これから柏崎刈羽で起こるクリティカルなこと

原子力発電所の中では、想像を絶するような高温高圧の蒸気が、場合によっては何年も連続して駆け回っている。そういう負荷に何十年も耐えなくてはいけない。それを、100%確実に保証しなくてはいけない。大変なことである。

おそらく、部品の製造から設計、施工の各段階で、何に注意して何を優先してどういう検査をしてどういう手順で作業を進めるか、日々の運用から定期点検から突発的な状況での対応方法まで、そこには膨大な体系があるはずだ。

そして、柏崎刈羽のこの体系は、新潟県中越沖地震での想定を超える揺れに耐えて、無事に緊急停止した。格納容器はこれに耐えて、致命的な放射能を放出せずに止まることができた。細かいことは抜きにして、まずこのことを評価すべきである。

しかし、もし、この「想定外の揺れ」を受けた発電所を再稼動するとしたら、この膨大な体系を再構築しなくてはいけない。想定外の揺れに耐え、一回停止する所までは、構築済みのこの体系に含まれている。しかし、想定外のダメージを受けたプラント全体について、その後で、何かを確実に言うことはできないはずだ。

それが不可能だと断言することはできない。初期稼動から何回かの定常運用と定期点検を経て緊急停止までのサイクルは一回は成功したのだから、同じことをもう一度できないはずはない。しかし、古い品質保証の体系を延命してツギハギで運用することと、それと同じレベルの新しい体系を再構築することは別である。今、必要なのは後者であり、後者は前者よりずっと難しい。

プラントは全体として「想定外」のダメージを受けた。これに対し、どこが致命的で一からやり直しであって、どこが修復できる所なのか、それを見極めながら再稼動することは、新規に建設するよりずっと技術的には高度の作業になるだろう。格納容器の中は放射能まみれで、開けて点検するだけでもものすごく高度な作業になる。想定されてないような部品の交換が必要になる可能性も高い。

そしてこの判断は、一つ一つがスケジュールやコストに直結するので、おそらく、これから、東京電力の中では、これまでに無い綱引きが始まると思う。

技術的な正論と非技術的な横槍の壮絶な戦いが待っている。

たぶん、難問ではあるが技術的な答えはある。何が大丈夫で何が問題で何が未確定なのか、技術者はほとんどの課題に正しい答えを出せるだろう。しかし、その正しい答えを組織の中で通せるかどうか、そこを見守らなくてはならない。

ここで、日本人が東京電力にどういうプレッシャーを与えるか、それによって日本の運命が決まる。

文系的なプレッシャーを与えたら、理系の社員には対応できないので、東電の内部では文系の社員がイニシアチブを取ることになる。技術者の正論は押しつぶされ、中古の事故物件のポンコツ原発がヨレヨレで再稼動することになる。

科学的論理的に批判し情報開示を迫り、文系の東電社員を論破して蹴散らさなくてはならない。技術のわかる人間でないと対応できないような種類の強烈なプレッシャーを東京電力にかける必要がある。そして、未確定な部分や確率を含んだ新しい品質保証の体系を引き出さなくてはならない。

この情報戦が文系同士の戦いになったら、嘘とごまかしだらけの計画書がでっち上げられ、その辻褄合わせの為に技術者がこき使われることになる。攻める側も守る側も技術者が先頭に立ち、エンジニアリングの問題として議論すべきである。

東電は、おそらく内部的には再稼動を断念することまで含めて検討しているだろう。反対派は、これを政治的な文脈に乗せることはつつしむべきだ。「柏崎刈羽廃炉になったのだから他も止めるべきだ」とか、そういう反対派の宣伝文句に使われるとしたら、それに関する技術的検討を開示することはできなくなる。「柏崎刈羽」の問題は、あくまでここの問題として処理すべきである。また、つまらないアラ探しをせずに、緊急停止が設計通りに動いたことを認め、ここまで動いてきた体系を評価すべきである。そこを評価することは、再稼動への技術的検討が不要であるという意味にはならない。

そして、技術者が本音で大丈夫だと言ったら、それを受けいれる覚悟が必要になる。その覚悟が無いと、技術者の本音を引き出すことはできないだろう。

私は、基本的には原子力発電には反対の立場である。

私は、原子力発電は、技術者が理論通りに運用したら安全で最適な発電方法になると考えている。だけど同時に、これだけ政治的な業界で大きなお金の動くプラントが、技術者の手で技術者の思う通りに運用されるわけが無いと考えている。技術者のやる気を削ぐようなことが積み重なって、モラールや品質レベルが低下していき、最後には致命的な大事故を起こすに違いないと思っている。だから原子力発電には反対である。

大事故を起こすことがわかっていたら、他のどんな非効率的な発電手段だって、原子力発電よりは安い。

私はそういう立場であり、長期的な観点ではこの考えを変えるつもりはないが、当面、柏崎刈羽のこの問題については、再稼動絶対反対の立場は取らない。それを言ったら、文系が理系を引きずり回して、何かとんでもないことが起こる。

とにかく、再稼動に向けての検討が、なるべく純粋に技術的な議論として行なわれることを望む。

原子力発電は、離婚も別居も許されない結婚のようなものである。この夫は、一度グレてしまったら、家に金を入れることもなく、際限なく自分の遊びの為の金をせびる(廃炉になって発電を停止しても相当な長期間にわたり維持コストがかかる)。それでいて、別居して知らん顔をすることが技術的に不可能である。一生至近距離で面倒を見なくてはならない。

いくら今の時点で理想的な申し分の無いパートナーに見えても、絶対に離婚が許されないとしたら、結婚には躊躇するだろう。

そんな結婚をするのは正気の沙汰とは思えないが、してしまった以上、このダンナのご機嫌をとって、なるべく悪いことだけはしないようにする工夫も必要であると思う。

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