被災者は「被災者」ではないということ

 地震直後よくつけていたテレビは、もうほとんどつけなくなった。被災地に対して、ひどく侵入的な報道を繰り返しているのが、耐えられなくなってきたからだ。そのかわりNHKラジオをよく聞くようになった。淡々としたアナウンサーの語り口や、ゆったりした構成に安心しながら、情報を得ることができる。
 ラジオでは震災関連の情報の間に、よく視聴者からのお便りが紹介される。たとえば、「被災地での苦しみを思うと涙がでます」、「苦しいけれど、がんばりましょう」という全国から寄せられた善意の声だ。そうした励ましの声を聞くと、失われつつある「人の絆」というものをなお信頼してよいような気がして、ほっとさせられる。おそらく、現地の視聴者も心理的に支えられているのだと思う。
 しかし善意にもとづく言葉であっても、それが被災者に対して大きなストレスをかけてしまう恐れがあることにも十分注意を払わなくてはならない。精神科医ビヴァリー・ラファエルは『災害の襲うとき』(1989年刊、みすず書房)の中で次のように指摘している。

 人間が日常的に直面する死別とは対照的に、災害による死別は公共性がきわめて強い。その死別がいつ、なぜ、どのようにして起こったかについて、少なくともおおよそのことは、誰しも知っている。だから遺族に対しては一般から多くの同情と支援が集まり、死者を出したこと以外にはその災害によって直接被害を受けていない場合でも、配慮や保護の手が集中することになろう。・・・
 一般からの同情と支援はまた一般からの期待をともなうものである。遺族はけなげに対応することを期待され、また彼らがこうむった喪失は、他の被災者たちの喪失とその大小を比較検討される。遺族は型どおりにふるまうことを期待され、期待通りに悲嘆を表出することを望まれることが多い。このような一般からの期待は、遺族の自然な対応の仕方とは大いに異なっていて、その結果さらにストレスをつのらせることにもなりかねない。遺族には「アバーファン惨事の親」とか「バッファロー・クリークの遺族」とかのレッテルが貼られる。(pp168-169)

 親しい人の死というのはきわめて個人的な経験であるにもかかわらず、災害によってそれが公共的な場にひきずりだされてしまう。報道を通じてその悲劇に接した視聴者は、ステレオタイプなイメージを通して被災者を眺めがちとなり、メディアはそうした大衆の期待に応えるべく、被災者にインタビューを行い、個人的な死をステレオタイプな物語につくりあげて放映する。メディアにふれた視聴者は、被災者に対して深い同情を寄せ、その思いに突き動かされて、被災地への励ましのメッセージを送ったり、多くの募金、支援物資を届けようとする。
 この結果だけ見れば、一見善意の好循環のように見える。しかしこの循環の中で、ひそかに被災者のこころは傷つけられていく。それは誰もが大切にしなくてはならない「その人らしさ」というもの、ステレオタイプなあり方には決しておさまることのない被災者の個人性−あるいは個人の尊厳といっていい−が傷つけられていくからだ。
 遠く離れたところにいる人が持っている「被災者」のイメージは、その人自身がもともと持つイメージとメディアからの情報との往還の中で、次第に輪郭づけられ、固定化していく。そして僕たちはその「被災者」イメージを前提として、「気の毒だ」、「なんとかしてあげたい」という思いを深めていく。
 でも被災者の方々は、「被災者」である前に、まず一人の人間なのだ。その当たり前の事実を、それがあまりに当たり前すぎるために、人はつい忘れがちになってしまう。だから僕たちは、自らが抱いている「被災者」イメージというものが、実際の被災者を傷つけていくということに、つねに自覚的であらねばならない。そのような努力をひとりひとりが重ねることもまた、間接的ではあるけれど、意味のある支援になっていくのだと思う。