「5×3≠3×5問題」論争!我が家の場合(笑)

 はい、まだマイ・ブームが続いています。「5×3≠3×5問題」
「5×3≠3×5」問題について思ったこと - よたよたあひる’S 「はてな」日記
は、私が全力を尽くして書いた記事(エネルギーの80%くらいは作図に割かれているケド^^)でした!
 なのに、連れ合いはその図を一瞥して「あ〜、こういうめんどくさい考え方をするやつはいるよね」でおしまい。う〜ん、こいつは私の考え方を理解していないよな、と思って、ちょいちょい話をふっておりました。そして、今日の夕方から夜にかけての大論争の末、ようやく話が通じるようになって今はとても嬉しい。
 なんとか説明が通じた後の彼の感想は・・・
「俺がマジョリティの立場に立つなんてめったにない!レヴィ・ストロースの気分だ!『野生の発見』!」
ということでした。野生じゃなくて異文化でしょ!!なんだかなぁですが、記事にしておきます。*1
 連れ合いと私は、「5×3≠3×5」はおかしい、という点で一致しているのですが、その理由が違うんですよね。まず、当該問題の再掲。

〜〜〜〜〜〜
「さらが 5まい あります。
 1さらに りんごが 3こずつ のって います。
 りんごは ぜんぶで 何こ あるでしょう。」 

しき(5×3=15)←不正解 こたえ(15こ)←正解
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連れ合いは、ごく単純化すると、
・【「一つ分」×「いくつ」=「全部」】という言葉の式でも「一つ分」と「いくつ」もまた交換可能、これは掛け算の数式で交換可能、というだけでなく、「3の5倍」と「5倍した3」というように日本語の中でも交換可能なのだから、ここを固定しなければならない、というのはおかしい。
 という意見。

 私のは、
・問題文を視覚イメージ化したときに、すでに抽象化が始まっており、「掛け算の概念」の把握が始まっている。一応【「一つ分」×「いくつ」=「全部」】という言葉の式をそのままの語順でなぞったとしても、リンゴの3も皿の5のどちらも「一つ分」にも「いくつ」にもなりうるので、耳で聞いた問題、文字で読んだ問題にでてくる語順に引きずられてそのまま視覚イメージを作ったとしても、「3×5」でなくて「5×3」という式を立てるのは可能。
 という意見です。

 ↑前の記事に書いたままの文章の再掲なんですが、どうもちゃんとした日本語にはなっていないようです。それで、また延々と説明をするはめになりました。以下、相当省略してやりとりの過程を書きます。

★★場面1 ファミレスで家族で夕食・・・食後のティータイム・・・★★
彼「だからさ、リンゴ3個が1セットなんだからその5倍、ということを「3の5倍」でも「5倍にした3」でもどっちでもいいんだよ。でも、3個セットは決まっているでしょ。」
私「そうじゃなくて、見方を変えたら基準の数がリンゴでもお皿でもいいの。お皿が先にでてくるからお皿が設定された数、って読んだってこと。」
彼「要するに、あんたが躓いているのは、問題文の読解の部分てことか。3個セットと5個セットは違うでしょ。何の何倍かはちゃんと理解していないと困るじゃない。*2
私「いや、『リンゴ3個セット』はそれはそれでわかってるって。だからわざわざ絵をかいたでしょ。」
彼「いや、その絵を描くエネルギーはまた別のところにそれていくから(笑)*3・・・あんたは『リンゴが3個のったお皿が5枚』だったらどういう式を立てるわけ?『3×5』でいいわけ?」
私「たぶん。その文章だったらリンゴが3個のったお皿が一枚ある絵が最初に浮かんで、そのあとそれが縦に続く。」
彼「要するにあんたが躓いているのは、問題文の読解ってことだ。」
といって、ファミレスのテーブルにあったコーヒークリームのカップをテーブルに並べて「3個セットの5倍と5個セットの3倍」の違いの説明を始める。 
いや、だからその違いはわかっているって。リンゴでもお皿でも数は可変で・・・とえんえんとやりとりが続く。30分はやりとりしていたと思う。娘はあくびをしてケータイをいじっている。

★★場面2 帰宅後PC画面をあけてもういちどやりとり ★★
 いろいろな想定問題を私があげて説明。
彼「要するに、引っ掛け問題に出てきた語順に引っかかったってことでしょ。文の構造を理解すれば「リンゴ3個セットが5倍」はでてくるでしょ。」
私「私は最初に5枚の空のお皿のイメージがある。そのお皿に1個づつリンゴがのっている状態が基本の1、だったらリンゴが2個づつのせるとその倍という話よ。」
彼「いや、あんたがそういう人なのは知っているし、そういう躓き方をする人が一定数いる、ということはわかった。」
私「いや、引っ掛け問題にひっかかったのは確かにそのとおりなんだけど、言いたいのはそうじゃなくて、『リンゴが3個』『お皿が5枚』というのはそれぞれ数を変えることは可能だって話。『リンゴ3個』をのせるお皿の数が変わっていく(可能性がある)からお皿の数が倍数になるんで、一枚のお皿の上のリンゴの数だって4個、5個と変えることは可能でしょ。方程式にしたらY=aXだけど、この問題に関してはYがリンゴの総数、定数aと変数Xはリンゴでもお皿でもどっちでも成り立つってこと。」
彼「・・・・・・もしかして、どちらの数が基準になるのかは恣意的なものだからアプリオリにはわからない、ということ?」
私「だから、最初からそういっているじゃない。可変だって。」
彼「問題文に戻ってみたときに・・・」
私「お皿にのった3個のリンゴを1セットとして見る見方が想定された問題の読み方なんだろうし、それが一般的なのは一応理解している。今はね。だから、文章題の読解に問題がある、ということは否定しないけど、じゃあ、問題文のどこにリンゴを基準にしなくちゃいけないということが書いてあるかということ。『一皿にリンゴ3個』という表現は確かにあるけど、『お皿5枚がいつもの数』ではない、ということは書いて無いよ。」
彼「俺がマジョリティの立場になっていたなんて!めったにないことだ。なんか感動した!!(以下略)」
私「さらに私はずうずうしいから、自分の考え方の上にあなたの考え方を載せる。リンゴとお皿はどちらも可変な数。だから「一つ分×いくつ」だろうと、「何の何倍」だろうと入れ替え可能なの。」
彼「そういう言い方で説明しないと通じないよなぁ。」
私「だから図を作ったんだけど。」
彼「それを言葉で表現するまで付き合った俺もすごいよなぁ。」
↑ここまで約1時間(笑)
 
結論:
私「問題がよくない」
彼「確かに一般的ではないにしても、適当に数を当てはめているわけではなく、それなりに論理的に説明できる考え方がある。でも、まったく自分の想定外の考え方を聞いて驚いた。しかもその全体を言葉にできているわけでじゃないし、そういうのまで相手にしなくちゃならない学校の先生は大変だ。」
私「私の問題はそれはそれであるのはわかっているけどね。何かを認知するときの癖がかなり強いんだと思うよ。ただ、小学校低学年の子どもはまだ生活の幅も考えの幅も限られているから、例えば、この問題のときに、5人家族の家で食事をお皿に盛るのが役割になっていて昨日はソーセージを二つづつ、プチトマトを3個づつ、ポテトフライを5個づつ、今日はめざしが3匹にしし唐の煮物が2本、なんてことを日常的にやっていたら、お皿が定数に見えることもあるんじゃない?お皿はいつも5枚で盛り付ける食材の数が変わるんだから・・・とにかく、私は比例とか中学での方程式とか関数がでてきてぐっと楽になったもの。」

*1:まぁ、身内同士の戯言です。自分の視野の外にあったけれども「それなりに合理的な論理展開がある」ものとして理解できたおどろき、だそうです

*2:ここで「何の何倍」という言葉がすっとでてきたのは、おそらく彼が(そして私も)習った掛け算の導入で使われた言葉をそのまま使っているからだと思う。それを指摘したら、そこまで覚えていないよ、と笑っていた。

*3:これには同意するんだけどね。目的がいかに見やすくきれいな図にするか、というところに変わっていく。手段と目的の混乱??