どんなやり方をすればいいかリスクがある。だから、中央政府が決めるよりも、いろんな人からたくさんのアイデアがいろいろ自由に出てくるのにまかせて、そのうちどれかが当たるというやり方の方がいい。だから、各企業に自由に判断させるのですが、リスクのある判断をさせるということになると、そんな危ないことをするメリットがないと誰も手を出しませんので、当たった時の利益はその判断者に帰属させることにする。逆に、失敗しても国が穴埋めするとなるといくらでも非効率なプロジェクトに手を出してしまうことになりますので、損が出たらその判断者がかぶることにする。要するに、これが生産手段の「私的所有」ということになるわけです。こうなってはじめて、リスクを引き受けながら、慎重に判断する態度が出てくるわけです。

 他方、中央政府がこのようなリスクのある判断をすると、万一の被害のスケールは大きいのに、その判断者が一銭も責任をかぶることはありません。責任を取ると言ってもせいぜい辞めるだけです。昔なら切腹したかもしれませんが、それで賠償できるわけではありません。被害者が特定できれば国家賠償はできますけど、公財政への損害自体は補償されません。
 賠償責任がないのなら、無責任にいくらでもリスクのあることを、権力者なり担当官なりの思いつきでバンバンやってしまうことになります。財政赤字も膨らみ放題。それゆえに、そもそも国家や地方自治体はそんなリスクのあることに手を出してはいけませんということになるわけです。
 やるべきことは、リスクのあることではなくて、逆に、民間人にとっての不確実性を少しでも減らすことです。政府自身がリスクのあることに手を出すと民間人にとっての不確実性が増してしまいます。民間人はリスクのある判断の責任を引き受けなければなりませんので、それでは困るわけです。
 だから、担当官の個人的な判断のブレが入る余地のない「ルール」に徹するべきだということになって、さきほどのフリードマンの議論やハイエクの国家論につながるわけです。民法的取引ルール、財産権の保証などは、たとえ新規に制定する場合でも、良識ある民間人が現にやってきた取引や判例の積み重ねの追認みたいなもので、こうした政策自体にさほどリスクがあるわけではありません。かえって、民間人にとってのリスクを減らすために役立ちます。
 それで言えば、民間人にとって見通しやすい方法によって、景気変動のリスクをなくすことも必要なことだということになります。ブルジョワにとってだけでなくて、労働者にとってもです。不況でいつ雇用がなくなるかもしれないことは大きなリスクです。教育や訓練にかけたいろんな意味でのコストが将来回収される見通しが危ういならば、そもそもそんなことを誰もしなくなりますし。

【「政府の失敗」論の教訓をふまえない市場化】
 この意味では、いわゆる金融自由化は、ソ連崩壊はじめ「政府の失敗」論の流れにそうものと称して推進されたものですけど、その実態はこの教訓を全く踏まえていないものだったと言えるでしょう。ヒトのカネでバクチを打っていた経営者やディーラーは、それがうまく業績を上げているうちは、自分の功績であると言って巨額の報酬を独り占めしておきながら、一転巨額の損失を出したら、自分のせいでなくて経済環境のせいであると言って賠償もせず、会社は税金で救済を受けました。そもそも大きな金融機関が巨額の損を出しても、経済の安定のためには潰すわけにはいかないことは、最初から誰でも読めていることです。個人賠償しなくていいことも、会社が税金で救済を受けることも、最初からわかっているなら、リスクの高いバクチに手を出すことは極めて合理的選択です。全く、ソ連や東ヨーロッパの企業経営者と同じ行動をとったわけです。
 「政府の失敗」論が本当に言っていることを理解していたならば、こんなことにならないようにルールを作ったはずです。

 あるいは、「政府の失敗」論によるビジネス礼賛の時流に乗って、私立大学のサラリーマン経営者が事業拡張に邁進するのも同じでしょう。「成功」したら自分の手柄にして億の退職金を受け取るのですが、逆にどんな失敗をしても賠償責任があるわけではありません。せいぜい辞めるだけです。だとしたら、見通しの甘い巨額のプロジェクトにもどんどん手を出していくでしょう。
 これも、「政府の失敗」論の論点を本当には理解していないということです。株式会社と違って学校法人は、株主代表訴訟もないし株価も下がりませんので、経営の失敗の責任を取らせる仕組みが何もないのです。だとしたら、学校法人はそもそもリスクの高いことに手を出してはならないということになります。

【固定的人間関係と開放的流動的人間関係】
 結局、「政府の失敗」論の本当に重要な論点は、弱肉強食の競争礼賛でも市場至上主義でも大企業万歳でもなかったわけです。
 では、まとめて言うと何だったのか。
 ボクの『商人道ノスヽメ』で書いたことですけど、リスクというものの処理の仕方によって、人間関係システムは二種類に分かれます。一つは、裏切ったら制裁が効くような固定的な関係を作って、その中で大方のことは済ましてしまうやり方です。もう一つは、誰でも相手にしつつ、相手が悪いやつじゃないかと気づいたり、もっといい方法があったりしたら、相手を取り替えたり方法を改めたりするやり方です。

 前者の、固定的人間関係のやり方は、「共同体」と言ってもいいし「コネ関係」と言ってもいいと思いますが、その固定的関係の中に入れば、情報は筒抜けでリスクはなくなるわけです。リスクは全部「ソト」に掃き出されて、「ソト」は極力相手にすべからぬ危険のうずまく場とみなすことになります。
 ここでは、権力が人を動かして何かをしようとしたら、確実に所望の結果が得られることになります。機械体系を力が伝わるとか、電気回路を電気が伝わるのと同じイメージです。
 ここにおいて、「責任」とは、この確実性を乱さないことです。つまり与えられた役割から外れないことです。「自己決定の裏の責任」ではないのです。与えられたことを忠実に実行する責任です。だから、ミスったときの責任の果たし方は「賠償」ではありません。辞めること。腹を切ること。罰を受けることです。民事的責任ではなくて、刑事的責任です。
 このとき、誰に対して責任をとるのかと言うと、ボスに対して、究極にはメンバーに対してです。

 それに対して、開放的流動的な人間関係のやり方はどうでしょうか。「市場」はこの典型例ですが、いつもリスクがつきまとっています。
 ここでは人間関係は固定しない原則なので、メンバーが決まっているわけではありません。誰を相手にするかわかりません。情報が不完全で私的制裁の手だてもない人を相手にしなければなりません。取引相手を選ぶとき、新しいやり方を採用するとき、結果が吉と出るか凶と出るか不確実です。そこを試行錯誤することで、よりよい人間関係ややり方が選ばれていくわけです。
 ここで失敗したときの責任は、その判断者がかぶらなければならないというのが「政府の失敗」論の導きだした知見でした。つまり「自己決定の裏の責任」です。損は全部自分がかぶり、他人に損が及んだときは賠償するということです。刑事的責任ではなくて、むしろ民事的責任です。

 これと相補うように、公権力はなるべくリスクから手を引くことになります。ただでさえリスクにさらされた人々に、さらなるリスクを加える要因にならないようにです。むしろ、人々の不要なリスクを軽減することが役割になります。
 純粋モデルとしては、民事裁判をすることです。これ自体にリスクはありませんので、司法の判断は責任を取りません。取らないから当事者の置かれた立場を超越して公正に判断できます。しかもこの対象は「国民」といったメンバーに限られるわけではありません。日本人でなくても日本の裁判所に訴えることはできます。
 しかし多くのことは、ルールを定めても、そこからはずれている状況に合わせてルール通りにもっていくための、そのときそのときの判断が必要になります。そのためには行政はなくなるわけではありません。判断をする以上、その裏で責任を取ってもらわなければなりませんが、その担当者はミスっても賠償できないので、せいぜい辞める責任の取り方しかできません。それゆえその判断リスクは極力減らし、なるべくはっきりしたルールに基づくものにすべきだということになります。

【それぞれの人間関係原理にふさわしい責任と決定の体系がある】
 ソ連型体制や旧ケインジアン的な裁量的財政政策は、上記のうち「固定的人間関係」をモデルとして組み立てられていると言えます。それが行き詰まって崩れたというのは、人間関係システムの客観的なあり方が、固定的なものが崩れて、流動的開放的なものの比重が高くなっていたことを表します。情報筒抜けでリスクのない関係ではなくて、いたるところふわふわしてリスクに囲まれた現実になっていたということです。にもかかわらず、情報筒抜けでリスクのない固定的関係を前提した「決定と責任の体系」が取られていたからうまくいかなくなった。それを指摘したのが「政府の失敗」論だったわけです。これまでの決定と責任の体系を改めて、「流動的開放的人間関係」にマッチした決定と責任の体系に変えなければならないというのがその主張だったわけです。
 ところがそれが、そんなことを言っていた論者本人のイデオロギーとか、階級的利害とかのせいで、全く歪められて解釈されてしまったというわけです。

 ボクはたしかに、た し かに!「労働側vs財界側」とか「再分配志向vs再分配反対」とか「福祉充実vs減税」とかいう対立はこれからも残ると思うし、とっても大事だと思います。
 しかし、それとは関係ない全く別の切り方で、固定的人間関係にマッチした考え方と、開放的流動的人間関係にマッチした考え方との対立は、それより百万倍も重大だと思っています。『商人道ノスヽメ』で言った「武士道vs商人道」はそれです。拙著『痛快明解経済学史』とか共著の『経済政策形成の研究』で書いた「反経済学的発想vs経済学的発想」もそのことです。
 「経済学的発想vs反経済学的発想」については、econ_economeさんと若田部昌澄さんがそれぞれまとめて下さっている次の文章をご覧下さい。
http://d.hatena.ne.jp/econ_econome/20070919/p1
http://www.chikumashobo.co.jp/new_chikuma/keizaigaku/12_1.html
 あるいは、このサイトの「右翼と左翼」のページで言っている、世の中をタテに割る見方をするかどうかも同じことです。
 この切り分け方が、「労働側vs資本側」のような分け方とは別の分け方として、世の中にはっきりと認識されていないために、いろいろな混乱が起こっているのだと思います。

【「政府の失敗」論とナショナリズムや強権の矛盾】
 ハイエクやフリードマンや新しい古典派の人々による市場自由化の処方箋は、明らかに、固定的人間関係中心の世の中を、流動的開放的人間関係中心の世の中に変えようという立場です。それはさかのぼれば、経済学の父アダム=スミスが、それまでの重商主義を激しく批判して言ってきた立場でした。
 しかしこのような主張が世の中に何と解釈されたか。「規制緩和して厳しい競争にさらして生産性を高め、賃金を抑え、国際競争に打ち勝つことで経常収支を稼げば、国が豊かになる」等々と解釈されてこなかったでしょうか。まさにスミスが必死に批判した重商主義そのものです。これは、国家という固定的人間関係を単位と発想し、そのソトを食うか食われるかのリスクうずまく場とみなしている点で「政府の失敗」論の提唱する志向とはまるっきり矛盾します。
 小泉さんにしても、橋下さんにしても、「政府の失敗」論の主張にのっとった言い方をしながら、他方でナショナリズムを強調するのは矛盾しているのです。ハイエクもフリードマンも国家の必要は認めましたけど、先にも述べたことからもわかるとおり、そこにはメンバーシップの観念も民族性もありません。市場の自由化が進めば、国民経済の自立性も独自性も崩れていき、市場取引のルールはその広がりに合わせて世界的に統合されていくことは、この立場からもたらされる必然です。一方でナショナリズムを掲げながら他方でこれを推進することはとんでもない自己欺瞞を必要とするでしょう。サッチャーさんのようにさじを投げるのが正直というものです。

 おまけに、「政府の失敗」論が本当に教訓としているのは、政府が大きなリスクのあることをして民間人を不確実性にさらしてはならないということです。それが許されると、個人賠償責任がなく、責任をとるといっても辞めればいいだけという以上、政治リーダーは必要以上にリスクの大きいことにも平気で手を出してしまいます。ハイエクはこんな志向を「設計主義」と呼んで激しく批判していたではないですか。
 ところが、やはり小泉さんにしても、橋下さんにしても、「政府の失敗」論の主張にのっとった言い方をしながら、政府が大きなリスクのあることを断行するのがいいことのように言っています。小泉さんは自分の「紅衛兵」をたくさん「下放」させましたけど、何も責任をとっていません。ハイエクがソ連やナチスを批判した本当の論点は、まさにこういうことだったのに。橋下さんが目指していることは、まさしく電気が電気回路を伝わるように、権力が人を動かして確実に所望の結果を得るシステムのように見えます。固定的人間関係モデルの発想です。失敗の損を資本家がかぶる民間企業と同じことを、政府がしてはなりませんというのが「政府の失敗」論の論旨だったのに、役所を民間企業になぞらえるのがその立場のように勘違いしているようです。

【「政府の失敗」への左翼の適合はどうあるべきか】
 いわゆる「右派」側がこんなふうに勘違いしているように、いわゆる「左派」側にも似たような勘違いがあると思います。濱口桂一郎さんが常々「リベサヨ」と呼んでお嫌いになっている立場のことですけど、90年代以降流行っている、財政削減を叫ぶ、清廉大好き「左派」のことです。このサイトでしばしば「市民派リベラル」とか「淡水系」左派とか呼んできたもの。日本茶風に「グリーン・ティー・パーティ」とでも言いましょうか。
 これも、「政府の失敗」論が取り上げている、固定的人間関係中心のシステムから開放的流動的人間関係中心のシステムへの客観的な転換の流れに、左派が何とか適合しようという現れだと思います。その意味では必要なことではあったわけですが、しかしボクから見れば、こんな勘違いした適合の仕方をするくらいなら、ゴリゴリの国有論者や重福祉国家論者や身内集団原理バリバリの組合活動家の方がなんぼか気が合うのです。
 それがなぜかというと、やはり、固定的人間関係のウチとソトを分ける枠組みをそのままにして、したがって、国どうしやアイデンティティ集団どうしの関係を、「食うか食われるか譲り合うか」というゼロ・サムで見たままで、その上で国有モデルや福祉国家モデルの崩壊に適応しようとしているから、労働者階級の階級的立場を忘れておかしくなるのだと思います。まあ、詳しくはリンク先を読んで下さい。

 ボクは、まずもって、固定的人間関係のシステムを守り、復活させようとする側と、開放的流動的人間関係にふさわしいシステムに移ろうという側との選択ができるべきだと思います。そのときには、固定的人間関係を守ろうという側は、ナショナリズムを掲げることは当然でしょうけど、だったらTPP賛成とか規制緩和とか「小さな政府」とか言ってはいけないと思います。
 他方で、開放的流動的人間関係にふさわしいシステムを目指す側では、労働側で再分配を志向する者と資本側で再分配に反対する者に分かれて引き合いをするべきだと思います。このときには、再分配反対や減税やビジネス自由化を唱える側も、ナショナリズムには目もくれず、世界をウィンウィンの取引相手と見て、政治家の胸三寸によらないルールに基づく政策運営を志向するべきだと思います。そういう本当の意味での「リバタリアン」の勢力があるべきだと思います。そして、同じく開放的流動的人間関係にふさわしいシステムを目指す側でも、何のはばかりなく、高い基礎所得給付、高度な累進課税や資産課税、最低賃金上昇スケジュール、介護保険などの充実、世界的に統一した高い労働基準などを掲げる左翼勢力があるべきだと思います。



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