ERB評論集 Criticsisms for ERB


野田昌宏「勢揃いバロウズ一家」

ハヤカワ文庫JASF英雄群像より

Feb.1969


 誰しも“火星人”という言葉を聞いてまず思いつくのは、H・G・ウェルズの『宇宙戦争』の中で地球に押しよせてくる例の蛸のお化けみたいなやつの姿ではないかと思う。ことほどさように『宇宙戦争』のイメージは我々にとって強烈なものがある。
 その次は“クイム”とかいう能力をそなえた緑色の小人――いうまでもなく、F・ブラウンの『火星人ゴーホーム』に出てくる火星人。そしてその次は、アーサー・C・クラークの『火星の砂』に出てくるチューチューというところか、いずれにしてもすぐに軟体動物か爬虫類の類いを連想してしまう。日本ではまだあまり知られていないが、フランク・R・パウルとヒューゴー・ガーンズバックのコンビでおなじみになっている火星人も、知能はかなり高いのだが、やはりゲソがたくさんとれそうな格好をしており、酢のものにしたらうまいのではないかと思わせる。
 そもそも地球人が火星に目を向けたのは、17世紀の中頃からのことらしい。
 ホイヘンスやフックが手製の望遠鏡で火星をのぞいたときには、すでに火星表面に模様を発見しており、19世紀になると、ハーシェルなどが極冠の季節変化を観測している。そして1877年と1879年の火星大接近の際にスキヤバレリが観測報告の中で、火星表面にあらわれる条痕の意味で使った“カナリ”ということばを、英訳する時に“運河”と誤訳してくれたすてきな人があった。オーバーな言い方をすれば、すべての火星ものが我々をたのしませてくれることになったきっかけは、みんなこの誤訳に端を発しているのである。
 スキヤバレリに限らず、ダグラスやロウエルなどの天文学者が発表した数々の観測報告の中にも、“なにかが火星に?”という期待をもたせるに充分な含みがあった。
 こんなところから、かなり高度の知能をもった火星人としてウェルズは大蛸の化物を考え出し、G・P・サービスは巨人を思いつき……という次第だが、1911年にエドガー・ライス・バロウズの書いた火星人というのは地球人そっくり、こいつが真っ裸かで大ダンビラをふりまわすというのだから、人々がおどろいたのも無理はない。八本足の馬に十本足の犬、四本腕の緑色した大男、そして、女はみんなグラマーで美人。挿絵では巧妙にカバーされているものが多いけれど、オッパイ丸出しの風情も随所にあるというのだから、かなり異色の火星人であることに間違いはない。

 エドガー・ライス・バロウズは1875年にシカゴで生れた。裕福だった彼の両親は、正規の教育をうけさせようとして努力するのだが、南北戦争の際に南軍の少佐として活躍した父親の血をひいたのか、根っからの兵隊好き。なんとかして軍人になろうと、少年の頃から陸軍に応募して丁重に断わられるやら、ジェロニモ討伐に向かう例の第七騎兵隊にうまいこともぐり込めたはいいがすぐに年齢がばれて追い出されるやらで、この夢は第一次大戦まで実現しなかった。第一次大戦では念願かなってアメリカ陸軍の少佐として勤務している。
 1900年に結婚した彼は三人の子をつくり、いくつかの事業に手を出したがすべて失敗、セールスマン、カウボーイ、鉄道警官、探鉱者などを転々してひどい苦労を重ねた。
 1910年というから彼は35歳になっていた勘定だが、小さな薬屋にやとわれて悶々の日々を送っているうち、ある日何の気なしに目を通した新聞小説のあまりのつまらなさに彼は奮起した……。こんなつまらないものに金を払ってくれるのならおれだって……というわけで、13世紀のイギリスを舞台にした活劇もの "Outlaws of Torn" を書き上げて、オール・ストーリーズ誌にもちこんでみたが、これはあっけなくアウト。同誌の編集者だったT・N・メトカルフにはげまされて書いた第2作が「火星の月の下で」。これがのちに『火星のプリンセス』と改題された、有名な〈火星シリーズ〉の第1作、そしてその主人公こそ、SF英雄群像に不朽の名をのこすジョン・カーターその人なのである。
南北戦争当時、大尉として活躍した彼を、バロウズはこんなふうに描写している。
 ――大尉は男の中の男だった。背はゆうに1メートル90センチを越し、肩幅はがっしりと広く、腰はほっそりとしまっていて、身のこなしはいかにも鍛えあげた軍人らしかった。容貌は端正で眉目秀麗、髪は黒く、短かく刈りこまれている。いっぽう、目は鋼鉄のような炭色で火のようにはげしく、進取の気性に富んだ強い誠実な性格をうつしだしていた。礼儀作法は申し分なく、最上流の南部紳士特有の優雅さをそなえていた。
 彼の乗馬ぶりは、とりわけ猟犬のあとを追っていく場合には、馬術の達人が多いことで有名なこの土地ですら目を見はるほどで、見ていても気持がいいほどだった。その無鉄砲さかげんに、しばしば父が注意するのを耳にしたものだが、彼はただ笑うばかりで、わたしが落馬して死ぬようなことはありえないよ、わたしをふり落とせるような馬はこの世の中にはいないからね、というのがその返事だった。
(小西宏訳による)
 この男の中の男、ジョン・カーター大尉は南北戦争の終結と同時に当然のことながらその地位をうしない、友人と共に探鉱者としてアリゾナ山中をさまよいあるくことになる。そして兇悪なインディアンにおそわれ友人は即死、彼は洞窟に追いつめられる……。
 ジョン・カーターの手記の形で書かれている『火星のプリンセス』はこんなふうにつづく。
 ――空には無数の星がきらめいて、この地上の美観(この直前に、アリゾナの夜景の描写がある)にふさわしい豪華な天蓋を形成していた。わたしの目はすぐさま、かなたの地平線のきわにある一つの大きな赤い星に釘づけにされた。じっとみつめていると、魂を奪われるような恍惚状態に引きこまれていくのを感じた――あれは火星、戦の神だ。わたしのような軍人にとって、あの星は常に抗しがたい魅力を秘めている星である。……わたしは両眼をとじ、わたしの天職をつかさどる神にむかって双手をさしのべた。するとやにわに、道もなくはてしもない空間に、からだが吸いこまれていくような感じがして、一瞬、猛烈な寒さと暗黒が訪れた。
(小西宏訳による)
 そして目をあけてみると彼は火星にいたというわけである。そこでさっそく火星の原住民につかまってしまうのだが、これが緑色人といわれるやつで、身長3メートル半、腕は左右ともに二本ずつ! 高さが三メートルもある八本足の馬にうち乗ってブンまわす槍の長さは12メートル。危険を感じたジョン・カーターが槍をさけて思わず跳ね上ると、ここは地球を何千里、Gの小さい火星の上だからアッという間に10メートルもとび上がってしまった。これには火星人どもも口をあんぐり。ジョン・カーターの方に敵意のないことに気づいた彼らは、戈をおさめて彼を自分たちの部隊へと連行するのだった。この一隊の親玉株、タルス・タルカスというのが、ジョン・カーターとすっかり意気投合して、全シリーズにわたりこの二人の友情は変わることがない。
 火星人というのは卵生である。寿命は35年くらいが平均だが千年生きるやつもいる。とにかく、決闘とか戦争とか狩りなんかにはとんと目のない連中のこと、天寿をまっとうするやつなんかほとんどいないのだ。病死するのが千人にひとりぐらい。それから千人に20人ほどが千歳ぐらいになると、イス河という河をさかのぼる巡礼に出かけて二度と戻らない。そして、あとの979人はといえば、これがみんな、なにか荒っぽいことに首をつっ込んだあげくに死んでしまうというわけである。それから火星人の幼児の死亡率がきわめて高いのは、火星産の巨大な白ゴリラが幼児を常食(!)にしているからである。
 素っ裸かでダンビラや槍をブンまわす火星人だが、さりとて武器は他にもっていないのかといえばそうではない。飛び道具も持っている。ラジウム弾を発射するライフルなどは、無線探知機と照準付で有効射程は200マイル。
 それどころか飛行船だって持っている種族がいる。ある日のこと、彼が軟禁されている緑色人の村に、その飛行船の大編隊があらわれた。 
――各船の船側の上には船首から船尾にかけて奇妙な旗がひるがえり、船首にはなにか奇妙なものが描いてある。それが日光を受けて輝き、宇宙船からずっと離れているわれわれのところからでもはっきりと見えた。前甲板と舷側に大勢の人影が見える……
 いわゆる飛行船ではなくて、空を飛ぶ船なのである。地上の緑色人側は一勢に猛烈な射撃を開始した。そしてついにその一隻は操縦不能におちいり、地上150メートルほどをフラフラと漂い始めた。緑色人の戦士たちは一斉にそのあとをおっかげる。そして、建物と正面衝突する直前に、われがちに船へとび移り槍をつっぱって衝突のショックをやわらげ、われがちに略奪を開始した。いいかげん荒らしつくすと、船に火を放って総員退去。紅蓮の炎を吹き上げながら、あてどもなく漂流して行く空中船の凄惨な描写が実にいい。
 ところでこの空中船の中で生け捕りにされた赤色族の女こそ、ヘリウム王国の王女、デジャー・ソリス。粁余曲折あって、ジョン・カーターは彼女と恋におち、壮烈なちゃんばらにつぐちゃんばらの果てに彼女を母国ヘリウムに送り届け彼女を妃にする――というと簡単なようだが、とにかくこれが第一作の荒筋である。邦訳も出ていることだし、ストーリーをわざわざ紹介するのも芸がない。
 ひとつぜひとも読んでいただきたい。

 火星では強いやつが偉い。だから、火星の子供は幼い頃から個人的な防御や攻撃法を徹底的にたたきこまれる。先生は女。そして火星人の男の使う火器だの火薬だのをつくるのも女たちの仕事なのである。
 ただでも強いジョン・カーターが、Gの小さな火星にきたのだから、おいそれと彼にかなうやつはいない。イザコザの起きるたびにめきめきと頭角をあらわすわけだが、火星を支配している粗暴で単純な“力の正義”に対して、彼は深い懐疑を抱かざるを得ない。これが徐々に火星人の豪傑どもに理解されはじめ、彼は尊敬の的になっていく。
 なにしろ子供の頃すでに、支那の陸軍でもいいから入りたいとまで思いつめたバロウズである。ジョン・カーターが武芸の化身であることは当然だろうし、火星世界の勇ましさ加減もむべなるかなと思う。女はいつもしとやかで美しく、男は常に強くたくましく……。いってみれば大時代で単純無類な世界である。だがお姫様がさらわれたり、そいつと壮烈なちゃんばらで奪い返したり返されたりだけでこの〈火星シリーズ〉全10巻がもつわけはない。
 そのあたりがバロウズのバロウズたるゆえんとでも言うのか、絶対に退屈しない材料が次から次へと用意されているのである。おどろおどろしく陰惨でグロテスクな悪玉、拷問、刑罰、儀式、よくもまあここまで思いついたといいたくなるような怪物の数々。バロウズという人のイマジネーションの振幅がどんなに大きいかよくわかる。
 そんなぞっとするほどいやらしい化け物に追いつめられ、あわや風前の灯というところで、バッタバッタと退治するジョン・カーターの手並の痛快さといったらない。
 ジョン・カーターがデジャー・ソリス王女を妃とし、赤色人王国ヘリウムの王子として9年間がすぎた時、火星上では大変な事件が起きた。太古から徐々に稀薄になりつつあった大気を人工的に補っていた大気工場が故障を起こしてしまったのだ。とりもなおさずそれは、全火星人の滅亡を意味する。決死の覚悟で修理のため大気工場へ向かったジョン・カーターは、刻々とせまりくる窒息の危機感が原因だったのか、突然、地球へとテレポートされてしまう――というのが第1作の最後。そしてそれから十年後、ふたたび彼が火星ヘテレポートされるところから第2作になるのだが、火星へ到着したとたん、彼はもの凄い怪物と格闘しているタルス・タルカスにめぐり合うことになる。さしずめこいつが火星怪獣の第1号だ。身長は4、5メートル、遼くから見ると人間にちょっと似ている。
 からだには毛がなく、飛び出した一つの目のまわりが白い以外は、全体がうす気味の悪い青味を帯びている。そして、その一つ目は、瞳も虻彩も眼球も、白一色なのだ。
 鼻というのは、無表清な顔の真中にある。充血していびつな丸い孔なのだ……このぞっとするような孔の下には、顎までなにもない。つまり口が全然見あたらないのだ。
 で、その口はどこにあるかというと、二本の腕の先の掌にくっついているというのである。つまりその腕は喉なのである。そして身長15センチほどの子供を両脇にぶら下げている。
 こいつがパッと緑色人の頭上をとびこえる瞬間に、2メートル近くもあるしっぼで緑色人をひっぱたく。こいつにやられたが最後、緑色人の方はたちまち卵のカラをたたきつぶしたようになってしまう。
 かと思うと火星には首のない人間がいる。首がなくても生きているのだ。首のつけ根のところに口だけがついている。ところが、よくしたもので、足が六本に手が二本という球形の生物がいて、こいつが、首なし人間の上部にぴったりとくっつくというしかけになっている。こんなやつはまだ円谷プロにもあらわれていないのではあるまいか。
 合成人間をこしらえたり、人間の脳を交換したり、幻の大軍をサイコキネシスでつくりあげて合戦をやらせたり、そいつが実体化して本物の人間になってしまったり…。ジョン・カーターと、その息子力ーソリスに娘のターラなどの暴れまわる火星世界は、息もつかせぬテンポで、次次と展開していく。なにしろ第1作から第10作までに、30年以上もの年月が経過しているのだから、ストーリーや設定に一貫性が欠けているきらいはあるにしろ、どれひとつをとってみても決して退屈はしないだろう。

〈火星シリーズ〉の第1作で大きな反響をひきおこした1912年の秋、バロウズはふたたび大変な反響を呼び起す作品を発表した。これが〈ターザン〉の第1作である。これによってバロウズの作家としての地位は不動のものとなった。以後1947年までに彼は〈ターザン〉29冊を世に送っており、映画化されたものは40本以上にもなるが、これらについてはまた別に紹介する機会があるだろう。

 ジョン・カーターが、バロウズ一家におけるSF英雄の筆頭であるのは当然だが、まだ他にも面白いのが何人もいる。そのなかでもデヴィッド・イネスを見逃すわけにはいかない。これは、第1作が1914年に発表された〈ペルシダー・シリーズ〉の主人公で、地底世界を舞台に暴れまわる。彼によると地球の中心部は中空になっていて、その中心に太陽があるというのである。地球が形成されたときに自転の影響をうけて内部に空洞ができる一方、高熱の核が中心部にあつまったのだという。それでこの空洞の内側の凹面――へんな言い方だが――にも山あり海ありで、ここにまたいろんなやつが住んでいるわけである。主人公のデヴィッド・イネスは父親の遺産を相続した鉱山主で、古くから彼のところで働いている老技師アブナー・ペリーの開発した地底探鉱書のりこんで試運転中、突然コントロールがきかなくなり、もはやこれまでとあきらめたとき、ぽっかりと地上に出ることができた。ところがこれが地上は地上でも地球のカラの内側(!)だったというわけ。球面の内側だから、海岸に出てみると水平線の彼方は徐々にせり上ってかすみ、高い山や島などは、とんでもなく高いところにその頂きをみ せている……ペルシダーには人間そっくりのやつ、猿かゴリラに似たやつ、知能をもった爬虫類などが割拠しており、そのほか例のごとくいろいろな怪物―主として表側(!)の古生物の系統のやつがうようよしている。
 そして、この世界を牛耳っているのは爬虫類で、古代ローマのようなおどろおどろしい社会を形づくっており、ゴリラはその下でコキ使われ、人間などはとっつかまったが最後、爬虫類の奴隷か餌か研究材料にされるだけのこと。このペルシダーにまぎれこんだデヴィッド・イネスが、しいたげられた人間の主権回復にあばれまわるというのがメインテーマである。
 球体の中心部で太陽が輝いているから、地上(!)から見ると常に太陽が天頂に静止しているわけで夜がない。ただ、小惑星がひとつあってその陰になったところが影の国とよばれる唯一の夜にすぎない。したがってこの世界には時間という観念がない。喜びも苦しみも、それが一瞬なのか一年なのかさだかではない。(欲をいうなら、この発想をさらにふくらませるともっと毛色の変った面白い作品になったのにと思うのだが)その世界の中で爬虫類どもと戦うデヴィッド・イネスは美女ダイアンとめぐり会い、恋におち、そして彼女の後を追って…というのが全篇にいろどりを添えている。
 第3作の末尾で絶体絶命の危機に追いこまれた二人の救出に、第4作ではご存じターザンがさっそうと登場するのも呼びもののひとつである。
 地球の内部が空洞でその中心に太陽があるという、このペルシダーのアイデアにはじめてお目にかかったときはそのユニークさに目をみはったものだが、しらべてみるとその淵源はかなり古く、17世紀にまでさかのぼることができる。たとえばハレー彗星で有名なエドマンド・ハレーが1692年にこの説を出しているし、他に何人もの学者が同じようなことを主張している。しかし、バロウズに直接影響を与えたのは、アメリカの政治家J・C・シムズが1818年にとなえた説ではないかと思われる。彼の説によると、内部世界とは北極点にある大穴によってつづいているのだという。それで彼は、ぜひとも探検隊を派遣すべきだという大キャンペーンを展開し、たのだが、ひょっとするとシベリヤと地続きかもしれないというわけで、ロシヤ皇帝が興味を示したというが、結局それもそのままになってしまった。
 ターザンが飛行船でペルシダーにのりこむとき、北極の大穴から入っていくのは、そのあたりと関連があるらしい。

〈ペルシダー・シリーズ〉全7篇は約30年にわたって〈火星シリーズ〉とほぼ平行して執筆された。そんなわけで、ジョン・カーターとデヴィッド・イネスとは、同じ英雄は英雄でも、あきらかに別のタイプとして描き別けられている。デヴィツド・イネスの方がヤサ男で知的だといってよいだろう。その相手方、デジャー・ソリス妃と美女ダイアンにしても、微妙にそのニュアンスが使いわけられている。
 とにかくどの作品ひとつをとり上げてみても、マンネリだとか、アイデアの使いまわしだとかいう印象をうけることが決してないというのは大変なことにちがいない。そしてまた、バロウズがいかにサービス精神に徹していたかということでもあろう。
 だから、バロウズ一家のもう一人の英雄、カースン・ネーピアを紹介するにあたって、「なあんだまた人サライとチャンバラかい?」などとうんざりしたような顔をされてもあわてはしない。「とにかく読んでみな」と太鼓判を押すことができる。
 カースン・ネーピアは金星を舞台にして活躍するのだが、実は彼も火星に行くつもりだったのである。魚形水雷形宇宙船で単身地球をあとにしたのはよいが、ちょっとした計算ミスからコースを狂わせ金星へ向かってしまう。このあたり、往年の大宇宙ロマンの定石どおりの描写がとてもたのしい。宇宙船があわや金星に激突というときにパラシュートで脱出、金星を包む密雲をついて無事に着地する。高温多湿の金星の風土下では、樹木は凄まじく成長し、金星人の集落は巨木をくりぬいて作った家屋によって形づくられている。彼らは肌がちょっと黒いだけで姿はほぼ地球人と変りはない。しかし、コーモリみたいな翼をもった、まるで烏天狗のような鳥人を始めとしていろんな怪物が美男美女と入り乱れ、領土争いや、階級闘争に明け暮れている。カースン・ネーピアはそんな金星人社会に入りこみ、ある日暴徒におそわれた美女を偶然助け出したのがきっかけで恋におち……誘拐された彼女を追って手製の飛行機まで動員して救出したとおもえばまた……。
 どうもこの程度の紹介では、〈火星シリーズ〉そっくりだが、とにかく現物をよく読んでいただきたいものである。

 数年前に『火星のプリンセス』が、オックスフォードの“ストリーズ・トールド・アンド・リトールド叢書”の一冊として収録され、『ロビンソン・クルーソー』や『二都物語』とならんで、イギリスの国語科の副教材として採用されることになった。英語としてもきちんとした文章だからなのだろう。ロクに英語の読めないわたしも、一冊一冊大いにたのしむことができた。
 ところで、アメリカにはバロウズの作品のすきな連中ばかりでグループをつくっているということを風の便りに聞いたわたしが、ようやくミズリー州のカンサス・シティにその本部があるのをつきとめ入会し、はれてバロウズ・ビブリオファイルのメンバーとして、バロウズ・マニヤのキ印たちとつきあい始めてから、バロウズの作品を読むたのしさは倍増した。
 アメリカ的――とでもいうのか、バロウズ・ファンたちは本当に天真爛漫、天下泰平にバロウズの作品をたしのんでいるのだ。バロウズ・ビブリオファイルの機関誌《バロウズ・ビュレティン》を開いてみると、思わずニヤリとしたくなるような記事がたくさんのっている。たとえば火星の地図である。火星シリーズ全10冊、(厳密に言うと11冊、15篇)を徹底的にひっくりかえして、都市やその位置に関する説明の部分を拾いあげ、くみあわせて地図をこしらえるわけである。たとえば、ジョン・カーターの本拠となる赤色人の首都ヘリウム。これについては第八作『火星の透明人間』の始めのところに“ゾダンガの西130ハードで南緯30度"と書いてある。で、そのゾダンガは、というとこれがうまい按配に、やはりその第八作の中に“東経172度、南緯30度“と出てくる。こんなふうにしてイモヅル式に各都市の位置をきわめて行くわけである。もちろん、火星の度量衡単位についてのくわしい考証は別のファンがやっていて、1ソファドが地球の1.17インチ。10ソファドが1アドで、2,000アドが1ハードというわけだから地球上の0.36マイルにあたるという具合……。
 前にも書いたように、〈火星シリーズ〉は三十数年にわたって書かれたものだから、前後関係のくいちがいはいろいろとあり、特にこんなふうに厳密にやってみるとかなり矛盾が出てくる部分もあって、なんとか辻凄を合わそうと四苦八苦しているのがほほえましい。いずれにしろマニヤならではのことであろう。
 これを開いて、ジョン・カーター歴戦のあとを目でたどりながら読む〈火星シリーズ〉のたのしさはまた格別、ファンの醍醐味というやつである。
 バロウズ自身も、執筆のために同じような地図を作っていたらしいが、自筆とおぼしいものは〈ペルシダー・シリーズ〉しか発表されていない。それも第一作、第二作の舞台だけで、それ以降の分については、三人のファンが共同でかなりくわしいものをつくっている。
 それから火星語辞典、ペルシダー語辞典、金星語辞典など。こいつが大変に重宝なのである。火星のジェッドとジェダックとはどうちがうんだろうなどという時にこれを見ると、ジェッドは王あるいは酋長で、ジェダックは皇帝または大酋長のことだ、というふうにすぐにわかる仕掛けになっている。

〈火星シリーズ〉を読んでいて、いちばん気になるのは、なんといっても、ジョン・カーターの妃デジャー・ソリスがどんな美人かということだろう。これは海の向うも同じこと。
 どのファンジン(ファンの発行するマガジン)をあけてみても、ファンの書いたデジャー・ソリスの肖像画ののっていないものはない。それも大部分はおそろしくへたくそな画で、イメージがブチこわされることおびただしいが、ジェーン・マンスフィールドかクラウディア・カルディナーレなど当節の代表的なグラマー美人を彷彿させるのもおもしろい。それからペルシダーに出てくる例の地底戦車の設計図、カースン・ネーピアの宇宙船の想像図もあるし、ありとあらゆるバロウズの写真ものっている。鉄道警官時代の写真をみると彼はかなり濃いロヒゲをはなしているのだが、そのヒゲがあとでペンで書きこまれたものだと騒ぎ出したファンがいて大論争(!)が起きた。すったもんだのあげく、バロウズの長男の「親父はそんなイタズラをして喜ぶくせがあった」という証言(!)でめでたしめでたし……。
 そんな半気違いばかりのグループである。
 バロウズの初版本だの、作品を載せた古雑誌は、びっくりするような値段で取り引きされており、丹念なインデックスやビブリオグラフィがいくつも作られている。
 日本版で〈ペルシダー〉や〈火星シリーズ〉が出たというニュースは、当時、あちらでちょっとしたセンセーションをまきおこし、頻々と私のところにも問い合せがくる。日本語がよめるわけでもあるまいにと思うのだが、このファン気質、よくわかるのだ。
 太平洋戦争が勃発した時、バロウズはホノルルに住んでいたので日本海軍の真珠湾空襲を体験している。ちょうど66歳であった。そしてロスアンゼルス・タイムス紙の特派員としてさっそく従軍し、ブーゲンビルからマリアナにかけて、一連の作戦に参加した。雀百までなんとやら、未成年の頃から第七騎兵隊にもぐりこもうとした彼の面目は老いてますます躍如たるものがある。アメリカ最年長の従軍記者である。何度か爆撃機に同乗したというし、機長がバロウズ・ファンだったのだろう、“火星のプリンセス”というニックネームをつけたB29の前でとった写真をみたことがあるので、ひょっとしたら本土空襲にもやってきたのかもしれない。
 ノルマンディの上陸作戦に参加したアメリカのあるバロウズ・ファンが「あの悪夢のような日日を、わたしが勇気をもって戦い抜くことができたのは、ジョン・カーターに負けてなるものか、といつも自分に言い聞かせたからだった」と書いていたが、ちょうどその頃、ジョン・カーター生みの親の御当人もまた、最前線で弾丸の雨をかいくぐっていたというのは、いかにもバロウズらしいし、しかも、その従軍の経歴を、彼はジョン・カーターの作者であることよりもほこりにして、1950年の3月に死去するまで、家族や友人にいともたのしそうに話していた、という逸話もバロウズならではのものだろう。

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