まあ、成長の果実の分配においても、後継者の育成においても疑問符をつけざるを得ない方にそう言われては、ねえ。

仕事を通じて成長なんてしなくていい - 脱社畜ブログ
先日話題になったユニクロ柳井正会長のインタビュー記事では、「人間は、仕事以外で成長する方法はないんですから」とまるでそれが普遍の真理であるかのように語られていて、怖い気持ちにすらなった。

でもね。

職場で無成長って持続可能なの?

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そういったことに労力を使うぐらいだったら、仕事を毎日定時で切り上げて、例えばプライベートプロジェクトを題材にして勉強を進めていったほうが効率よく自分の能力を向上させることができる。

いやあ、はじめからそれだけ能力があるんだったら、本物のノマドとしてやってけるでしょう。もちろん年収150万でなくてその10倍以上で。そうそう。右も献本いただいたのでした。この場を借りて御礼。内容そのものは悪くないと思うのだけど、「僕ら」の一言でぶちこわし。これが「僕」と「ら抜き」になるだけで年収1500万円モノだったんだけどねえ…

話を元に戻すと、私のはじめての仕事は、そもそも定時まで務めるだけでへとへとだった。もちろん正社員なんかじゃなくて、コンビニのアルバイト。最低賃金の誰にでも出来る簡単なおしごと、のはずなのだけど、たかだか三時間だか四時間だかが、三週間とか四週間に感じられた。最初のうちは、ペース配分できないのね。はじめの三十分ぐらいで気力がつきちゃう。慣れていくに従って、力を抜くべきところでは抜き、入れるべきところでは入れることを体が覚えて、退屈を感じる余裕さえ生まれるほど楽になっていくのだけど、これって成長じゃないのかな?

多分その次あたりにやった仕事が、土方。もちろん百姓貴族様のように華麗に重機を操るなんてことはもちろんなくて、スコップ片手にアスファルトをならすという、お客さんと会話する必要のない分さらに簡単なはずのお仕事なんだけど、これはコンビニよりずっと難しかった。自分の半分ぐらいしか体重がなさそうなおばちゃんたちが苦もなくこなしている仕事を、見よう見まねでやっても15分ももたない。はじめのうちは腕力に頼っちゃうんだよね。腰を入れることを覚えて、やっと定時までもつようになる。それでも定時までがやっとで、あとはもう飯食ってくそして寝るのが精一杯。それでもなんとか日当泥棒(給料とは言えませんな)にならない程度には働けるようになった(と思いたい)けど、それって職場における成長の成果とはいえないのかな?

その後もいろんな職を点々としてきたけど、「成長抜き」で「即戦力」になったのは某社CTOになった頃で(まあなにせ初出社当日に採用面接の面接官だったもんな)、この頃には法人なりした個人事業も3年を過ぎていて、それまでの成長の蓄積がずいぶんとあった。もちろんそれでも足りず、上場にこぎ着けるまでにはさらなる「成長」を必要としていたのだけれども。

結局、仕事を通じて成長できるかどうか、というのはその仕事が自分の成長したい方向と合致しているかということに強く依存するため、仕事で成長できるかどうかは言ってみれば運次第なのである。「仕事で成長する」というのは特殊な話であって、決して一般化できるような話ではないのだ。

いやいや、The Matrixのカンフーのダウンロードじゃあるまいし、習熟という名の成長抜きでは、三年どころか三日ももたないでしょ?

あるいは、その職場に入る前にあらかじめ充分成長しておくか。

後者は、要するに「持ち出し」ってことだよね?

それって成長分を全て中抜きされる以上の搾取じゃないの?

成長って、何だろう。

「中卒」でもわかる科学入門〉にも書いたけど、私は「出来なかったことが出来るようになる」ことは全て成長としてカウントしている。同書ではさらに「わからないことがわかるようになる」も挙げているけど、これも「理解できなかったことが理解出来るようになる」とすれば「出来なかったことが出来るようになる」に一本化できる。

バブルと共産圏が崩壊して、インターネットが世界を覆うようになったこの四半世紀が、「経済成長の果実を上の連中が全部持ってちゃう時代」だったというのはもはや否定しようがないし「魔女が去って」もその傾向は留まるところを知らないように見えるのだけど、脱サラ(死語?)するにも脱社畜するにも、足りない元手は成長で補うしかないんじゃないの?

そもそも、成長自体そこまで意味があるものではない。大事なのは成長の結果何をやるかだし、仮に何もしなかったとしても、毎日楽しく生きていれば特に問題はないはずだ。

皮肉でもなんでもなく、そのためにはあらかじめ成長が不要なほどの原資を持ってるか、成長で原資を貯めるかのどちらかしかないはずなのだけど。

で、これ以上成長しなくても毎日楽しく生きていけるはずの資産を得てわかったのは、結局のところ「楽しく生きる」には「出来ないことが出来るようになる」を避けては通れないということ。結局金で手に入るのは譲渡可能なものだけで、払った瞬間に出来なかったことが出来るようになったりはしない。宇宙行きのティケットは買えるけど、宇宙までロケットを飛ばす能力というのは自らそこまで成長するしか手に入れようがないでしょ?

いずれ人類は、週休二日どころか週勤二日で必要なものを賄えるようになるし、そうなるべきだと私は信じているけれど、一足飛びにそこには行けるわけではないし、そうなったらそうなったらで今度は残りの五日を楽しく過ごすのに「成長」と呼ぶしかない道程が必要になるはず。

奨学金出すって言ってるのに自腹で結構ですって、どこの貴族ですか。

Dan the Lazy, Impatient, and Hubristic