2011.02.10
「パナーキー(Panarchy)」 複数の政府が共存し、自分が属する政府をかんたんに変更できる
ウィキペディア - パナーキズム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91..

<パナーキズム(Panarchism)とは、個人が移民や転居を伴わずにその所属する政府を自由に選択・変更することが出来る権利を主張する政治哲学である>。

<パナーキーという用語はベルギーの経済学者en:Paul Émile de Puydtの論文『Panarchy』(1860)で初めてこの意味で使用された。de Puydtは経済学におけるレッセ・フェールの思想を政治の分野に適用すれば、あらゆる種類の異なる複数の政府が平和的に共存できることを説いた>。

「パナーキー」とは、複数の政府が共存し、自分が属する政府をかんたんに変更できるような統治形態のことらしい。「パナーキズム」とは、それを是とする思想のようだ。

この考え方は、リバタリアニズムに共感している人にとっては、ごく自然なものだろう。

リバタリアニズムがもっとも重視しているものは「自由」であり、より具体的には「強制しない」ことである(「リバタリアニズムのキモは「強制しない」こと」)。よって、リバタリアンは普通、社会主義を支持しない

しかし仮に、複数の政府が共存する「パナーキー」が実現していて、社会主義を支持する者だけが社会主義の政府を選択しているならば、リバタリアンはそれに対して何の文句もない。リバタリアンはリバタリアンで、自分の好きな政府を選べるならば、そこには「強制」がないからだ。

<もし国民の全員がそれに心の底から合意しているのなら、「社会主義」であってもいいと私は考える。どこにも「強制」が発生しないからだ>(「どんなに素晴らしい価値観であっても、価値観の「強制」には反対する」)

このような意味で、リバタリアリニズムとは特定の統治形態を支持する政治思想というよりも、「強制」に反対するという「設計原則」に近い。

政府による「強制」が起きないようにするには、どうしても複数の政府が必要になる。そのひとつの方法が、連邦制や道州制による地方分権である。

連邦制や道州制では、それぞれの地域が「国」に準じた権限を持っており、法規制や税制を好きなように定められる。住民や企業は、もし自分の住んでいる「国」がダメだと思ったら、そこから逃げ出して、他の地域に移ることができる(いわゆる「足による投票」)。このことが、それぞれの「国」である州政府に対してプレッシャーとなり、まともな政治をやろうというインセンティブになる(逆にいえば、中央集権体制であるいまの日本の問題は、政府がこのインセンティブを持ちにくいことである)。

しかし連邦制や道州制では、この「足による投票」をするために、いま住んでいるところを引き払って、別の「国」に引越しする必要がある。このコストは小さくない。

これに対して「パナーキー」は、同じ地域にも複数の政府が同時に共存し、手続きひとつで、自分の属する政府を変更できるようにする、というものだ。

「パナーキー」の政府は、いわば会社のようなものだろう。近所に住んでいる人でも、それぞれ別の会社に勤めている。これと同様に、みんながそれぞれ別の政府に属している、というのが「パナーキー」だ。

「パナーキー」の元祖、Paul Émile de Puydtの『パナーキー(Panarchie)』(1860) に、こういう一節がある。

<「別の政府に移行しよう」という言葉はこういう意味だ:政治会員管理局へ行き、帽子を脱いであなたの
名前を望みのリストへと移転してくれるように礼儀正しく申請することである。執行官は眼鏡を掛け、
帳簿を開き、あなたの決定を記入し、あなたに証明書を交付するだろう。あなたはそこを立ち去り、これで
一滴のインク以外のものは全く失うことなく革命は達成されたことになる>(パナーキーwiki『パナーキー(Panarchie)』Paul Émile de Puydt (1860) 後半」より)

リバタリアンのなかでも、もっとも政府を小さくすべきと考えるアナルコ・キャピタリストであれば、この「パナーキー」の考え方はおそらく、不徹底であるように映るだろう。複数の政府から選べるのは悪くないが、なぜそれが「政府」である必要があるのか、民間の会社で十分ではないか、というふうに見えると思う。

「パナーキー」の政府とは、例えば「会員制のコーヒーショップ」みたいなものだろう。その店の会員でないと、そのコーヒーショップは利用できない。それぞれの住民が、どこかのコーヒーショップの会員になっていて、それぞれが自分が会員になっているコーヒーショップを使う。

会員制のコーヒーショップに存在価値がないとは言わないが、一般的には、この仕組みは不便だろう。単に、代金を払えば誰にでもコーヒーを出すという、普通のコーヒーショップのほうが良さそうだ。行政サービスを民営化して、政府の仕事を民間がやるようにすれば、この「普通のコーヒーショップ」方式にできるし、政府は不要である。

「パナーキー」の考え方があまり普及していないのは、基本的には実現可能性の低い、やや空想的な政治思想でありながら、上記のようにやや不徹底というか、中途半端な位置づけにあるからかもしれない。

どちらかといえば、「パナーキー」はリバタリアニズムやアナキズムのような政治思想というよりも、連邦制や道州制とあわせて語られるような、ごく具体的な仕組みに応用できそうな気がする。例えば、保険や税制などについて、住民はいくつかの方式から選択できる、というようなものだ。

「民営化」とか「政府をなくす」というと、話が大きくなるので、そのぶん実現が遠のく。政府による公的なサービスのままだとしても、いくつかの方式から「パナーキー」的に選択できるようになれば、それだけでもリバタリアニズム的には前進だろう。

「パナーキー」にしても、連邦制や道州制にしても、「政府が複数ある」というのがポイントだ。複数の政府が「競争」していて、住民や企業は政府をつねに「選択」できる。このことが、政府の質を上げるのだ。いまの日本はこれがなく、巨大で単一の政府なので、質の低下が起きることは避けられない。これは「構造的必然」である。


関連エントリ:
リバタリアニズムのキモは「強制しない」こと
http://mojix.org/2010/01/23/libertarianism_kimo
どんなに素晴らしい価値観であっても、価値観の「強制」には反対する
http://mojix.org/2009/08/01/kachikan_kyousei
さまざまな「社会設計」の自治体が競争するメタ社会
http://mojix.org/2008/11/03/meta_society