(日経ビジネス2015年8月10日・17日合併号より転載)

 日本は今年、第2次世界大戦から70年の節目を迎えた。高度成長から1980年代バブルを経て、90年代半ばからデフレ不況へ。古希の日本経済はどう変わったのか。シリーズで見る。第1回は日本型経営の変化。

1990年代以降、長い停滞が続く ●日本の実質GDP成長率の推移
1990年代以降、長い停滞が続く ●日本の実質GDP成長率の推移
注:1947~49は年度、その他は暦年
出所:内閣府、バークレイズ・リサーチの資料を基に本誌作成(写真=左上:AP/アフロ、右上:Getty Images、下:日刊スポーツ/アフロ)
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 「こりゃあ、何や。倉庫でモノを作ってるで」

 1995年秋、松下電器産業(現・パナソニック)相談役(当時)の谷井昭雄は、たまたま視察に訪れた香港の運送会社の倉庫をのぞいて驚いた。7年間務めた松下の社長を退いて2年余り、経営は後任社長の森下洋一に完全に任せていたが、時折、頼まれて業務の一端を引き受けることがあった。

 この時もそうだったが、何の変哲もない物流倉庫の2階で目にしたのは、電子機器を流れ作業で整然と組み立てる運送会社従業員たちの姿だった。メーカーから部品や、数点の部品を組み合わせたモジュールなどの供給を受けて、最終の組み立て加工を運送会社が行い、そのまま輸送するのである。

 電機メーカーの工場と見まがうばかりの光景に谷井は息をのんだ。「えらいこっちゃ」。

デジタルとネットが経営を変えた

 戦後70年。日本経済は、焦土の中から奇跡の復活を遂げた。終戦から10年と経たずに始まった高度成長期(1954~73年)には、途中2年間を除いて実質GDP(国内総生産)成長率が毎年8~13%に達するという驚異の伸びを達成。80年代には、バブル景気の中で絶頂の時代を迎えた。

 80年代までの経済成長をけん引した主役の一人は紛れもなく企業だった。そして、「終身雇用」「年功序列」「企業内組合」に代表される日本型経営を、米国の社会学者、エズラ・ボーゲルは79年に著した『Japan as Number One』で高く評価した。

 ところが、90年代に入ると状況は一変した。バブル崩壊とともに日本経済は坂を下り始め、日本企業とその経営は輝きを失っていった。

 谷井とその次の世代の経営者たちは、その変化の節目にいた。しかし、そこで目の当たりにしたのは、バブル崩壊といった単なる景気変動だけではなかった。それまで経済成長をけん引してきた日本型経営の強み自体が失われるという大変化だった。

 一体何が起きていたのか──。90年代に入る頃から本格化したのはパソコンの普及であり、インターネットの浸透だった。あらゆる情報と技術がデジタル化し、新興国でも規格化された機械を導入して、ネットに接続すれば、熟練工なしでも一定以上の品質のものが大量生産できる。そんな時代がここから始まった。

 画期となったのは、ネットの爆発的普及を促したウィンドウズ95が発売された95年である。

VTRをパナソニックの柱に育てた谷井昭雄・特別顧問(写真=菅野 勝男)
VTRをパナソニックの柱に育てた谷井昭雄・特別顧問(写真=菅野 勝男)

 谷井が同じ年に香港の倉庫で見た運送会社による電子機器組み立ても、そうした変化の一端だったのだろう。メーカーが他社から調達した部品やモジュールを供給し、組み立てから運送まで任せる水平分業である。

 谷井自身は72年からビデオ事業部長を務め、80年代にVTRを松下で最大のヒット商品に育て上げている。いわば強い日本の電機産業の時代に会社員生活の大半を過ごしてきた。変化を垣間見たのは、現役生活の最後の段階である。だが、数年後の経営者はさらに大きな変化を目の当たりにする。

 日立製作所で半導体の事業部長を務め、97年に専務となった牧本次生は、谷井より9歳下。ほぼ1世代若い牧本は2000年に日立を退社し、ソニーに移った。移籍後、友人でもあるスイスの半導体メーカー、STマイクロエレクトロニクスの技術担当役員から、こんな相談を持ちかけられた。「インドで1000人の半導体技術者を雇用しようと考えている。ネットを使って、本社と連動した開発体制を作ろうと思う」。

 新興国にネットが普及し始めて間もない頃。米国も本格普及して日が浅い。谷井が香港でモノ作りの水平分業が運送会社にまで及んだのに驚いた時からまだ数年。既に世界はソフト開発の本格分業にも動き出していた。

世代が下るほど経営は厳しく

 谷井が香港で見た風景、牧本が海外の同業者から持ちかけられた話。いずれのビジネスモデルも原型はパソコンの生産にある。パソコンは、米IBMが1980年代にOS(基本ソフト)や部品、CPU(中央演算処理装置)の仕様を公開してきたことで、モノ作りの流れが根底から変わった。OSで米マイクロソフト、CPUで米インテルなどの専門メーカーが次々と誕生。90年頃から台湾にEMS(電子機器の受託製造サービス)と呼ばれる組み立てだけを中心にしたメーカーが生まれてきた。この水平分業モデルが、携帯電話、DVDレコーダーやテレビへと広がり、幅広い業種に影響を及ぼし始めたのである。これは80年代末に水平分業が本格化した半導体も同様だった。

 様々な分野で価格が急激に下がり、新興企業の強烈な挑戦に先進国の大企業は苦境に追い込まれた。

 この変化は、牧本のさらに次の世代の経営者の時代に、もっと激しく日本型経営を揺さぶった。

 「1000億円の赤字だったDRAM(汎用メモリー)から99年に撤退した。もうもうからないものはやれなかった」

富士通の社長時代は事業再編に追われた秋草直之顧問(写真=柚木 裕司)
富士通の社長時代は事業再編に追われた秋草直之顧問(写真=柚木 裕司)

 98年6月から5年間、社長として富士通を率いた秋草直之は就任した翌年、半導体事業に大なたを振るった。市況の暴落で赤字が続いたためだったが、結果としてその決断は遅かった。同社を含め、日本のDRAMメーカーは、80年代半ばには世界一のシェアを取ったが、その後、情報システムの中核が汎用コンピューターからパソコンに移ると、ついていけなくなった。

 「日本企業は汎用コンピューターで使われた長寿命・高品質で高価格のDRAMにこだわりすぎた。パソコン向けで求められる、品質が多少落ちても低価格なDRAM生産にいきたがらなかった」と技術ジャーナリスト、西村吉雄は失敗の原因をそう語る。

 市場の求めに応じないわけはない。しかし日本企業は品質にこだわりたがる傾向が強く、品質を保ったままで価格を下げる工夫をしようとするうちに時間を浪費してしまう。そして、価格優先で攻め込んだ韓国勢に敗れ去った。

 日本型経営には様々な側面がある。エズラ・ボーゲルが指摘した年功序列などの3要素ばかりでなく、「現場優先」もその一つだろう。それは日本企業の評価が急速に高くなった70~80年代に固まったものだ。例えば、パナソニックの谷井が育てたVTRはもともと、56年に米国で技術開発が始まっている。それが日本で花開いたのは、現場発の優秀なモノ作り力があったからだ。画像や音声を記録・再生するヘッドの精密加工や、その正確な回転、そして部品間のすり合わせといった精緻な技術が日本のVTRを世界に押し出した。

 いわばアナログ時代には、職人的な技術力が競争力の源泉だったわけで、だからこそ現場優先の思想が正しい経営とされた。そんな部門を複数抱える総合型企業が多い日本の場合、経営者が現場の意向を無視して利益優先で動かそうとしても、簡単にはいかない。

高度成長から失われた20年へ ●日本経済70年の歩み-1
高度成長から失われた20年へ ●日本経済70年の歩み-1
(写真=左:時事、右:読売新聞/アフロ)
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高度成長から失われた20年へ ●日本経済70年の歩み-2
高度成長から失われた20年へ ●日本経済70年の歩み-2
(写真=左:Getty Images、中・右:ロイター/アフロ)
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経営陣の多様化が競争力に

 そこに終身雇用という制度が覆いかぶさった。収益が見込めないとして事業を撤退させようにも、競争力の源泉とされた現場の従業員を路頭に迷わせるわけにはいかない。秋草自身もDRAM撤退の際には、すぐに人員削減に踏み切ったりしなかった。

 ところがウィンドウズ95が道を開いたデジタル化とネット化の奔流は、長期雇用の中で蓄積していく熟練の価値をほぼ消し去った。デジタル化された機械を購入すればある程度の品質のものを効率よく作れるようになったからだ。DRAMなどはその典型だった。こうして終身雇用や現場主義は、電機産業を中心に日本企業の強みとは言いにくくなっていった。

 同時に起きたのは、外部環境の変化への対応は現場ではなく、経営層に委ねられるようになったということだ。現場の作り込みなどによる技術や品質の向上が生きる高価格品を除くと、もうからない事業からいち早く撤退し、投資を選別するといった戦略自体が戦いのカギになってきたからだ。

 そこでも日本型経営が問題になった。「新卒で入社し、みんなが同じ経験をして育って経営者になる日本の仕組みでは、大胆な事業の組み替えや撤退などができる経営者は生まれにくい」。青山学院大学大学院教授の須田敏子はそう指摘する。今度は内部昇進の年功序列制度が問題になってきたのである。

 5人の社内取締役のうちの2人、実務に当たるコーポレートオフィサーは13人のうちの9人が外国人──。武田薬品工業はここ数年で、経営陣の構造を思い切って変えた。

 外資系コンサルティング会社で人材育成を担当した後、2013年4月から2年間、武田薬品工業でコーポレートオフィサー・人事部長を務めた半田純一は、その狙いをこう言う。「トヨタ自動車をはじめとした自動車メーカーのように、技術や品質などに固有の強さを持つ場合は、それを外国に売り歩くだけで企業は成長できる」。

 ところが多くの企業はそうではない。外国企業と似たレベルの製品やサービスで競っている。「そうした企業では経営陣に世界中の人材を集めることが強みになる」と半田は言う。医薬品のように技術が高度化し、新製品開発のための投資が大規模化してきた世界では、多様な人脈を抱え、知見を持つ経営陣を作ることが競争力になる。

 特にバイオ医薬のような新しい分野では、世界中のどこにどんな開発をしている研究者がいて、その有望度はどの程度かを常に測って必要ならいち早く協業することが勝負になる。もはや「既存事業で業績を上げた人が内部昇進をして経営者になる仕組みだけでは、世界で勝てなくなっている」(半田)。1990年代半ば以降のデジタル化とネット化は世界を狭め、その構造を一気に作り上げていった。

戦前の方が経営は監視された

 ウィンドウズ95がきっかけとなった環境変化の衝撃は、日本型経営にさらなる余波を及ぼしている。その一つは経営に対するチェック機能の弱さが浮き彫りになってきたことだ。

 戦後、経営に対する監視機能は長らく、銀行が受け持ってきた。上場企業でも株主からのけん制はほとんどなく、メーンバンクだけが「もの言う存在」だった。その銀行も、経営に介入するのは企業の業績と融資返済に大きな問題がある場合だけ。大きなトラブルでもなければ、特段厳しい要求を突き付けることはなかった。

 戦後にできた労働組合も企業別で、やがて労使協調路線に入っていったから、経営者をけん制するほどの存在にはならなかった。そして、この仕組みの中で「社長が自分の意思で後任を選ぶことが慣習になっていった」(早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問の野口悠紀雄)から、総合的なけん制機能は弱くなるばかりだった。

 それでも80年代までの成長の時代には、この仕組みは大きな問題にならなかった。大胆な投資をして失敗しても、致命傷にならなければ、やがて取り戻すこともできたし、甘い投資でも成功することがあったからだ。時代の成長力が、多くの問題を洗い流したのだ(下グラフ参照)。

日本企業の利益率は回復できるのか ●高度成長期以後の大企業の売上高営業利益率推移
日本企業の利益率は回復できるのか ●高度成長期以後の大企業の売上高営業利益率推移
注: 資本金10億円以上の企業の売上高営業利益率の推移を見た。高度成長期は1960~73 年度、バブル期は1980~89年度、デフレ期は1995~2013年度で算出
出所:法人企業統計を基に本誌作成
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 ところが、90年代半ば以降、デジタルとネットの普及とともに世界市場が一体化し、競争が激化した。技術やサービスの進化も激しくなり、企業は容易に利益を取れなくなってきた。

 こうなると、戦後のけん制を受けない経営が本来抱えていた弱みが露呈し始めた。判断の甘い投資はすぐ多額の損失となって跳ね返るようになり、経営のミスが許されなくなってきたのだ。

 しかし歴史を振り返ると、外部のけん制機能は、昔からなかったわけではない。戦前、財閥系企業では、持ち株会社である財閥本社が専門経営者の経営計画などを承認することで監視していた。配当性向も同様で、財閥本社の要求水準を満たす必要があった。

 一方、上場企業では、大株主が兼任役員として取締役会に直接参加していた。もっともこれは、いわば個人投資家のような人も多く、複数の企業に兼任役員として加わっていたという。

 ところが、戦後は財閥解体で財閥本社からの監視がなくなり、兼任役員もいなくなった。メーンバンクが力を持つようになったのは、その結果だった。

 市場環境が短期間に激変するようになった今、改めて必要になっているのは経営への監視機能だろう。

日本型経営はまだ変わる

 巨額の不正会計が問題となった東芝は、テレビ、家電、一部半導体など不採算事業でも延命し続けているうちに、傷口を広げた。大株主や銀行など、資本・負債の提供者の要求を満たす業績を上げられるかといった視点で経営を見直し続けていれば、状況は違った可能性もあるだろう。

 2009年3月期に7873億円という製造業で過去最大の赤字を記録した後、事業の選択と集中を進め、V字回復を果たした日立製作所は、昨年、経営を実際に受け持つ社内の執行役を監視する取締役会の構成を大きく変えた。社外取締役を7人、社内取締役を5人とし、経営の監視機能を強めた。

 ただし、東芝も経営の監督と執行を分ける委員会等設置会社であることを考え合わせれば、仕組みだけでは経営のチェックはできない。「経営トップが変革を恐れるようになったらクビにしてもらう」。日立相談役の川村隆がこう言い切るように、経営陣のクビをかけるほどの真剣さで取り組まなければ効果は出ない。日本型経営の改革はまだ続くことになるのだろう。

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