映画:キック・アス(監督:マシュー・ボーン)


スーパーヒーローに憧れるサエない少年デイヴ(アーロン・ジョンソン)が、自らを“キック・アス”と名乗り、ヒーローとして活躍するとともに、これは父娘の復讐の物語である。
主人公の少年を初め、ヒーローに憧れる人は少なくない。腕っ節が強くて悪いヤツらをバッサバッサと懲らしめる正義の姿。暗い過去に苦しみ少し陰のある孤高の姿も格好いい。しかし実際に暴力を目にしたとき、人はどう行動するか。自分は関係ないつもり、観客のつもり、安全な仕切りの向こうで携帯カメラを構えて動画を撮るだけ。デイヴの殴られてボコボコにされているときに『黙ってみているヤツラが許せない』といった言葉は、必ずしも正義感から出た上っ面だけのことではないだろう。シャレになってないんだよ。助けてくれよ。なに動画撮ってんだよ。なんなんだコイツら。頭数が揃っててもオレだけ袋叩きでみんな黙って見てるだけかよ! あああ許せねえぇぇぇ! 逆切れに近い感情ではなかろうか。
チンピラに逆らえば仕返しされる。自分だけでなく、家族や周りの人間に累が及ぶこともある。そうでなくとも単純に痛いのはイヤだ。自分はやり方も知らないし、ケンカ馴れしているワルに勝てるわけがない。だから誰も係わり合いたくないのだ。そしてヒーローとはそれを背負って立つ存在である。彼らが孤独だというのはそういうことだ。特殊能力でもなきゃやってられないが、この物語には超能力をもったヒーローは出てこない。どこまでも普通の人間だけなのだ。
コスチュームを着ただけでヒーローになれるわけではない。デイヴも一応ビルの屋上で路地を飛び越える練習や部屋の中で格好良く警防を振り回してみたりもする。しかし所詮素人の付け焼刃だ。実戦になるとまったく役に立たず、当然の帰結として半死半生の目に遭うことになる。
んじゃ、孤独に耐えるほど強い動機と情熱に支えられ付け焼刃ではない目標と計画性があるとはどういうことか。それがビッグダディの姿である。罠に嵌められ自分は実刑判決を受けて職を失い最愛の妻は自殺する。これが動機だ。しかし動機だけでは計画を遂行することはできない。月日が経ち娘が成長してくれば、過去の復讐よりも娘自身の幸せについて考えるのが順当だろう。しかしそこでひとつの復讐に囚われ、幼い娘を何年もかけて英才教育するくらい偏りのある人物像が要求される。物語を成立させるためには彼は常軌を逸していなければならない。そこであの狂った内装と、いつも困ったようなへの字眉毛の被害者面。モトふゆ‥‥もとい、ニコラス・ケイジの演技はさすが秀逸であった。悪を懲らすにしろなんにしろ、暴力で相手を叩きのめすということはキレイゴトではなく、実質は容赦なく手足を切り落とし串刺しにするという残虐行為以外にはなりえないのだ。そこまでするのに漠然と街に蔓延る悪を滅ぼすなんて曖昧な存在ではありえない。
ヒットガールは、生まれたときから英才教育を施された子どもが、その内容に疑問を持たず身体能力を最大限に引き出せるギリギリの年齢だろう。女の子らしい情操は与えられず、誕生日のプレゼントは高級バタフライナイフ。学校にも行かず学ぶのは武器の扱い方。素顔は口が達者でおしゃまな普通の女の子が、チョコファッジと引き換えにお父さんの訓練に付き合うなど、一見してスポーツの英才教育のようだが、やっていることは武器の訓練だったりする。
間違いなくお父さんは偏執狂だが、彼女はお父さんが大好きだし親子関係は良好そうだ。そんなに不幸でもなさそうなところが、逆にとてつもなく歪んだ話で、やっていることはまともな神経ではできないことだろうし児童虐待もいいところである。しかし、それでいて彼女のアクションは疾走感もあって最高にクールなのだ。戦争行為だってプロバガンダだけ見れば格好いいものだから。
精神的にも肉体的にも装備としてもシケたイケてない少年は、マジな抗争にのこのこと首を突っ込み、精神的にも肉体的にもとことん叩きのめされることになる。だからといって身も世もなく悩んだり落ち込んだりするかといえばそんな繊細なタマでもなく、私生活ではやっぱりあんまりイケてないものの友達と駄弁ったり彼女ができたり青春しているのが、妙に健康的である。そんで呼ばれればまたヒーローの格好をしてのこのこと出掛けていく。どこかネジが外れているというか、懲りないんである。
ヒーローがもしいたとしたら実際のところこうだよなという想定と、その行き着く先を描くのはいかにもアメコミらしい話であろう。真面目に考えると、勧善懲悪というのはある程度無神経・無自覚で盲目的でなければできない所業である。あるいは子どものような無邪気な一本気さか。ところで生まれたときからそのように育てられた子どもは、いつか自然に自らの罪に気付きおののくのだろうか。案外そうでもないんじゃなかろうか。『どんな場合であれ殺人は忌むべき罪である』というのは、今現在の我々が持つ文化での考え方だ。復讐・仇討ちは言うに及ばず虫ケラのように人殺しが行われた時代はそんなに遠い過去ではない。なにせ、宗教でそれを禁じなければならなかったほどなのだ。文化というのは育つ環境によって身につくものだ。ヒットガールの存在は、『ジョニー・マッド・ドッグ』の少年兵にみられるような、文化が違うということのひとつの表現ではなかろうか。
暴力による制裁とはつまりこういうことだとはっきり示しつつ、必ずしも重く暗く自虐的になるばかりではなくて、その中にはギャグもあるしクールなところもやっぱりある。そう、あるのだ。みんなが大好きな「ヒャッハー!」ってこういうことだよね。この世で一番守られるべき幼い少女すら例外にはならない。そうすることで残虐行為をある事実としてしか扱わない態度は、観る側に薄ら寒い気持ちを起こさせる。何事もひとつの側面だけに囚われず、別の見方をしたり一方では全然違うことをしていたりのバランスが実に素晴らしかった。
ところで映画を観終わって多くの人が『もし‥‥』と考えることがあると思うのだが、果たしてそれでうまくいくだろうか。ここまできた彼女が、できるだけ幸せになるにはこの結末しかないんじゃなかろうか。物凄くよく出来たストーリーだと思う。原作のほうはまだ読んでいないが、噂ではまた違う結末なのだそうな。