東日本大震災によって多くの人たちが想像を絶する状況下に置かれている。死者・行方不明者数は2万人を超え、避難者数は31万人以上に達しているのだ。
肉親を亡くした人たちや避難生活を強いられている人たちの苦境を伝えるために、報道機関はどう取材したらいいのだろうか。当たり前だが、被災現場へ足を運び、彼らに直接取材することである。記者クラブにとどまって当局の発表を報じるだけでは、真実を伝えられない。
だが平時は違う。失業率が上昇したら失業者に取材する、ガソリン価格が上昇したらドライバーに取材する---こんな当たり前の取材が日本の新聞界では徹底されていないのだ。
では誰に取材するのか。当局である。権力側と言い換えてもいい。失業率であれば、発表場所は総務省の記者クラブだ。記者は記者クラブ内から一歩も外に出ずに、官僚やエコノミストらを取材するだけで原稿を書く。
失業者に取材せずに失業問題を論じるわけだ。それでも誰からも「取材が足りない」などと批判されない。当局者など権威筋の情報に裏付けされた記事こそ信頼できると見なされる風潮があるからだ。失業者自身が語った言葉は1面記事に載ることはめったになく、大抵は社会面の雑報扱いになる。
「権力対市民」の構図で見た場合、日本の新聞界には権力側に軸足を置いて報道する伝統がある。権力側の情報を漏れなく伝える役割を担ってきた記者クラブの存在が背景にあるのだろう。
「子供たちに話を聞きましたか」
私も新聞記者として駆け出しのころは「失業者に取材しないで失業問題を書く」という状況を特に不思議に思わなかった。だが、幸いにも、新聞記者4年目にそんな取材手法を完全否定され、職業人としてパラダイム変化を体験できた。1987年、ニューヨークにあるコロンビア大学ジャーナリズムスクール(Jスクール)へ留学中のことだった。
「この記事では合格点はあげられないわね。一からやり直しです」
ニューステレビ局CNNの記者出身の指導教官ジョアン・リーは、私が書いた原稿を見ながら言った。原稿には赤字があちこちに書き込んであった。
テーマは、ニューヨーク在住の日本人向け補習校の実態。校長、先生、保護者、教育専門家ら10人以上に取材したほか、必要なデータなども集めて補強し、書いた。それなりの仕上がりになったと自負していたのに、原稿はボツになった。
「この記事の主人公は誰か?」
リーからあまりに当たり前の質問を投げ掛けられ、目からうろこだった。先生でもないし保護者でもない。子供たちなのだ。
「子供たちから話を聞き出しましたか? 授業風景を見ましたか? 校長や先生、保護者、専門家のコメントをどんなにたくさん並べても、説得力はありません。当局発表のプレスリリースと同じです。校長や先生は権力者であり、支配者。子供の立場になって取材するのを忘れないように」
そのうえで、リーは私にこう命じた。
「補習校の教室内でまる1日過ごし、子供とじかに接してきなさい。これこそが本来の取材です」