なぜ「ポピュリズム」と「新自由主義」は仲が良いのか?

 トランプ大統領の誕生など、いわゆる「ポピュリズム」が注目を浴びています。この「ポピュリズム」の定義というのはなかなか難しいもので、政治学者の間でもその捉え方には違いがある状況ですが、多くの分析において「ポピュリズム」の隆盛の原因として広がる格差の問題があげられています。
 

 ただ、格差の拡大によって剥奪感を感じた人々が現状の政治に不満を持つという回路は分かりやすいのですが、そうした人びとがトランプのような人物を支持するという点には謎が残ります。
 格差の拡大によって貧しくなった人びとが、サンダースや急進的な再分配を訴える左翼的なポピュリズム政党を支持するというのはわかりやすいですが、「雇用」を連呼しているとはいえ、規制緩和と富裕層への減税を主張するトランプを支持することにはわかりにくさが残るのです。
 つまり、「新自由主義」は市場における競争を重視する考えで「弱肉強食」的な世界をつくりだすと考えられているのに、それを「弱者」が支持するのはなぜなのか?という謎です。


 「ポピュリズム」に関して、水島治郎『ポピュリズムとは何か』では、「「人民」の立場から既成政治やエリートを批判する政治運動」といった緩めの定義が与えられていました。一方、ヤン=ヴェルナー・ミュラー『ポピュリズムとは何か』では、「自らグループを「真の人民」として反対派を攻撃するやり方やその反多元主義的傾向」をもって「ポピュリズム」だと定義していました。
 ただ、個人的には、「ポピュリズム」に一貫した思想傾向を読み取るのは難しいと思っていて、「ポピュリズム」については以下のような漠然としたイメージをもっています。

 「ポピュリズム」とは、今まで政治を必要としなかった人(ゆえにコストを払ってこなかった人)が政治を必要とした時に、それをつなぐ回路の不在から起こる問題である。

 

 「ポピュリズムなんてものはない」というのも一つの考えだとは思いますが、ここまで「ポピュリズム」という言葉が使われる以上、やはり「ポピュリズムという問題」は存在すると考えたほうがいいだろうということで、ここでは「ポピュリズム」を「主義」や「運動」ではなく、「問題」として考えてみます。
 そして、「コストを払ってこなかった」というのは、政党に参加したり、何らかの組織を通じて政治にはたらきかけたり、またはそうした組織に加わってこなかったといったことを想定してください。
 

 水島治郎『ポピュリズムとは何か』が指摘するように、「ポピュリズム」においてよく使われる言葉の一つが「普通の人々」という言葉です。これは一般的に、政治エリートやマスメディア、高学歴層に対置する形で使われますが、同時に「ポピュリズム」は「マイノリティが不当な特権を得ている!」といった形で、この言葉を使いエリートだけではなくマイノリティや弱者を批判・攻撃する場合があります。
 これは鬱屈した不満のはけ口が叩きやすい弱者へと向かっているだけかもしれませんし、単純に差別意識が現れているだけとも取れますが、政治における「組織化」といったことを考えると、また別の風景も見えてくるのではないかというのが本エントリーの狙いです。


 まず、「政治が重要である」ということに関しては先進諸国に住んでいる人の多くが同意すると思います。ただ、日々の生活の中で政治に主体的にはたらきかけている人は少ないでしょうし、何らかの組織を通じて意識的に政治に関わっている人というのもそう多くはないでしょう。
 「政治は重要」と認めつつも、そこに大きなコストを払おうとはしないというのが現在の先進国に生きる多くの人々の態度なのではないかと思います。


 しかし、組織をつくって(コストを払って)政治に関わる人びともいます。農協や経団連日本医師会などの圧力団体や、創価学会などの宗教団体は、構成員をから資金を集め、あるいはさまざまな動員を行い、多くのコストを払って政治に参加しているのです。
 そして、政治家の多くも組織化されていない浮動票よりも、こうした組織の組織票をあてにして選挙を行い、その要望を多く取り入れるようになります。


 ですから、現実の政治では組織されていない多数派はよく組織された少数派ほど影響力を持ち得ないことがあります。
 組織されていない多数派の意思は選挙などの集計によらなけらば明らかにならないのに対して、組織された少数派の意思は明確であることが多いです。また、組織された少数派が必ず投票するのに対して、組織されていない多数派は投票に行かないかもしれません。
 このことから政治家や政党もどちらかというと組織された少数派を頼るようになります。小泉純一郎は「50万票もない電力総連を切って5000万の浮動票をとれ」ということを言っているとのことですが(「『自民党―「一強」の実像』/中北浩爾インタビュー」より)、多くの政治家はあるかどうかわからない多数の票よりもしっかりと計算のできる票を見ながら政治をするようになるのです。
 こうしたことから現代社会においては組織化されていない多数派がサイレント・マジョリティとして不満をためこみやすくなります。 
 

 では、なぜ「新自由主義」なのか?
 結論から言うと、「新自由主義」こそが組織を敵視し、それを解体する志向性を持っているからなのだと思います。
 「新自由主義」という言葉はいたるところでしかも否定的に使われている言葉で、場合によっては「現代の諸悪の根源」のように語られることもあります。先日読んだ、ウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか』は、「新自由主義」が政治の語彙を経済の語彙に変えてしまい、それが政治を歪めているということを主張した本でしたが、ここでも「新自由主義」は政治の世界を侵食する「悪いもの」として捉えられています。


 しかし、そうなると「新自由主義」が一定の支持を得る理由がわからなくなります。
 教科書的には、それまで支配的だったケインズ主義に基づく福祉国家が石油危機とそれに伴うスタグフレーションによって凋落し、経済成長を取り戻すために「小さな政府」によって市場の活力を引き出そうとする「新自由主義」が力を持つようになったということになっていますが、それだけであればリーマン・ショックを機に「新自由主義」の凋落がもっと大々的に起こっても良さそうなものですが、「新自由主義」的な政策や政党は意外にしぶとく残っています。
 おそらく、「新自由主義」には経済成長を実現させるだけではなく、既存の組織を解体して「公正」を実現させるという魅力があり、それが「新自由主義」を生き延びさせているのです。


 ただ、「既存の組織の解体」や「公正」という言葉を使うと、「新自由主義は大企業を優遇するしくみであり、そこに「公正」なんてものはない」と言いたくなる人も多いでしょう。確かに、現実に行われている「新自由主義」的な政策を見ると、既存の大企業をさらに有利にするような政策も散見されます。
 しかし、有名なサッチャー首相の「社会というものはありません。あるのは個人と家庭だけです」という発言や、「新自由主義」の教祖ともいうべきミルトン・フリードマン『資本主義と自由』を読むと、「新自由主義」が明らかに「反組織」を志向していることもわかります。


 フリードマンは現代の経済における企業の重要性は認めていますが、あくまでもそれは自発的に協力する個人の集合であり、そこに「主体」のようなものを見出すことはありません。
 フリードマンの有名な議論に「法人税の廃止」があります。当然、「反組織とか言うけど究極の企業優遇ではないか!」と思う人もいるでしょうが、次の引用を読めば、「法人税の廃止」が一種の「反組織」の主張であることがわかると思います。

 法人税は廃止すべきだ。また、法人税を廃止してもしなくても、企業は配当として払い出さなかった利益も株主の所有に帰すべきである。具体的には配当金の小切手を送付するときに、次のような報告書を添付する。「株主の皆様には、一株当たり○○セントのこの配当金に加え、一株当たり××セントの利益がございます。こちらは弊社が再投資いたしました」。報告を受けた株主は、配当金だけでなく、自分のものではあるが配分されなかったこの利益も、所得税の申告に含めなければならない。この仕組みでも企業が再投資するのは自由だが、再投資に回す利益を明言する以上、株主が配当を自分で別途投資するより企業の投資効果の方が高い時しか、再投資できなくなるだろう。(『資本主義と自由』247ー248p)


 おそらくほとんどの日本の経営者がこの提案を拒否するでしょう。この提案が実現すれば、大企業の社長であろうと何であろうと常に個人として市場の評価にされされることになります。法人(組織)という殻を剥ぎ取り、常に個人として市場に立ってもらおうというのがフリードマンの理想とする社会です。「個人」以外の「主体」は認めないというラディカルな個人主義者であると言えるでしょう。
 そして、現代の社会においてはこの殻を剥ぎとったラディカルな個人主義こそが「公正」であるという感覚があり、それが「組織を介さない理想的な民主主義」を実現する武器となると考えられているので、「新自由主義」は一定の支持を集めつづけ、また、「ポピュリズム」とも仲が良いのだと思います。


 もちろん、現実に唱えられている「新自由主義」的な政策の多くは、フリードマンの考えほどラディカルではなく、大企業優遇に過ぎないものも多いので、「新自由主義」に期待する「弱者」は裏切られることが多いかもしれませんが、それでも人びとは「利権団やマイノリティ組織に乗っ取られてしまった民主主義を取り戻す」機能を「新自由主義」に期待するのでしょう。


 個人的には、組織に頼らない政治というのは難しいと思うのですが、例えば、大正デモクラシーを代表する思想家の吉野作造は選挙民を組織化して地盤をつくろうとする原敬の政友会のやり方を批判し、普通選挙の導入によって組織に頼らないデモクラシーを考えていましたし、東浩紀『一般意志2.0』も、テクノロジーによる無意識の可視化と熟議の融合によって組織に頼らない新しい民主主義を構築しようという一つの「夢」の形なのだと思います。
 
 
 本当は、ここから「政治にはなぜ組織が必要なのか」ということを論じるべきなのでしょうし、ロナルド・H・コースやO・E・ウィリアムソンの企業についての考えを引用しながら、「なぜ政治では組織が重要視され、同時にすべてが組織化されないのか?」みたいなことを考えてみたかったのですが、ここで力尽きました。


 言及した本

ポピュリズムとは何か - 民主主義の敵か、改革の希望か (中公新書)
水島 治郎
4121024109


ポピュリズムとは何か
ヤン=ヴェルナー・ミュラー 板橋 拓己
4000247964


いかにして民主主義は失われていくのか――新自由主義の見えざる攻撃
ウェンディ・ブラウン 中井 亜佐子
4622085690


資本主義と自由 (日経BPクラシックス)
ミルトン・フリードマン 村井 章子
4822246418


一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (講談社文庫)
東 浩紀
4062932725