梶ピエールのブログ

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毛沢東と「野望の王国」

 ・・さて、前置きのつもりの上の文章ががずいぶん長くなってしまったので、別エントリを立てます。というわけで日本だけではなく世界中でその振る舞いが警戒されつつある中国とはどういう国なのか、その「建国」の事情に立ち返って捉えなおすには、なんといってもこの書物でしょう。

毛沢東 ある人生(上)

毛沢東 ある人生(上)

毛沢東 ある人生(下)

毛沢東 ある人生(下)

 7月に出たこの上下巻本は相変わらず書店の中国コーナーに平積みにされているけど、若年層の中国離れがいっそう進む 中で、この本はどういった層に読まれているのだろうか?本当は若い世代にこそ必要な「教養」なのだと思うのだけれど。

 さて、この本の原書は1999年に出版されており、決して新しい本ではない。だから専門家は、これについて書評を書いたり、改めて評価したりはしようとしないかもしれない(『日経新聞』では毛里和子氏が書評を書いていたけれど)。確かに、特に文革のところはその後新しい資料を用いた研究書がいろいろと出ているので、今これを読むと物足りない感じがするのは否めない。たとえば文革における林彪周恩来の事件などは党の公式文書を駆使して書かれた高文謙の『周恩来的晩年』(上村幸治訳『周恩来秘録』)などのほうがずっと詳しく記述されている。だが、上巻の毛沢東共産党に入党し、数々の権力抗争を経ながら最終的にヘゲモニーを握るでのくだりをこれほどわかりやすく、かつ詳しく書いた文献というのは日本語ではまず存在しないので、手に入れておいて決して損はしないと思う。

 なにより、今年の朝日書評欄が「ゼロ年代の50冊」と題した若い世代向けのブックリストの中に、現代中国関係の書籍で『マオ』が唯一あがっていているような状況では、本書の帯にある訳者の山形氏の言葉―2010年現在、日本語では毛沢東の全生涯をカバーするまともな伝記は、実は新刊では一冊もない。(中略)いまの中国に対する政治経済面での関心の高まりを考えたとき、これはちょっと驚くべきことのようにも思える―が、より一層その重みを増すだろう。

 というわけで、今回本書邦訳が出されたことの最大の貢献―というと矮小化してしまうことになるのかも知れないが―の一つは、少なくとも個人的にこれを読んだ後では『マオ』のどこがおかしいか、ということが非常にはっきりわかった、という点をあげておきたい。というのもこの両者は当たり前だがその構成や登場人物人物がほとんど重なっていて、しかしその解釈がまったく異なるからだ。

 ショートの『毛沢東』を読んだ頭で読み直すと、『マオ』は一言で言うなら雁屋哲原作、由起賢二画の傑作マンガ『野望の王国』のような悪漢小説の一種としてみればわかりやすい。『野望の王国』で、日本を「力」で支配ために非道な権力闘争と殺戮を繰り返す橘征五郎・片岡仁の主人公コンビが、やはり野望に駆られて日本を支配しようとする橘征二郎や柿崎憲、新興宗教の教祖白川天星といったライバルたちと死闘を繰り返すように、中国支配を目指す毛沢東の前にも李立三、張国濤に王明、さらには林彪といった悪漢たちが次から次へ立ちはだかり死闘が展開されるのだが、毛の悪辣さと非道さが彼らより一段と勝っているので、最後に勝利するのである。
 ちなみに、野望と欲望にかられた俗物毛沢東が、なぜわざわざ非合法の弱小組織である中国共産党に入党したのか、という『マオ』の最大の「謎」も、『野望の王国』において東大法学部を首席で卒業した征五郎たちが、なぜわざわざ川崎市にしか勢力のない一地方暴力団の権力闘争に身を投じるのかという「謎」と妙に符合している。

 ・・というわけで悪漢小説としては面白いが、実際に日本の社会が『野望の王国』のような血で血を洗うような裏の抗争によって動いていると本気で信じるのはやはりナンセンスである。同じように、『マオ』が悪漢小説として面白く読めてしまう、ということ自体、この本が逆にそういうあらかじめ作られたストーリーに合わせて著者が資料を当てはめていったことの何よりの証拠である。しかし、アマゾンのカスタマーレヴューをみてみても、この本が圧倒的に読者の支持を得ているということがわかる。こちらは、矢吹晋氏の批判を出たときから読んでいたので、すっかり『マオ』はダメ本だという評価が定着しているような気でいたのだが、世間知らずもいいとこだった、と反省するしかない。上記の朝日の書評欄を含め、一般的な読書界の反応としては未だ、『マオ』の評価は決して低くはない、というのが本当のところなのだ。

 これは、ショートの本が今までで翻訳はおろか十分に紹介されてこなかったことも含め(ぼくは恥ずかしながら山形さんが紹介するまでこの本の存在を知らなかった)、はっきりいって中国研究者の怠慢だろう。『マオ』騒動のとき、新聞書評などを除けば、きちんとした根拠に基づく批判というのは、後に書籍になった矢吹晋氏の激辛書評のほかは、一部の若手研究者によるものを除けばほとんど出てこなかった。今、学術データベースであるCiNiで「マオー誰も知らなかった毛沢東」あるいは「ユン・チアン」で検索してみれば、そのことがよくわかる。

 特に、上記の書評で矢吹氏に厳しく批判された天児慧加藤千洋国分良成といった人々は、本書が出版されたのを機会に、チアン=ハリディの『マオ』とショートによる『毛沢東』のどちらがまともな伝記なのか、はっきりとした評価を改めてどこかで表明するべきなのではないだろうか?研究者がそういったところで「専門知」に基づいた一般読者への説明責任を果たせるかどうかという点が、日中関係が「危機」にある(と、少なくとも多くの人に認識されている)現在、求められていることの一つだと思うのだけど。

野望の王国完全版 1 (ニチブンコミックス)

野望の王国完全版 1 (ニチブンコミックス)