2011年7月13日21時50分
原子力をめぐる朝日新聞の社説は、この60年余で大きく変わった。その検証をしてみたい。
第2次大戦後の20年間ほどは、原子力の民生利用に希望を託す見方が世界の大勢だった。1948年2月3日社説は「原子動力化の実現する年」と題して原子力発電への期待を表明した。
53年12月、アイゼンハワー米大統領が国連総会で「平和のための原子力」を訴える。翌54年、中曽根康弘氏らが動いて原子炉製造に向けた修正予算案が国会に出されると、3月4日社説は、学界をないがしろにする提案だと批判した。原子力推進という同じ立場ながら、どう進めるかで対立する議論だ。
55年に原子力基本法が成立した。原子力政策は輸入炉を軸に進むが、朝日新聞は国産炉開発にこだわる。57年8月27日、茨城県東海村の原子炉に国内初の「原子の火」がともった日の社説も「記念すべき一歩」とたたえつつ、米国の技術頼みに苦言を呈した。国策を叱咤(しった)激励する日の丸原子力論である。
■転機はチェルノブイリ
そのころは、原子力のエネルギーも制御可能であり、兵器でなく民生に用いれば恩恵をもたらすという楽観論が強かった。新しい技術が科学の悪用か否か、それだけに目が向いていたように見える。その裏返しで、技術の不確かさへの関心は低く、原子力基本法が掲げる「民主」「自主」「公開」は論じあっても、「安全」論争は盛んにならなかった。
だが、広島と長崎の被爆の影響が長引くことがわかり始め、54年には第五福竜丸の核実験被曝(ひばく)事件もあった。50年代半ばから、科学界でも放射能のリスクや原子炉の危険を直視する動きが強まった。
朝日新聞社説も、新しい知識や情報を取り入れ、原発の大事故が起こりうることや、それがもたらす放射能被害の怖さに、もっと早く気づくべきではなかったか。振り返っての反省だ。
推進から抑制への変化は、79年の米スリーマイル島原発事故や86年の旧ソ連チェルノブイリ原発事故が起こってからだ。「安全を前提に原発を進める」という論調だったのが、原発を推進することの是非も考える議論に入っていった。88年4月26日社説は「立ち止まって原発を考えよう」と呼びかけた。
■危うさへの感度足りず
背景に、60〜70年代に深刻になった公害と、しだいに高まった環境保護思想がある。水俣病が世界に伝えられ、レイチェル・カーソン著『沈黙の春』などで、生態系を守る意識が国内にも広がった。
原子力に批判的な社説は、朝日新聞紙面に載った「原発と人間」(86年)、「汚染大地」(90年)などの企画記事にも呼応するものだった。
冷戦後の90年代には環境保護が国際政治の主議題となる。二酸化炭素(CO2)などによる地球温暖化の心配が高まると、原子力推進側は原発をCO2排出減の決め手と位置づける攻勢を強めた。
これに対して、96年12月2日社説は「原発への依存ふやすな」と見出しにうたって「放射能を帯びたごみのつけが、のちのちの世代に回される」と原発の負の側面を警告した。2007年5月3日の「社説21」は、脱温暖化策を提案しながら「日本の原発依存率は現状以下に抑えていく」とした。
09年3月16日社説は、太陽光発電の研究が次世代エレクトロニクスにもつながることなどを挙げ、原子力を柱とする科学技術政策の見直しを迫った。
この半世紀、巨大技術の危うさがわかり、人々の科学技術観も変わった。それを感度よく、洞察力をもってつかめなかったか。反省すべき点は多い。