宗教化する吹奏楽部

吹奏楽がお高くとまってるのが気に入らない

 この記事を読んで、正直ちょっと悲しくなった。この人が、どういう部活生活を送ったのか、なんとなくわかる気がしたからだ。僕の吹奏楽部生活にも思い当たるところがある。
 元増田について、「そんなことはない」とか「吹奏楽ってそんなもんだ」といってる人がいるけど、元増田のようなことをいう人がいて、それに賛同者が一定数いる以上、吹奏楽という分野になにかしらの矛盾があることは否めないんじゃないでしょうか。ただ、元増田は現状と原因の認識を少し誤ってると思う。このエントリではその辺を考える。
 ちなみに、僕の高校時代の恩師が今年から吹奏楽部の顧問なんですけど、先生からのメールに「君の部活はなんだか宗教みたいです」と書いてありました。着任数ヶ月にして部の特質を見抜く先生の慧眼を讃えつつ、このエントリを吹奏楽に暗い思いを抱く人に捧げます。

ガラパゴスなジャンル

 まずは元記事へのツッコミから始めたい。まず、ジャンルとしての問題。

 それならそれでクラシックの姿勢を貫けばいいんだが
 簡略化した挙句にジャズとかポップス等、多方面からもつまみ食いした結果(中高生のハートをキャッチするためでしょう。おそらく)
 完全になんか不思議なジャンルと化している。どの観点から見ても中途半端。
 全国的に子供に率先してやらせる音楽ジャンルがこういうものってどう思う?

 吹奏楽が色々なジャンルからつまみ食いをしているというのは事実だ。
 吹奏楽部の演奏会はふつう、吹奏楽オリジナル曲、あるいはクラシック曲の編曲とポップス曲で構成されるのが普通だ。元増田の言うとおり、中高生のハートをキャッチするという狙いもあるし、地域のホールなんかで演奏するという客層の関係、あと様々なジャンルを学ぶという教育的配慮があるようだ。で、それがガラパゴスでつまみ食いの不思議なジャンルになっていると元増田はいう。
 ここでは、まずガラパゴス・ジャンルで悪いのかという話をした上で、「つまみ食い」ジャンルとしての吹奏楽の問題点を考えます。


 元増田はクラシックの姿勢を貫けてない、という。ここにはクラシックは主流であるという発想があるんだろうけど、クラシックは主流であるというだけで、思想としては十分ガラパゴスだ。
 たとえばピアノコンクールなんてものがあるんだけど、世の中の大半を占める一般人にはどの演奏者が良くてどれが悪いなんていうのは分からない。普通の人はテレビでなんとかコンクール日本人初入賞とか知って、それでああ良いんだなあということでCDを買ったりする。あるいは『レコード芸術』っていうクラシックCD専用雑誌があるんですけど、録音状態がどうとか些細なニュアンスがどうとか、そこに書てあることの大半は一般人には理解できないと思います。
 それが特に顕著なのは現代音楽で、いや別に僕は現代音楽大好きなので恨みは無いんですけど、世の中の大半を占める一般人には、どの作品が良くて、どれが悪いなんてことは全く理解できない。理解するためには膨大な西洋音楽史(場合によっては東洋音楽や民族音楽史)を習得しなければならない。
 もちろんそれを抜いて、感じた印象だけで評価することはできる。でも、コンクールの評価であるとか、音楽雑誌の短評のような「公」の場での論評では、ある程度の「形式」に従うことが、暗に要求されている。何も考えずに聴くべきアンビエントな音楽というのもあるにはあるけど、どっちにしろそれを論評するには、それがアンビエントな音楽であるという知識が必要だ。
 はっきり言って『なんとかカンタービレ』みたいに「ああ! これは普通の評価基準では全然だめだけど、素晴らしい人材だ!!」というのは難しいです。もちろん個性というのは認められるけど、それは暗黙の評価基準を満たしてからの話です。そしてその評価基準というのは普通に生活しているだけでは理解できない。僕もよく分からなかったりする。
 世の中には「権威」を必要としている人がいまして、それが枕を高くして寝るにはある程度きまりきった定規がいるのです。いちいち個性とか言われたらたまったもんじゃねえよ、という話。
 たぶんこういうのってあらゆる音楽のジャンルにあるんじゃないかな。だから、ジャンルとしてのガラパゴス化というのは問題ではあるけど、それは吹奏楽に限った話ではない。この点はしっかり確認したい。
 で、元増田も少々主流としてのクラシックの権威に縋ってる部分がある。クラシックだって一種のガラパゴスなのに、そこから吹奏楽ガラパゴスなることを指摘するのは不当だ。

編曲死ね!

 で、ガラパゴス化は許したんですけど、つまみ食いジャンルとしての吹奏楽がダメだという話はしなきゃいけない。この辺は音楽的な話で、ちょっと私見も入ります。
 吹奏楽はいろいろなジャンルの音楽を編曲によって引っ張ってきてるんですけど、それをことごとくショボくしているという問題。吹奏楽経験者なら肯いてくれるよね?
 これの大きな原因としては、作品の意図を考慮せず、印象的な旋律や和音だけを継ぎ接ぎして編曲しているというのがあると思う。 
 僕は、編曲自体は否定しない。後で述べるように、編曲によって開ける新境地というのもあると思うからだ。これは特にポップスでいえるのだが、曲の本質的な部分(宗教化を批判する以上、こういう中途半端な概念は使いたくないのですが、その曲の中核・アイデンティティくらいで考えてください)というのは、楽曲構成だったりオーケストレーションだったり全体から浮かび上がってくるものだと思う。しかし、吹奏楽では特徴的な旋律(CMで使われてるものとか)だけを馬鹿みたいに強調し、あとはテキトーなノリで行っちゃえ! みたいな編曲がよくある。これが吹奏楽のつまみ食いたるゆえんである。
この辺の音楽的な、作曲家・中橋愛生さんの以下のページがすごく詳しいので、興味のある方は参照してみてください。
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コンクールの評価方法について

 次はコンクールの話。

そこで教育的思想が大きくなりすぎるっていう話になるわけだけど
その全日本吹奏楽コンクールの審査基準っていうのが
「個性<集団」に相当偏ってる。
要は「中高生が協力し合って作った感動」を魅せると高得点取れる。

 「個性<集団」というのは何のことをさしているのかよく分からない。プロのオーケストラでも、演奏の評価が個人の技量や個性よりは全体になるのは当たり前だし、「中高生が協力し合って作った感動」というのは僕自身なんなのかよく分からん。
 吹奏楽コンクールはミスを厳しく採点しすぎていて、演奏上の表現を軽視している、という意見はしばしば聞かれる。だが、僕は表現なんていう曖昧なもので採点するよりは、まだある程度はっきりする技術で採点した方がいいと思う。表現に点を付けるなんてそれこそ宗教だ。だいいちコンクールで受け入れられるような表現なんて、百均で叩き売られてるようなフラットで量産型のものでしかないだろう。
 あるいは聞き栄えのいい演奏、あるいは協調性があってまとまりのある演奏が好評価になる、という側面があることを言ってるのかもしれない。『フェスティバル・ヴァリエーションズ』という大変キラキラしてて見栄えが良くて技巧的な曲がある。当然コンクールでは大人気。で、その冒頭がホルンの高らかな旋律で始まるんですが、とある学校ではさらに聴きばえを良くするために、こっそりホルンの裏にアルトサックスを入れたらしい。こういう作者の書いた楽譜を都合よく改竄する行為は、クラシック業界ではご法度中のご法度で、発覚した暁には「おふくろさん騒動」並みの大バッシングは免れないと思います。
 あと本当に審査に影響してるかは知らないんですけど(僕はさすがにそこまでは見てないんじゃないかと思う)、吹奏楽部はなぜか見栄えにもこだわる。ニコニコとかでコンクール演奏見れば分かると思いますが、いわゆるトップ校は、奏者の「動き」が揃っている。文字通り「動き」ですよ。マジでフルートの角度とかまで揃ってたりするからシャレにならない。
 で、こういうのを元増田が言うように、アホな弱小校が真似すると大変なことになる。実体験でわかるぜ。なんで顧問に演奏中の動きまでコントロールされにゃいかんのだ。
 ここまで述べたのは、吹奏楽コンクールの評価方法はそこまで酷くないけど問題点があるということ。さらに評価方法に関する一種の迷信(宗教的な!)があって、上手い学校がそれをやるために弱小校がバカの二つ覚えで真似して大変なことになる、ということです。
 ちなみに2chに光臨した吹奏楽コンクール審査員の発言がまとめられてますので、嘘か本当かはさておき読んでみるとおもしろいと思います。
吹奏楽コンクールで審査員とかやってるけど質問ある?[ アレスケープ2chアーカイブ ]

吹奏楽教本尊つまようじ学園

 コンクールの採点方法はそれ自体としてはそこまで問題ではないとここまで述べました。じゃあなぜ宗教化しちゃうのか。

 そこで教育的思想が大きくなりすぎるっていう話になるわけだけど
 その全日本吹奏楽コンクールの審査基準っていうのが
 「個性<集団」に相当偏ってる。
 要は「中高生が協力し合って作った感動」を魅せると高得点取れる。

 審査基準が一つしかないのは野球とかサッカーも同じだ。だが、サッカーが宗教と言われることはまず無いだろう。吹奏楽とサッカーはどう違うのだろうか。
 サッカーの場合、評価基準がルールというかゲームの本質の中に組み込まれている。点数制度がなかったら、それはもはやサッカーではない。一方で、音楽に絶対的な価値なんてものはない。前述したように、コンクールや公の評価では基準が必要だが、最終的には絶対的な価値はない。


 宗教的な吹奏楽部では吹奏楽コンクールの価値観が絶対となる。しかもそれはサッカーのように「ルール」として絶対化されるのではなく、初めから決まっていたことのように、つまり宗教でいう「神」のように絶対化されるのだ。
 ところで、「吹奏楽の旅」に出ていた顧問はしばしば「な? こっちのほうがいいだろ?」というような言い方をする。生徒としては「いや、前の方が良かっただろ・・・」と思うことがあるだろうし、本来それを表明する権利があるはず。音楽というのはそういうものだ。そのような音楽を、上から与えられた絶対的な価値観・ルールでやろうとするから、矛盾が出て当然なのだ。
 そしてその矛盾を隠すためにはなんだってする。逆らう部員はやめればいいのさ! ブラック企業もびっくりの重圧ミーティングなんて吹奏楽お家芸だ。
 僕は吹奏楽部で「客に聴かせることを考えるんだ!」というような事をしばしば言われた。よくよく考えてみると、どんな客が来るかなんて想像がつかないし、ついたところで大勢の客が一様なレスポンスをすることなんてない。これは一種の「太宰メソッド」で、ここでいう「客」
というのは吹奏楽が信奉するコンクール定規の代弁者なのだろう。吹奏楽部ではしばしばこういう論法が使われる。
 あともう一つ。吹奏楽界隈では微妙に有名な話なんですけど、「笑ってコラえて」内のコーナーの「吹奏楽の旅」でつまようじ学園こと県立柏高校が取り上げられたとき、顧問の口からこんな名言が生まれた。昔はYouTubeにあったんだけど今探したらなかったから文字で再現する。

 音楽室で合奏準備をする吹奏楽部員。そこに顧問がドカドカと登場。
 顧問「おい!!!! ちょっとこっちに集合しろ!!!!」


 廊下の一角に集められた吹奏楽部員。そこは部員が昼食をとった場所だった。
 顧問「おい。これは何だ?」
 青筋を立てる顧問の右手には、燦然と輝くつまようじが握られていた、いや、摘ままれていた。
 生徒「つ、つまようじですっ」
 顧問「なぁんで廊下につまようじが落ちてんだ!!!!
 つ ま よ う じ 一 本 で学校が壊れんだ部活が壊れんだよぉおお!!!!!!
 いいか!!!! わかったか!!!!」
 生徒たち「はいっっっっ!!!!!!!!!」

 これを見ていた中一の僕は笑いとかそういうものを超越して目を見開いて呆然としていた。つまようじ一本で学校が壊れる。その発想はなかった。
 コンビニでもらえる割り箸にくっついてくる爪楊枝を落とすなんてよくあることだし、あれだけ小さいと点検不備も指摘しにくい。例えば、つまようじ一本も落とさないような生活というのを考えてほしい。それはまさしく軍隊の生活だ。そのような状況下でなにかに注意を払うことはできようが、それについて考えることはできないだろう。なにも考えなくていいから言われたことだけやってね。この顧問はまずそういいたいのだ。
 そして一方ではつまようじ一本で崩壊してしまう、矛盾を抱えた吹奏楽部の姿を象徴しているのかもしれない。その矛盾に対して、つまようじ一本分でも疑問を持ってしまった部員は
 はっきり言ってこの事例はマジでキモい。宗教の最たる例だ。あまりに極端な例なので、「ここまではいかねえよ」という意見もあるかもしれないが、これと同じ要素を多くの吹奏楽団が持っていると私は考えている。

吹奏楽は死ぬべきか(音楽編)

 これが僕の考える吹奏楽の現状です。じゃあ吹奏楽は死ぬべきなのか。ここからはその辺を考えていく。
 まず音楽面の話もしましょう。日本に限らず、吹奏楽の伝統は大変短い。古典というべき作品なんて、マーチとあとはホルストの「第一・第二組曲」くらいしかない*1。伝統がないということには土台がないというネガティヴな面もあるが、一方で伝統に拘束されないという面もある。だから、吹奏楽には現在のクラシックとは違って、古典に縛られない活動ができるのではないだろうか。編曲による様々なジャンルの消化というのもその一部だろう。
 そして、だからこそ、吹奏楽部の活動では各ジャンルの「つまみ食い」ではなく、各ジャンルをたっぷり食べて咀嚼して演奏に取り組むべきだと思う。同じガラパゴスでも、テキトーに取り合わせたゲテモノ料理ではなく、B級グルメを目指してほしいのです。

吹奏楽は死ぬべきか(活動編)

 さっきまで述べたように、コンクールはある程度健全な活動をしていると思う。下手に感情を入れた評価よりはいいでしょ? という消極的な話ではあるんですけど。元増田は吹奏楽が悪い原因を、連盟やコンクールが一つしかないことに求めている。だけど、本当に悪いのは個々の活動を決めている顧問ではないだろうか。コンクール中心主義を作り出しているのはコンクールではなく顧問なのだ。
 私見になってしまうけど、結局のところ音楽の価値が生まれるところがどこなのかというと、個人と個人の間、つまり演奏者と個々の聞き手の間であると思う。それはマイケル・ジャクソンでもAKBでも同じだ。そこでは絶対的な価値観なんてものはなく、あるのは生きた他者のみだ。生きた他者に伝えるために、自分自身と直面して、戦って音楽を磨かなければならない。コンクールのような他人との比較ありきで音楽をやってしまうのは良くない。そのことを顧問は教えるべきだと思う。その上で、発表の場ないし力試しとしてコンクールに出る。そういう部活が僕はいいなあ。
 絶対者を措定するのは宗教の始まり。関係ないけど、吹奏楽部にいるようなタイプって学校を出て、絶対的だと思ってた価値観が通用しなくなったら苦悩しそうだ。それで別の新興宗教にはまったりとかね!

さいごに

 なんだが熱く語ったら、このエントリが別種の宗教のようになってしまったかもしれない。弱小宗教吹奏楽部の出身者としては、どうしてもコンクール中心主義への恨みが出てしまう。
 負け惜しみを言うと、部活の価値というのは、結局のところ部員の満足度によって決まるものだと思います。もちろんオナニーは良くないんですけどね。
 そんなわけで、僕は明日、吹奏楽コンクールの運搬手伝いにいきます。他校の生徒の僕を値踏みする視線にたえなきゃいけないのは憂鬱です。可愛い後輩の顔が見れるのは嬉しいですが。なにはともあれ頑張ってほしいものです。

*1:リードあたりを古典という場合もあるけど、ここでいうのはもっと古い「古典」です。