2012-09-23

文法外の文法と俳句の文語(前編)  大野秋田

文法外の文法と俳句の文語(前編)  

大野秋田



本論考は、『澤』平成24年8月号「文法外の文法と俳句の文語」を、加筆の上、前後編の形で再掲載するものです。

「前編」は、俳句において近年「誤用」として論じられることが多い用法を歴史的に検証し、その正当性を論じます。

「後編」(次号掲載)は、俳句(俳諧)が、なぜ文法規範をはみだしていくかを、蕉門の俳言意識にさかのぼって検証します。

(編集部)


 一. 文法外の文法

 『澤』平成23年10月号(『週刊俳句』第237号に転載)の拙稿「助動詞『し』の完了の用法」(以下「前稿」とする)で完了「し」の誤用説を批判した。

「已然形終止」、「カリ終止」、「まじ」の未然形接続にも広く誤用説がある。


已然形終止

已然形終止というのは、牧水「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ」、中村苑子「黄泉に来てまだ髪梳くは寂しけれ」、佐藤鬼房「陰に生る麦尊けれ青山河」、大木あまり「マネキンの言葉知らねば涼しけれ」のように、係助詞「こそ」の係りがないのに已然形で終わる形である。

係り結び(以下「係結」と表記する)の破格と見ての誤用説がある。(『万葉集』には「こそ」の係りのない已然形終止の用例があるが全くの別物で、それについては大野晋『係り結びの研究』が詳しい)

俳句や短歌の文法書の中には「こそ」を省略したのだとするものがあるが誤りである。国語学関係の本にこれを説明したものがないため正しく認識されていない。

これを論じた唯一のものは、安田章「已然形終止」(『国語国文』昭和59年6月号)である。この論文は、17世紀に李氏朝鮮で編纂された日本語の学習書『捷解新語』改修本の朝鮮の使節と日本の役人との対話中に、例えば「大悦何方も御同然でござりますれ」と已然形終止が現れることから、『捷解新語』研究の一環として已然形終止の来歴を考察したものである。

周到かつ精細な長い論文だが、已然形終止成立の結論と思われる部分をかいつまんで紹介する。

中世になって係結が緩んだ結果、和歌に異例の係結が出現した。

①「こそ~終止形終止」②「こそ~連体形終止」③「こそ~終止(連体)形終止」④「~已然形終止」である。

①の用例は「おほかたにゆめをこのよとみてしかはをとろかぬこそうつゝなりけり」(藤原良経)。(論文は①~④について各六首の和歌を引く。③は四段活用、「」「らむ」)

これらは、強調要素の係りがあったが、それを欠くバリエーションが「こそ」なしの已然形終止であった。
それは余情的効果をもたらすもので、中世に入って一般化した連体形終止法に代替する表現形式に対する詠歌上の要求が、室町時代になって実現したのである。

和歌のための表現形式といってよいほどだが、和歌から生まれたわけではない。
中世に入って…詠歌上の要求」という箇所は論文の言葉をそのまま記したのだが、中世に入って連体形が終止形になったため、それまでのいわゆる余情をこめた連体形止めが効果を失い、それに代わる余情表現の形が求められたという意味である。

安田論文の已然形終止の用例は、室町時代の和歌では『私家集大成 中世』から飛鳥井雅世「夜をのこす老は猶えて暁の鳥よりさきにつかへまつら」、飛鳥井雅親「夢の中にとひこし人は槙の戸をたたく水鶏に明て出ぬれ」など七首を引き、さらに『平安遺文』『鎌倉遺文』の消息文から、貞徳・長嘯子の和歌、土芳・鬼貫の俳諧、秋成『雨月物語』、蕪村『新花つみ』等々に及んで博引至らざるなしという観がある。

論文の最後に、「近代においても、已然形終止が、少なくとも韻文の世界で生き続けている」として、短歌では晶子「ちぬの浦いさな寄るなるをちかたはひねもす霞む海恋しけれ」ほか薫園、勇、白秋、憲吉、順の歌を、俳句では虚子「古布子ねまきになりて久しけれ」ほか 山頭火、鬼城、秋桜子、波郷、誓子の句を引用している。

中世の口語においては、古代語の連体形が終止形になり、終止形が滅んだ。動詞ラ変と、終止形の方が残ったナ変は四段化した。二段活用は終止形が例えば「流る→流るる→流れる」のように変化してのちに一段活用化した。

もともと終止・連体形が同じ四段活用は、平安時代は両形にアクセントの違いがあったが、江戸時代初期にはなくなった。(『国語学大辞典』「国語アクセント類別語彙表」金田一春彦他)口語における連体・終止形の合一化は動詞だけでなく、形容詞形容動詞と一部の助動詞にも起こった。

両形の合一化に伴い係結の消滅が起こった。係助詞「ぞ・なむ・や・か」は連体形で結ぶが、終止形と連体形が同じなら、係結の意味を失うからである。

また、中世において主格を示す助詞「」が発達し、日本語の文の構造に変化が生じたことも係結が消滅した一因で、結びの活用形が違う「こそ」の係結もやがて消滅した。 安田論文の①~④は、口語の文語への影響による係結の混乱を表す。

係結の混乱と消滅の中から、「こそ」の係りのない已然形終止という新しい表現形式が生まれたのである。

已然形終止の働きは、安田説のとおり余情的効果ということであろう。また強調する効果もあるだろう。

潁原(えばら)退蔵『芭蕉俳句新講』(昭和26年)は、芭蕉「酒飲めばいとゞ寝られ夜の雪」の「」について「」よりも「一層強い否定の意」を表したとする。(俳句で活用語を切れに使う場合、最も強いのは命令形・已然形)

また、蕪村「大文字や近江の空もたゞなら」の「ね」について、連体形や終止形では「なお余意を十分尽すに足りない」ので已然形にしたのだとし、「上にこそを省略したのではない」としている。

山田孝雄(よしお)『俳諧文法概論』(昭和31年)は品詞別、活用形別に解説しているので分散して出てくるが、計20句余の用例を挙げる。山田は「余情を含めた語遣い」「特別に感を深めた表現」と見なしているが、「破格」「もとより誤」として誤用と考えている。

近代の詩でも使われた。『明治詩人集』(明治文学全集)の残花、半月、美妙、孤蝶、暮鳥ほかの詩にある。宮澤賢治「文語詩稿五十篇」「文語詩稿一百篇」中7篇にある。



已然形終止に直接関係しないが、近代の韻文の係結観について付記する。

古代語(国語学では中世以降が近代語)の特質である係結は、本居宣長の『詞の玉緒』によって解明されたのだが、近代の韻文では必ずしも絶対視しなかった。すでに実感の乏しい表現形式だったからであろう。

近世でも、香川景樹の歌話を編纂した『歌学提要』(嘉永3年)は、「天仁遠波」という章段で、国学者の文法論に反発して、「花ぞちりけれ」でも「花こそちりける」でも「花のちるに聞違ふ事なし」と述べている。佐佐木信綱『和歌入門』明治44年)は、「和歌に於いては、決して文法に拘泥してはいけない。/今の文法の法則は多くは平安朝時代の文章に存した掟で有る。文章が変遷すると共に、文法も変遷する。和歌はもとより口語では無いから、大体に於いては古文の法則に倣ふべきで有るが、併し時によれば、随分古文の法則を破つてもよい自由を有して居る」と説き、また「美的に言表すことが、第一に必要」と説いて、その例に景樹の「あけてこそ見むと思ひし筥崎の波間にかすむ松の村立」の係結の破格をあげ、調べの上から是認している。

外山正一は、『新体詩歌集』(明治28年・『日本現代詩大系』第一巻)の「我は喇叭手なり」という詩の中で「是れぞ即ち喇叭手なり」の「なり」に圏点を付し、「繋り結び、テニヲハ等は、旧来の法則に拘泥せず、以下これに准へ」と注記している。なお「天仁遠波」「テニヲハ」という言葉は、助詞を指すだけではなく、「もっと広範に、日本語の歌や文章の中の、助詞と文末の結び方との特殊な呼応、あるいは助動詞・副詞の用法などまで包含してい」(大野晋『本居宣長全集』第五巻解題)た。

島内景二『楽しみながら学ぶ作歌文法』は、岡井隆「イコンからイデアへわたるいしのうへに橘ぞ濃き憂ひろぐれ」は「ひろぐる」が正格、誓子「唐太の天ぞ垂れたり鰊群来」は「たる」でなければならないとする。隆、誓子が係結を知らないわけがない。隆は「ぞ」「ひろぐれ」をそれぞれ強調表現としたのである。誓子の句については、山本健吉『現代俳句』も「係り結びの不統一は何といつても大きな欠陥」としているが、誓子は強い切れを表すために柔らかい連体形を避けたのだ。近代の韻文に「ぞ・こそ」を係結とは関係のない強調表現として使った例は数多くある。



カリ終止

形容詞は、最初、本活用が成立したが、この活用は助動詞に接続することができなかった。その不備を補うため連用形の語尾ク・シクと助動詞との間にラ変動詞「あり」を入れて、例えば「高くあらず」「高くありき」「高くあるべし」のようにして助動詞につなげた。このク・シクと「あり」が融合して形容詞のカリ活用(補助活用)が成立した。

カリ活用は、命令形以外は、助動詞に接続するのがその働きである。カリ活用は終止形・已然形を欠く。助動詞でラ変型活用語の終止形・已然形に接続するものはないからである。カリ活用の連体形は名詞を修飾できない。また終止法として使えず、係結の結びにもならない。

例外的に「多し」には終止形「多かり」、已然形「多かれ」があって活用形を全備、本活用と同じ使い方がされた。この例外は「大し」と区別するためであったとされるが、「大し」は「大きなり」に変化したのだから「多し」はそのままでよかったはずで、「多かり」発生の理由は十分説明できていないという山口佳紀の異論(『研究資料日本文法』第三巻)がある。

「カリ終止」というのは、私の仮の呼称だが、ないはずの終止形「~カリ~シカリ」のことで、近現代の短歌では盛んに使われ、短歌ほどではないが俳句でも使われた。終止形カリ・シカリはそもそも存在しないというのが誤用説の理由である。

啄木「一隊の兵を見送りて/かなしかり/何ぞ彼等のうれひ無げなる」、茂吉「赤光のなかに浮びて棺ひとつ行き遥けかり野は涯ならん」、虚子「風多き小諸の春は住み憂かり」、米川千嘉子「ぎゆつぎゆつと子供を抱けばはみ出して仕方なきやうに四肢が長かり」。

俳句の文法書7冊にあたったが、このような例や、形容詞型の活用をする「べし」の終止形「べかり」を「連用形止め」とか「連用形の言いさし」とするものが三冊あり、下の「けり」を省略したのだとするものさえあった。そんなことを書くのは俳句の文法書くらいのものである。

カリ終止は、カリ活用が本活用化することによって生まれたものである。

最初に起こった本活用化は連体形カルの名詞修飾であった。『万葉集』に「筑波嶺にそがひに見ゆる葦穂山悪しかる咎もさね見えなくに(三三九一)ほか(一四六七)(二〇六六)にある。『古今集』に「春たてど花もにほはぬ山里はもの憂かる音に鶯ぞなく(一五)、『後撰集』に「はかなかる夢のしるしにはかられて現に負くる身とやなりなむ(八七一)

これらを『日本文法大辞典』ほかは音数律のためだったとする。大昔の歌人も現代の俳人歌人と同じように文法にはけっこうご都合主義だったわけである。なお、名詞を修飾する連体形カルは中世近世の和歌にもあり、近現代短歌には多い。

次ぎに終止形カリが出現した。用例として国語学の諸書は「そよ、ことなかり(『落窪物語』一)、「此ノ世ノ事ハ益無カリ(『今昔物語集』巻三一の二八)、「成べき事やすかり(『好色一代男』巻二)、「ひとしほかなしかり(『好色一代女』巻二)などを挙げる。

多用したのは曲亭馬琴である。鈴木丹士郎「文語―形容詞カリ活用の場合―」(昭和40年の論文、論集日本語研究一四『近世語』所収)によれば、馬琴の「里見八犬伝」など9作品中に使われている本活用の機能を持つカリ活用形容詞の終止・連体・已然形はク活用53語(延べ671語)、シク活用9語(延べ19語)だという。論中カリ活用の本活用化について国語史をたどり、「形容詞補助活用の主活用化現象は、いわば下積みの境遇に甘んじながら近世の文語にまで受け継がれ、(中略)とりわけ馬琴において盛んに用いられている」と述べている。

幕末の橘曙覧に「ますらをと成らむちごの生さきは握りつめたる手にもしるかり」ほかがある。近代の散文では、「捨置難かり(坂崎紫瀾『汗血千里の駒』第三回)、「胸には動悸の波たかゝり(樋口一葉『裏葉』)、「のれ物うかりと口にはいへと(二葉亭四迷『くち葉集 ひとかごめ』)、「慮り深かり(森田思軒『クラウド』)があり、詩にもあるが、盛んに使ったのは短歌である。

鈴木丹士郎には 「現代短歌に見られる形容詞の用法―補助活用の本活用化」(『専修国文』第四三号、「現代短歌」とあるが用例はほとんど近代短歌)という論文もある。鈴木は、カリ活用の終止・連体(名詞修飾、「かも・かな・に」への接続、終止法)・已然形の本活用化の用例計八〇首を挙げ、終止形と連体形については音数律で破調をきたすのを避けて使ったとする。

安田純生『現代短歌のことば』は、カリ終止は、「現代短歌ではごく普通になっており、その気になれば歌集からいくらでも捜し出せる」という。俳句は、近代でも現代でも短歌にくらべればはるかに少ない。短い俳句で形容詞の終止形に五音四音を割きにくいのだろう。カリ終止と已然形終止は同音数だが、切れが明瞭なためであろう、已然形終止の方がずっと多く使われる。

しかしカリ終止にも効果的な使い方は当然ある。虚子「春の山屍をうめて空しかり」は頼朝の墓のある山を眼前に、自然の永遠の循環に対する人間の営みの空しさを悠然と言い放つ。飴山實「青き林檎青く画きつつ哀しかり」は青春の感傷を放心するように言いおさめる。中原道夫「霜くすべ夕餉了へても明るかり」は一段と日が長くなった晩春の夕方の外光を「アカルカリ」の響きに表す。小澤實「某月某日濹東秋日しふねかり」のいかにも執拗と感じさせる一句の調べは、残暑を引きずる秋日が照らしつけるさまのようだ。

助動詞「べし」「まじ」「たし」「ごとし」「」でもカリ終止のようにないはずの終止形「べかり」「まじかり」「たかり」「ごとかり」「ざり」が使われることがある。其角、蕪村に「べかり」の句があり、現代俳句でもまれに「べかり」をみるが、他はもっぱら近現代の短歌で使われる。前稿で現代短歌の文語の問題を論じた安田純生、宮地伸一の五冊の著作を紹介したが、安田はカリ終止のほかに「たかり」「ごとかり」「ざり」を取りあげている。宮地伸一はカリ終止と「ざり」を取りあげているが、「新アララギ」のホームページの「短歌雑記帳」2002年5月・2010年1月で読むことができる。



助動詞「まじ」の未然形接続

虚子「歌留多とる皆美しく負けまじく」、中尾寿美子「白地着ていましばらくを老いまじく」のような「まじ」の接続について、例をあげて誤用とする俳句の文法書が二、三ある。それだけ「まじ」の未然形接続の用例が多いのだろう。

まじ」の接続は、終止形(ラ変型には連体形)だが、中世以降終止形連体形の合一化が進んだ結果接続が混乱した。

『日本語文法大辞典』は「鎌倉時代頃からは…二段活用動詞の連体形や四段活用以外の動詞・助動詞の未然形に付く例も多くなった。江戸時代には『厭はまじ』のように四段活用の未然形に付いた例も見られる」とする。「まじ」の接続は複雑だが、中世以降は「まじ」から変化した口語「まい」の接続に引かれ、四段・ラ変以外には未然形に接続した例は多い。

まじ」の未然形接続の早い例には「一人も助けまじき物を(旧日本古典大系『保元物語』下)、「待つとも待つとも水干まじ(『平家物語』巻九宇治川先陣)がある。山田孝雄『俳諧文法概論』は其角「桜ちる弥生五日は忘れまじ」ほか五句をあげ(ただし、山田は連用形接続としている。理由は不明)、蕪村の「負まじき角力を寝物がたりかな」も「まけまじき」と読むべきかもしれぬとしている。現行の蕪村集はみな「負」に「まく」とルビを付すが文法に合わせただけのことである。増田龍雨の『龍雨俳話』(昭和八年)に、龍雨、久保田万太郎、芥川龍之介の三人が会したとき、この蕪村の句が話題になった話が出てくる。この句について龍雨は「まけまじき」と平仮名で表記している。つまり「まけまじき」という接続を、そこにいた三人とも疑問には思わなかったということである。

樋口一葉の小説は、四段・ラ変には「叶ふまじ(「ゆく雲」)仔細はあるまじ(「われから」)と文法通りだが、二段活用には「苦労はかけまじ(「大つごもり」)いはれまじく(「花ごもり」)のように未然形接続である。  

本居宣長は、弟子のために書いた文法書『玉あられ』の中の語の見出しで「つる・ぬる・たる・ける・見ゆる・見する」などは終止形にせず連体形にし、その理由を「耳ぢかい」からだとしている。「つる・見ゆる・見する」は二段活用だが、口語では中世に滅んだ二段活用の終止形は江戸時代の人にすら耳遠いものになっていた。現代人が「負くまじく」「老ゆまじく」より「負けまじく」「老いまじく」を自然に感じるのは当然である。

二段活用の終止形は、鈴木真砂女「夏帯や泣かぬ女となりて老ゆ」のように切れに使えばいかにも文語らしい格調を感じるが、助動詞に接続するときは語によっては違和感を覚えることがある。高校の教科書に入るほどポピュラーな古典「宇治川先陣」中にもある接続を誤用とする必要があるだろうか。

安田純生『現代短歌のことば』によれば、現代短歌の「まじ」は、未然・終止・連体形に接続するそうである。現代俳句にも加藤三七子「菊枕こころやつるるまじきかな」の連体形接続がある。



言葉は百年も使われ続ければいかなる誤用も正用となる。

中世以降に生じた文語の文法で、已然形終止は数百年、カリ終止は仮に西鶴のころからと考えても三百年、「まじ」の未然形接続は数百年の歴史がある。

これらは誤用ではない。文法が変遷したのだ。

現代の文語に歴史の浅い「誤用」は数多くあるが、それらとは別に扱われるべきである。誤用説によって言葉の歴史が否定され、表現の形の伝統が断たれるのは悲しいことである。

歌人や俳人が文法の変遷を認めたがらないのは、もともと中古の和文・和歌を規範として仰いできた長い文語の歴史があった上に、高校の古典文法の教科書は中古の文法だから、文語文法=中古の文法という通念ができているためである。

変遷した文法は変則的で劣ったものと思われている。前稿で引用した明治38年の「文法上許容スベキ事項」が文法の変遷を公的に認めたのは画期的なことであった。普通文の消滅とともに変遷を認める考え方も消えてしまった。

俳句の文法は中古の文法だけで成り立っているわけではない。古典文法の教科書によって俳句の文法を割り切ろうとすることにはさまざまな問題がある。「二. 俳句の文語」で述べる。 



補足 助動詞「しか」の完了の用法

前稿において、過去の助動詞「」の連体形「」に中世以降生じた完了の用法について述べた。文法の「完了」は単なる終了ではない。「完了の助動詞」は、事態の発生、完了、完了した状態の存続、それらの確認などの意を表す。(『日本国語大 辞典』)古代においては、終止形「」、連体形「」、已然形「しか」のすべてに完了の用法があった。

山口佳紀『古代日本語文法の研究』は、終止形「射ゆ獣をつなぐ川辺の若草の若くありと吾が思はなくに(斉明紀・歌一一七)、連体形「古りに嫗にしてやかくばかり恋に沈まむ手童のごと(万葉・一二九)、已然形「妹をこそ相見に来しか眉引の横山辺ろの鹿猪なす思へる(万葉・三五三一)他の例をあげ、「し・しか」については「動作・作用が起こって、それが続いている、あるいはその結果が残っている。リ・タリに近い」、「」については「過去から現在まで動作作用が続いている。ケリに近い」としている。

俳句で「しか」を完了の意味に使うことがある。不器男「白藤や揺りゆりやみしかばうすみどり」は「たれば」の意に使っており完了である。揺れやんだのは直前だが、過去「」は直前のことには使わない。楸邨「死ねば野分生きてゐしかば争へり」も「たれば」の意である。

俳人が完了「しか」を使ったのは近代短歌の影響ではないかと思う。短歌には啄木「気抜けして廊下に立ちぬ/あららかに扉を推せしに/すぐあきしかば」、茂吉「かみな月十日山辺を行きしかば虹あらはれぬ山の峡より」など用例は多い。近代短歌の完了「しか」の多くは、口語「…たので、…たところ」を文語に直訳したものと思われるが、茂吉の「短歌小言」(明治44年、全集第11巻)に「たまくしげ三諸戸山を行きしかば面白くしていにしへおもほゆ(万葉・一二四〇)の引用があり、アララギ派の歌人の場合は『万葉集』の完了「しか」を学んだのかもしれない。

終止形「」に「けり」と同義の用法があるので付記する。

千那「時雨や並びかねたる魦ふね(『猿蓑』)。中古の和歌の「きや」は反語で、多く「思ひきや…とは(と)」と呼応する。この「きや」は過去「」に切れ字の間投助詞「や」のついた形。「時雨」は動詞、送り仮名「れ」を省いている。この「きや」について新日本古典文学大系『芭蕉七部集』の脚注は『肖柏伝書』の「時雨きや雲に露けき山路哉 此きやと申すは、けりと申すてにはにて候間、哉とも留り候」を引く。また山口明穂『中世国語における文語の研究』によれば、江戸時代の文法書、雀部信頰『氐邇乎波義慣鈔』に「おもひきやなともおもひけりや也。後のうたに契りきなとよめるもけりなと聞ゆる」、栂井道敏『てには網引綱』に「きはけりにおなし(中略)そめてきはそめてけり也」とあるという。つまり室町時代、江戸時代は「」は「けり」と同義と考えられていたのである。山田孝雄『俳諧文法概論』は過去「」の用例として暁臺「蝶飛んで風なき日とも見えざり」、白雄「夕紅葉この川下は薄かり」など五句を引くが、古句の「」の意味は再考されなければならない。波郷の「今生は病む生なり烏頭」も死後の世界から回想しているわけではないのだから「けり」と同義の「」である。

島内景二『楽しみながら学ぶ作歌文法』は、「現代短歌の世界では『詠嘆』の『けり』の表現効果を『き』」で代用した作品が出てきている」として上田三四二「雨雲のすこし夕焼けゐたりしとすぎておもへば今日夏至なり」を挙げている。

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