古くて新しい「ワクチン不妊デマ」と、新生児破傷風

サーバリックス@wikiのこちらにもあるように、「HPVワクチンは不妊化を目的としたものだ!」という噂をよく耳にします。もちろん、この話はまったくのデタラメ、事実無根(詳しい検証は上記のリンク先をごらんください)なのですが、一部では根強く信じられているようです。実はこの「ワクチンで不妊になる」というデマは、感染症診療の原則によれば、発展途上国では定番のデマだそうです。今回は、フィリピンにおける1990年代はじめの破傷風トキソイドワクチンの例について、デマがどのようなものであったのかについてまとめてみました。

新生児破傷風とは

破傷風は、破傷風菌( Clostridium tetani )が作る毒素によって起こされる病気です。「新生児破傷風」というのはは日本ではあまり聞きなれないかもしれません。先進国ではほとんど見られないものだからです。横浜市衛生研究所のHPによれば、以下のような病気です。

新生児破傷風( neonatal tetanus : NT )は、新生児に見られる全身型破傷風です。破傷風トキソイドに対する免疫を持っていない母親から生まれた新生児に見られることがあります。出生時、臍帯(へその緒)の切断にあたり不衛生な処置をしたような場合によく見られます。先進国では珍しいですが、発展途上国では、よく見られます。

また、WHOによれば、2008年の新生児破傷風による推定死亡数は59,000にのぼるそうです。現在でも死亡率は非常に高く、IDWRによれば、新生児における死亡率は75%とのことです。


このように恐ろしい新生児破傷風ですが、幸い予防法があります。その一つは、出産時の衛生状態を良好に保つこと(滅菌された器具を使うなど)ですが、これは発展途上国の医療事情では困難な面があります。もう一つの有力な手段が、母親に破傷風トキソイドワクチンを接種し、胎児に免疫抗体を移行させることです。

破傷風トキソイドワクチンと「不妊化」の噂

フィリピンでは、1980年から、WHOにより新生児破傷風予防のため、妊娠可能な女性への破傷風トキソイドワクチン接種プログラムが開始されました(1)。これにより、フィリピンでは、1980年に新生児破傷風が1506例報告されていたのが、1994年には336例に減少しました(2)。


ところが、1995年3月、中絶に反対する立場を取るキリスト教系団体が、「破傷風トキソイドワクチンの接種は不妊化を目的としたものであり、ワクチンには避妊ワクチンの成分であるhCG(ヒト絨毛性ゴナドトロピン)が混入されている」という「衝撃の事実」を「暴露」し、訴訟を起こしたのです。これにより、フィリピンの国民予防接種デー・プログラムにおける、破傷風トキソイドワクチンの接種率は、1993年の86%から、1995年4月には20%にまで大幅に減少したのです(3)。

「人間実験室」

この噂は、英BBCの科学ドキュメンタリー番組「Horizon」で1995年11月*1に取り上げられました。番組の内容は、「フィリピンの破傷風トキソイドワクチンは不妊化ワクチンである」とする人たちの主張をほぼそのまま取り上げたもので、、現在でも「破傷風ワクチン不妊化説」の根拠として引用され続けています。こちらで番組の書き起こし全文(英語)を読むことができます(本資料は@gf_hackさんに教えていただきました)。以下に、番組で語られたフィリピンの破傷風トキソイドワクチン接種プログラムをめぐる「疑惑」の内容を要約します。

  1. フィリピンにおける破傷風による死亡者の2/3が男性であるのに、政府が14歳から45歳までの妊娠可能な年齢にある女性のみに破傷風トキソイドワクチンの接種を行ったことから、疑いを持った。
  1. このプログラムでは、3年間に5回の接種が行われるが、通常の破傷風トキソイドワクチンではこのような回数の接種は行わないはずである。
  1. スラムで働く女性から、破傷風トキソイドワクチン接種後に流産が増加したという話を聞いた。
  1. 知り合いに頼んでこっそりとワクチンをクリニックから持ち出し、独立したラボでhCGの検査をしたところ、4本のうち3本でhCGが検出された。

(シスター Mary Pilar Verzosaの証言)

他にも、医師の証言として、破傷風トキソイドワクチン接種後に流産した2人のhCGレベルが非常に高かったため政府を相手取って訴訟を起こしているとか、ほんの少しのhCGが混入しているだけで体内に抗hCG抗体が産生されるだろうという「証言」が取り上げられています。これに対する政府側の反論としては、医師の「検出されたというhCGの濃度は非常に低く、明らかにバックグラウンドノイズだと考えられる。破傷風トキソイドが流産を引き起こすためにhCGに汚染されているというのはでたらめだ」という一言のみです。

番組の内容を検証してみる

この番組についてですが、まず問題だと思われるのは、「フィリピンでの女性に対する破傷風トキソイドワクチン接種プログラムは、新生児破傷風の予防のためのものである」というもっとも重要な事実をすっ飛ばしていることです。BBCはイギリスの放送局であり、視聴者は新生児破傷風に対する知識があまりないことも十分想定され、誤解を招く恐れがあるにもかかわらず、です。実際、この番組を「ワクチン不妊仮説」の論拠として引用している人たちが新生児破傷風について触れるていることはほとんどないようです。実は、上のシスターの証言のうち1と2の「疑惑」については、この「新生児破傷風」というキーワードで十分説明できるのです。


1については、1980年のフィリピンでの破傷風の報告数(2)によると、男女比はわかりませんが新生児破傷風1506例、成人も含めた全破傷風が3080例でした。これは死亡数ではなく発症数ですが、新生児のほうが死亡率が高いことを考えると破傷風による死亡の半数以上が新生児破傷風だったと考えられます。女性に対する破傷風トキソイドワクチンの接種が進んだ1993年では、新生児破傷風が455例、全破傷風が2116例になっているのです。これらのことから、女性への破傷風トキソイドワクチン接種は着実な成果を上げており、「新生児破傷風予防のための接種プログラム」としては、不自然どころか、非常に有効なものであることがわかります。男児を含めた全乳幼児向けの破傷風トキソイドワクチン接種はまた別に行われていました。


2については横浜市衛生研究所のHPにあるように、WHOの接種プログラムとして、新生児破傷風の多い地域での妊娠可能な女性を対象とした5回接種が決められています。これは、女性が出産時に血中に十分な量の抗体(これが胎盤を通じて新生児に移行し、破傷風感染を予防します)を持つこと、そしてその状態を、女性が生涯で妊娠可能な期間を通じて維持することを目的に、エビデンスに基づき決められたものです。


3について、これはもっとも重要な事実と思われますが、実際に流産が増えたのか?ということです。答えはノーです。フィリピン保健省の統計を見ても、フィリピンでは順調に子供が生まれ続けていますし、胎児死亡率(Fetal deth rate)は減ってます。さらに、この噂を受けて、フィリピン保健省は1995年に疫学調査を行い、Lancet誌に発表しています(3)。


上のグラフは参考文献(3)から引用しています。タイトルは「1980年〜1994年のフィリピンにおける破傷風トキソイド接種数と自然流産数」で、左側の縦軸(白丸)が破傷風トキソイドワクチン接種を受けた女性の数、右側の縦軸が自然流産の数(黒い四角)を表します。接種者数は右肩上がりに増加しているのに対し、自然流産の数はそれとは無関係に増減しています。また、同文献にはマニラDr Jose Fbella 記念病院で行われた症例対照研究についても報告されており、同病院で「自然流産した人」と「正常な出産をした人」を比較したが、妊娠前及び、妊娠19週までの破傷風トキソイドワクチン接種は自然流産のリスクを増加させることはなかった、つまり、ワクチンの接種により流産が増加したという事実はなかったとしています。


4について、ワクチンに実際hCGが混入していたかどうかのデータを直接示した資料は、残念ながら見つけれませんでした。しかし、参考文献(1)によれば、hCG 混入の噂を受けてワクチンは病院のラボに送られ、妊娠検査キット(尿・血清中のhCGを検出するためのもの)で検査されて、低濃度(キットの有効測定範囲外)のhCG が検出されましたが、これは不適切な検査方法によるためで、きちんと調整された適切な機器を使用しているラボで測定した場合にはhCGは検出されなかった、とあります。5カ国の6つのラボで、7つの製造業者による破傷風トキソイドワクチンが検査されましたが、hCGは検出されませんでした。また、病院のラボで検出されたhCGが、もし本当に存在したとしても、その量は、妊娠を阻止するほどの免疫反応を起こさせる量の数百分の1、数千分の1に過ぎないとしています(どんな少量のhCGでも十分な抗体が作られるなんてことは、もちろんありません)。なにより、上記の通り、フィリピン女性の生殖機能になんの影響も与えていないのですから、破傷風トキソイドワクチンが不妊化ワクチンではなかった、ということは間違いありません。

ひとごとではない

なんとこの噂は、2010年になってもまだ生きています。そして、フィリピンの新生児破傷風の報告数は2010年で126例でした(破傷風全体では1140例)(2) 。新生児破傷風撲滅計画の遅れに、この噂が関係しているかどうか、はっきりしたことはわかりませんが、なんらかの影響はありそうです*2


hCGは妊娠時に産生されるホルモンであり、hCGに対する中和抗体を産生させることで妊娠を阻止するというしくみの避妊ワクチンが実際に開発中で、このワクチンの成分の一部(キャリアタンパク質)として破傷風トキソイドが使用されていたことからこの噂が生まれたと考えられます。hCGワクチン中の破傷風トキソイドは、免疫をより誘導しやすくするためのタンパク質の「土台」のようなものであり、既に医薬品グレードで生産されていて安価に入手でき、ヒトへの安全性の実績があったということで破傷風トキソイドを用いただけで、避妊の作用とはまったくなんの関係もない上、破傷風トキソイドワクチンの側にhCGが混入するはずもないのです。


このような、まったく無関係なものが「破傷風トキソイド」というキーワードによる連想によって結び付けられ、事実無根の噂を産み、それなりの説得力を持って流布されてしまうという現象は、実はHPVワクチンにおける不妊化説でも同じ構造なのです(HPVワクチンの場合は『アジュバント』という避妊ワクチンと共通の成分が含まれていたことから噂が生まれました)。


ワクチンに対する意見はさまざまなものがあるでしょう。反対する人もいるでしょうし、安全性や有効性に対し慎重に検討したいという人がいるのも当然です。しかし、反対するあまり嘘やデマを流すことは許されないことです。ワクチンの接種を検討する際に、陰謀論や恐怖を煽る無責任な言説によって判断を歪められてしまっては意味がありません。私たちは、過去の失敗から学ばなければならないのではないでしょうか。つまり、社会としてこのような噂(デマ)を許容するべきではない、きちんと批判していくべきだと思います(批判といっても、噂を信じているひとを責めるというより、事実でない言説に対してちゃんと反論を示していくということです)。ワクチンによって助かる命が、デマによってそこから遠ざけられるのはとても悲しいことです。


参考文献

  1. Reprod Health Matters; 3: 24-28, Julie Milstienら, 1995
  2. NT cases by country (WHO)
  3. Lancet; 348: 1098-1099, Catindig Nら, 1996

*1:"The Human Laboratory" November 6, 1995

*2:ただし、同時期に同じ噂があったらしいメキシコなどでは、新生児破傷風は撲滅されています