意外と奥深い。アメリカでかつて栄えたソーラーが廃れた理由

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意外と奥深い。アメリカでかつて栄えたソーラーが廃れた理由

次世代の代替エネルギーに関心が集まっていますけど、米国で太陽光発電が誕生したのは結構古く(1884年、チャールズ・フリッツの太陽電池が最初)、1908年にはカリフォルニアで既に太陽熱でお湯沸かしてたって知ってました?

それが戦後ずっと斜陽になってしまったのです。こんな貴重なエネルギーを何故に75年近くも日陰に追いやってしまったのか? 「Powering the Dream」の著者Alexis Madrigalさんが謎に迫ります!

(以下は、本書より抜粋訳)

今の「グリーン技術」に歴史がないと思ってる人がいても、とやかく言えないだろう。世間一般の通念ではソーラー・風力は新しい技術ということになってるし、地熱はこれまでロクに試されたこともなく、効率優先の技術はこれから始まるものと思われている。過去あったグリーン技術と言われて思い浮かぶのはせいぜい60年代に脱・電力の暮らしを遊び半分にやったヒッピーのこととか、ひいじいちゃんの農場で風車がギシギシ回ってた時代があったとか、ゼネラル・モーターズがせっかく開発した電気自動車を殺してしまった話ぐらいではなかろうか?

史実をよく知る人間から言わせると、グリーン技術は発展の可能性が十分過ぎるほど与えられていながら見事にコケた、まさにエンジニアリングの失敗例なのだが、70年代オイルショック(エネルギー危機)の前の系統だった記憶は現代人の頭からほぼすっぽり抜け落ちている。あの時代テクノロジーの世界で何が起こったか、本気で記録に残す努力もほとんど行われてこなかった。ソーラー・風力・波力・水力・地熱開発事業のことを知る人に比べたら、ニシアメリカフクロウ絶滅の危惧を知る人の方がまだ多いぐらいだ。

そんな中ではあるが、時の風化をまぬがれた過去の残滓もある。自著執筆に向け僕が取材を始めた最初の頃、とりあえず米国会図書館のサイトに行って「 American Memory」というコレクションの検索ボックスで「solar」を入力して調べてみたら、検索に引っかかったものがひとつだけあった。「デス・バレー牧場、ソーラーヒーター、デス・バレー・ジャンクション界隈、カリフォルニア州Inyoカウンティ」とある。

モノクロの写真3枚に映っているのは、コンクリートの基礎に建つ木造の朽ちかけた建物。縦60フィート(18.3m)、横9フィート(2.7m)はあろうか。正面より後ろの方が高く、黒く塗った銅コイルが前後にとぐろを巻いている。その後ろには背の高いシリンダーがあって、これは家畜の毛で作ったフェルトでくるまれており、アルミ箔みたいなものが空中に20フィート(20m)突き出ている。周りには砂漠のサボテン、岩、砂、空があるだけだ。写真のキャプションにはこうある。

「デス・バレー牧場のソーラーヒーターは、第二次世界大戦前、自然ガスの使用が広く普及する前に南カリフォルニアで栄えたソーラー産業の数少ない生き残り」

戦前カリフォルニアで花開いたソーラー産業なんてものがあったのか? ソーラーヒーターが実用化していたんなら何故、人々はその使用をやめてしまったのだろう?

その歴史は長く深いはずだが、犯罪的なまでに闇に隠れた部分が多い。しょうがないのは分かるが。歴史は勝者が書くものだ。そのルールは戦史に限った話ではない。テクノロジー界ではとかく「ベストな技術が勝つ」という発想の人が多い。その論法からいけば代替エネルギーは存在しなかったか、存在していたとしても社会が選んだオプションより明らかに、逆転不能なまでに劣っていたんだろうという納得の仕方で片付けてしまう。それはまるで世の中の誰一人としてMS-Windowsやベータマックスの名を知らない状況に等しい。

一度、この1世紀の間に登場した発見・発明・産業・大規模システムをつぶさに調べ、現代技術がどの道を選んで今に至るか眺めてみると良い。そうすれば見送りになったけど良いアイディアもあったことがわかるし、忘れた方が良いような悪いアイディアがあることもわかるはずだ。選ばれた技術に充分代わり得る実力を持ちながら、技術の洗練度の問題とかじゃなく、投資と規模拡大の競争に負けて篩い落とさた代替技術も、ある。

今の我々には想像も及ばないことだが、1900年当時の人はシャワーのお湯を太陽で沸かすこともできたし、電気タクシーでNY市内を走りまわることもできた。そりゃ完璧ではなかったが、どの家を見渡しても電球ひとつない時代、電球より先に電気タクシーが存在したことは特筆に値する(1900年米国にあった車4192台のうち28%は電気自動車だった。1908年フォードがガソリン車の大量生産を始め斜陽化)。

1945年の人はソーラーハウスを購入したり、出力1メガワットの風車見物にも行けた。1970年代には「Solar Energy Research Institute(太陽エネルギー研究所)」見学もできたし、その10年後にはモハベ砂漠に大規模太陽光発電所も現れた。

このようにグリーン技術は実用に耐える技術分野として100年以上前から存在するのだ。にも関わらずアメリカのエネルギー供給にはこれと言って貢献していない。代替エネルギーが選ばれなかった理由とは一体なんなのか? 今なら見直しも可能なのか?

時計の針をグーンと戻し、1929年10月の夕方から話を始めよう。

デスバレー・スコッティ(Death Valley Scotty、本名Walter Edward Scott)はパトロンのアルバート・ムゼイ・ジョンソン(Albert Mussey Johnson)と共にガラガラヘビとサソリが蠢く砂漠の乗馬から帰ってきた。見渡す限りなんにもない荒野にジョンソンが建てたムーア様式の別荘がある。辺りは地球で最も暑い場所だが、夜間は肌を刺す寒さの日もある。そんなとき熱いシャワーが浴びたいと思えばいつでも同月取り付けた新兵器「Day and Night ソーラー湯沸し器」で浴びることができた。

ジョンソンの生まれはシカゴ。保険業界の大物にしてミリオネアだ(あの大恐慌の引き金となった株式市場暴落で資産価値が落ちた後でもミリオネアだった)。スコッティはケンタッキー出身のカウボーイで、何年も前からデスバレー界隈を転々としている詐欺師だ。最初のカモのひとりがこの都会ずれした男、ジョンソンだった。それが何の因果か馬が合い、ふたりは友だちになった。

どちらも環境保護主義者として有名だったわけでもないし、当時で言う「conservationist(自然保護論者)」でもなかった。それにふたりは地下水の力で機械仕事やったり、発電機を動かしたりしていたし、ディーゼル発電機や燃料タンクも何台か持っていた。それだけあれば必要なさそうなものなのに、なぜソーラー湯沸かし器なんてわざわざ設営したんだろう?

答えは簡単だ。湯沸かし器はコンクリート、黒く塗って熱吸収を高めた銅ループ、ガラスなど、簡単な材料でできたものだったが、それがおそらく当時使える設備の中でベストな選択だったのだ。冬場はさすがにぬるく熱湯とまではいかないが、それでちゃんと湯が沸かせたし、南カリフォルニアの消費者の間では当時、別に珍しいことでもなかったのだ。製造元「Day and Night Solar Heater Company」オーナーのウィリアム・J.・ベイリー(William J. Bailey)は1923年の昔から同社は年商23万ドルだと豪語していた。その快進撃は地元紙ロサンゼルスタイムズも取り上げた。記事の小見出しには「需要拡大に伴い2倍の用地に工場移転を余儀なくされた」という字が踊っている。

市場は同社の独占だったわけでもない。クラレンス・M.・ケンプ(Clarence M. Kemp)が1891年に開発したソーラー湯沸かし器「Climax」も年々広く使われるようになっていた。1895年にはパサデナの事業家2人がケンプ氏に250ドル払ってカリフォルニアにおける製品販売権を獲得し、続く5年間で1台25ドルする製品を南カリフォルニアだけで1600台以上も売りさばいた。ロサンゼルス人口が当時たった10万人だったことを思うと、なかなかの繁盛っぷりである。ソーラー発電史を幅広い角度から記した本「A Golden Thread」の中で著者のKen Butti氏とJohn Perlin氏は、「(ソーラー湯沸かし器に)25ドル投資すれば平均的な持ち家の人は年間約9ドルの石炭代の節約になったし、給湯に人工ガスを使っている人はさらに節約になった」と述べている。

先の別荘は何を隠そう今の観光名所「Scotty's Castle」なのだが、「Day and Night」の湯沸かし器は当時、普通に設営されていたのだ。が、「Day and Night Solar Heater Company」の湯沸かし器の設営は、あの辺りが最後となってしまった。それまで石炭や、石炭からつくるガスを燃やして沸かす他の給湯設備(と言っても普通はただのストーブ[コンロ])と戦って勝てるだけの競争力がソーラー湯沸かし器にはあった。東海岸の埋蔵量豊富な石炭層から遠く離れたカリフォルニアでは輸送費が馬鹿にならず、化石燃料は高価だった。それが20世紀初頭からガス製造工場の建設規模が大きくなり、ガス産業の統合化が進むにつれ、ガスの値が下がり始めたのだ。

1902年から1920年にかけて北カリフォルニアの「Pacific Gas and Electric Company(PG&E)」はガス出力とパイプライン敷設距離を倍増させ、ロサンゼルスに近い「Southern Counties Gas Company」も同様の統合化を進めていた。そこにあのロックフェラー兄弟が設立したスタンダード・オイル社が1909年、ミッドウェイ油田に充分匹敵する油田を加州ベーカーズフィールド近郊に掘り当てたもんだから大変だ。新たな供給源が見つかったのを受け、ガス供給各社は州内の配電網をなぞるようにパイプライン網拡大を進め、カリフォルニアの主な町村にまでガスを通した。

こうして天然資源が安くなり、供給網も改善された結果、ソーラーはガスより高くなってしまった。しかも見つかったガスの量は膨大で、まだ誕生間もない過疎州ではとても捌ききれるものではない。天然ガス各社はこの余剰資源を捌ける市場発掘に全力を挙げた。石油会社から見たら天然ガスは、肝心要の原油を掘るオマケで出る廃棄物のようなもの。20世紀初頭には米国の原油で出る天然ガスの90%は単に燃やして取り除けていた。それじゃあもったいないので、ガス会社は天然ガス市場を少しでも広げたい一心で、ガス給湯器取り付けにかかる初期費用を肩代わりするなどした。

スタンダード・オイル社のFrederick Hillman氏は心の中で、消費者に天然ガスを有効に使ってもらう方法を探すこと即ち、「自然保護の精神に則る」行為と思っていた節があるが、当時どれだけのガスが無駄使いされたかを考えれば、それもあながち暴論ではなかった。

もっとも、それでソーラー給湯ビジネスが死に絶えてしまったわけではない。単にビジネスの舞台をフロリダに移し、ガスがそれほど豊富ではないフロリダで、ソーラー給湯器は大いに売れた。

その頃のマイアミは急成長真っ只中。1920年から1925年にかけて人口は3倍近くに膨れ上がっていた。このホットな街にDay and Nightのベイリー社長からフロリダにおける特許使用権を買取って、カリフォルニアの経験を胸に現れたのが、H.M.バド・カルサーズ(H. M. "Bud" Carruthers)だった。彼はこれでビジネスを興し、ソーラー業界としては20世紀上半期最大の成功を収める。「マイアミでは1941年までに人口の過半数がソーラー給湯利用者となり、1937年から1941年の間に建てられた新築の家の80%にソーラー設備が取り付けられた」とButti氏とPerlin氏は書いている。

1930年代の終わりには、ソーラー給湯市場で凌ぎを削る会社が10社もあった。全部合わせると1936年から1941年の間にフロリダで設営した数は10万台にのぼった。さらに新設の連邦住宅局(Federal Housing Authority)が改築ローン事業の一環でソーラー設備購入助成ローンを提供した。この政府初のソーラー奨励策によりフロリダ州民は月6ドルの設営費でソーラーヒーター購入が可能となった。

後世まとめられたソーラー給湯の調査報告によれば、この技術は1970年代に至るまで(おそらく今日も)化石燃料に匹敵するコスト競争力を備えていたのだが、にも関わらず戦後この産業はゆっくりと死に絶えていった。人がテクノロジーを選ぶ際の基準がコストだけではないことを示す良い例だ。

1950年代初頭に新しく給湯設備購入を考える人が参考に見たのは、1930年代に設営された古いソーラー給湯設備だ。その多くは水タンク内が錆びつく問題を抱えていた(今から思うと簡単に回避できる問題だが)。 さらにタンク破裂事故がいくつか起こり、「ソーラー発電はトラブル知らずの給湯法という評価に大変な汚点を残した」 。ソーラーの評判が打撃を被る中、他の多くの電力会社同様、Florida Power and Light社も「電化推進のPRキャンペーンを大々的に展開」する。20世紀中盤通して大手電力会社が掲げる「grow-and-build(成長&建造)」計画に思考を独占された彼らは、消費者をもっともっと多くの電力量を消費する方向に導いていった。

この戦略はキロワット時の電力コストを下げる方向に作用することも多い。それがフロリダで起こった。1950年代初頭にはキロワット時当たりの電力価格が前の20年の相場から3セント下がって、たった4セントとなる。この手強いライバルに対抗するには、ソーラーも値を下げないと価格優位性が保てない状況となった。

ところが電化製品や電気インフラ整備需要のあおりで、ソーラー給湯設備に欠かせない主原料の銅の利用が急増。1930年から1960年にかけて米国内の銅消費は倍近く増え、1938年から1948年にかけて今度は銅の価格が倍に跳ね上がった。値を下げなくてはならない局面なのに、ソーラー集光器の値段は逆に高くなってしまった。

しかもソーラー産業に追い打ちをかけるように、フロリダに「大規模住宅建築開発デベロッパーの新勢力」が台頭する。こういう開発会社は家を売る前に建てるので、道理に反するインセンティブで動くことも多い。つまり彼らが問題にするのは、建築にかかる初期コストをいかに下げるか、ということだけなのだ。そんな彼らのニーズに見事にマッチするのが電気ヒーターだった。なぜなら家の寿命がくるまでのコストを比べると割高でも、電気ヒーターはとりあえず安く見えるからだ。「デベロッパーは新築の家にはほぼ必ずと言っていいほど電気給湯器を取り付けて売り出した。それというのも電気給湯器は資本コストが安いからだ」と、当時の歴史家は記している。「月々の電気代など彼らの知ったことではなかった」

何もかもがマイナスに働く八方塞がりの中、米国内ソーラー給湯産業衰退の一途を辿った。が、アメリカのR&Dが止まったところからバトンを引き継ぐ国も現れた。イスラエルのLevi Yissarの新吸収コーティング研究は特筆に値するし、日本でも市場が発達し、トルコ、欧州連合加の大半の国々でも発展した。が、一大市場として現れたのは中国だ。

1991年、同国にはソーラーヒーターを製造するキャパがほとんどなかった。それが2005年には国民3500万世帯がソーラー給湯器を使うようになり、国内市場に12%ものシェアを占めるまでになった。2007年、設営済みの集光型太陽発電システムは世界に22億平方フィート分あったが、その実に70%近くは中国のものだった。中国のソーラーヒーター製造のペースはアメリカの160倍だ。

他の再生エネルギー産業も往々にしてそうであるように、米国がかつて独占した分野ももっとグリーンな牧場に舞台が移っている。米国で発明され改良されたテクノロジーも本家では過去のかすかな記憶が残るだけ。ぐんぐん発展するのは専ら余所の国なのである。

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ゲスト寄稿者のAlexis Madrigalさんはザ・アトランティック上級エディターです。彼が創設した実験的ハイスピード・メディア「Longshot Magazine」はニューヨーク・タイムズ、ウォール・ストリート・ジャーナル、BBCにも紹介されました。本書「Powering the Dream: The History and Promise of Green Technology」はAmazon.comアマゾンジャパンにて好評発売中。

Alexis Madrigal(原文/satomi)