50年後のふたり

 
今朝、3時50分ころ、フランス人の老婆から母へ国際電話がかかってきた。


 
電話をとったのはぼくだった。
5時すぎにはバイトへ行くため起床しなければならなかったから、そろそろ寝ようと思っていたところにリビングで突然着信音が鳴り出した。発信者番号は表示されていなかったが、間違いにしても、何なんだ、と思った。ほんの気まぐれに、受話器を手にとった。
すると、送話口の向こうから、女性の声がする。聞き取りづらい、なにやら英語のようなフランス語のようなものが聞こえる。
挨拶をして、名を名乗っているようだ。母は在宅かと聞いている、ようだった(ぼくの英語ヒアリング力は中学生レベルである)。
そのときの時間もあって、一瞬、夢の中の出来事かと思った。異様なことだった。
何故こんな早朝に、外国人の老女が母を呼び出す電話をかけてくるのか。


 
なんらかの、すさまじい偶然による間違いではないかと、いきなり無言でガチャ切りして全部を無かったことにしようかとも思ったが、すでに二階で父が起きた気配がしたので、母に事の次第を伝える。母はすぐに降りてきて、予期していたかのように大げさにはしゃいだ調子の英語でしばらく電話をし、ぼくに自分のPCアドレスはなんだったかと質問をした(母はどうにか携帯と携帯メールを使える程度で、PCに関しては完全な無知だ)。


 
二十分以上は話していただろうか、ぼくは途中でPCを落として寝たが、バイトから帰宅して事情を聞いてみると、あれは自分が中学生のころに文通していたシルヴィアというフランス人女性なのだという。母はいま65歳だ。中学生のころは、もう50年以上も昔のことになる。
母は英語を勉強したくて、当時流行っていたペンフレンド交歓を推奨する組織に参加して、同い年の複数の外国人と文通をしていたが、高校に入って生家の福島から離れると、それも途切れがちになっていったのだという。大学に入る直前にはほぼ音信は途絶え、そして月日が過ぎる。



だが突如として二、三日まえ、姉(伯母)から電話があり、そのフランス人女性の代理だと名乗り、母の所在を探していたという大阪の女性から連絡があったと伝えられたのだという。五十年ぶりのアクセスだった。そのフランス人女性…シルヴィアは何らかの進行性の病気で、余命がそれほど残されていないとかで、自分の人生の整理をしているらしかった。
「整理」には、人生の回顧を細かく記述することと、加えて、かつての交際相手たちの消息を可能な限り確認したいという不可解な衝動がふくまれるという。
シルヴィアにとっては、母もその強い、不可解な衝動の対象だったのだ。


 
にわかには信じ難い話だったが、細かく事情を聞いてみると、その執着というか、熱意に驚く。
シルヴィアはまず日本人とつてのある友だちに頼んで、日本での代理人を確保したのだという。
代理人である大阪の女性が、母の生家がある(当時の文通宛先住所はそこだった)市の役所と、母校である津田塾大学に住所確認をしたのだという。
無論、その確認は無駄に終わる。
今や、そんなあやふやな問い合わせで個人情報を教える公的機関も大学も存在しない。



大阪の女性は大学と市役所に断られると、次の行動を起こす。
母の旧姓が市の電話帳に残っているかどうかを確認したのだ。
それがまだ存在することを知ると、即座に電話をして今も当時の住所に住む親戚に事情を話し、伯母の連絡先を聞き出したのだという(母はもう生家の親戚と付き合いがあまり無く、常時連絡をとっているのは長女である伯母だからだ)。



その結果が、ぼくがとった3時50分の電話、というわけだ。
残念なことに、シルヴィアは今や時差のことまで頭がまわらなかったようだ。母が言うには、英語も、だいぶ覚束無かったという。


「まず手紙が届くのかと思っていたのに、いきなり電話、っていうのもね。驚いちゃうわよね。外国人から電話、と聞いてピンとはきたけど」


ぼくはむしろ代理人である大阪の女性のねばり強さに呆れたのだが、それには母も同意した。
「ほんと、変人ているのよね…」と。


 
明日以後に展開するであろう母とシルヴィアのことはぼくの興味の範疇外なのだが、彼女の行動を聞いて、ふとミシェル・ウェルベックの小説の一文を思い出した。


【日々の生活には、もうほとんどやることもなかった。僕は21×29.7センチのブロックノートを数冊購入し、自分の人生のパーツを整理することにした。人間が生涯通して自分の人生にほんの少しの注釈も、異論も、批判もつけないとは奇妙なことだ。たとえそうした注釈、異論、批判があてのないものでも、僅かな意味さえないものでも、結局のところ、やらないよりはいいと僕には思える。「プラット・フォーム」 P356】



これはテロで恋人を失ったことにより、以後の自分の人生を諦め、隠棲先のパタヤで廃人のように暮らす主人公ミシェルがとった行動である。行間には、緩慢な自死が仄めかされている。
シルヴィアも、【たとえそうした注釈、異論、批判があてのないものでも、僅かな意味さえないものでも、結局のところ、やらないよりはいい】と思ったのだろうか?


直接、本人に聞いてみてもいいのだけれど、答えは分かりきっている気もするのだ。