2011.06.07

ニューヨーク・タイムズの話題記事を完全翻訳
「原発依存を助長する日本の文化」

菅直人首相は少なくとも一時的に、日本の原子力利用をこれ以上拡大する計画を見送った〔PHOTO〕gettyimages

 <鹿島発>島根原発が40年以上前にこの地に計画されたとき、この田舎の港町は激しく抵抗し、原発を経営する予定であった中国電力は、ほとんどその事業計画を廃棄するところだった。怒った漁民は、何世代にもわたって魚と海藻を漁獲してきた場所を守ると誓った。

 20年後、中国電力が三番目の原子炉の設置、拡張を検討したとき、鹿島は再び素早い行動に出た。今度は賛成で結集したのだ。地元の漁協に促され、町議会は賛成15、反対2で、40億ドル(3千200億円)の原子炉を建設するよう公にアピールを出すことにした。

 鹿島町のような逆転は日本ではよく起こる話で、これは、現在までの日本の揺るぎない原子力の追求と、54の原子炉がある周辺の町に広範な草の根反対運動が存在しないことの説明に役立つ。3月11日、地震と津波が福島第一原子力発電所で原子力危機を生んだあとにもこれは当てはまる。この地震が起こりやすい国が、いったい原発の安全を十分に担保しているのかという深刻な質問を、この危機は提起したが、今までのところ、この危機的状況は、小さな反応しか生みだしてはいないのだ。

 菅直人首相は少なくとも一時的に、日本の原子力利用をこれ以上拡大する計画を見送った。その計画とは国の有力な原子力支配者集団によって推進されてきたものである。鹿島町は原子力に賛成の立場で激しく闘うことをいとわないように見える。安全性に関する懸念にもかかわらず、多くの住民は公にそれを口にはしない。

 鹿島町の転換を理解するには、近くの鹿島スポーツ公園をみればすむ。大部分はお年寄りの7千500人の住民のために、ここには野球場、照明付きテニス場、サッカー場があり、3千500万ドル(28億円)の体育館は、屋内プール、オリンピックサイズのバレーボール競技場付きである。体育館は、今も建設中の第3原子炉を引き受けたことで町が受け取る数百億円で支払われるいくつかの巨大公共事業の一つにすぎない。

 鹿島町の話が暗示するように、日本政府は、本質的に、地域からの支持や少なくとも黙認を、手厚い交付金や保証金や仕事をばらまくことで買うことができた。経済産業省によると、2009年度だけで東京は11億5千万ドル(9兆2千億円)を発電所を持つ地域の公共事業に投じた。専門家によるとその金の大部分は原子力発電所の近くの町や村に流れる。

 そしてそれは氷山の一角にすぎない。大量の交付金、資産税、所得税からの収入、個人補償、原発企業から来ると広く信じられている地元の金庫への”匿名”の寄付すらある、と専門家は言う。

 疑問の余地なくそれらの援助は、仕事と人とを急速に都会に奪われてきた地方の町や村を富ませてきた。石油や石炭の充分な蓄積がない日本は、その経済的仕組みを運転するために必要なエネルギー減を原子力に頼る。しかし批判する人は、それら多額の贈与が、同時に地域を中央政府の歳出に依存させ、結果的に地域は、原発に頑丈な危険防止装置を迫ることで波風を立てることをあえてしなくなった、と主張する。

 批判者が麻薬中毒になぞらえてきた過程で、楽に儲かる金と、より高賃金の仕事の流れは急速に地域本来の経済基盤である農業や漁業に取って替わる。

 原発のような公共事業に代わる選択肢も原発計画者は提供することをしなかった。金を使う蛇口を開けっぱなしにしておくことが、新たに上昇した生活水準を維持する唯一の方法となった。

 専門家と一部の住民は、この依存こそが、広島と長崎の遺産とスリーマイルやチェルノブイリの原発事故にもかかわらず、なぜ日本がアメリカやヨーロッパにみられるような水準での原発への大衆的な反対には直面せず、またなぜ今後、新たな原発の建設を止めることなど、米国よりもっとありそうにもないことなのかを説明するのに役立つと言う。町は、政治家、官僚、裁判官、原子力産業経営者といった同一のサークルの網の目に絡めとられ、彼らは休むことなく、安全への関心を凌駕して、原子力の拡大を売り込む。

「この依存の構造が、町や村の人々に施設や原子力に反対する発言をできなくさせているのです」と福島大学で地方財政論を教える清水修二教授は言う。

沈黙の作法

 本当に、沈黙の作法は今もなお、5年前に松江市と合併した鹿島町に広く行き渡っているようだ。

 安達常吉は、63歳の漁師だが、鹿島原発第二原子炉に反対する、1970年代、80年代の大規模な抗議行動に加わっていた。彼によると、1974年から稼働した施設の第1原子炉から出る塩素が、地元の漁業海域の海藻と魚を殺していたからで、その頃は多くの漁師が憤りを感じていた。

 しかし安達によると、第2原子炉の補償金が流れこみ始めると、近所は彼を冷たくみるようになり、ついには無視したという。1990年代の初期、第3原子炉が提案される頃には、安達を含め誰一人、プラントにあえて反対する声をあげる者はいなくなった。福島原発事故のあとでも、島根原発から数マイルの距離に住む彼らの多くには恐怖であったが、やはり仲間からの圧力を感じたという。

「もちろん、われわれ心の中では同じ災難が島根でも起こるのじゃないか、と皆心配しています」と安達氏は言う。しかし、「町は、原発なしにはもう経済的にやっていけないと知っているのです」

 公然と口に出す人はほとんどいないが、多くの住民もまた、自分たちの町が、かつては活気があった漁業をどうしてやめてしまったのか、と密かに気遣う。彼らはまた、スポーツ公園のような一時的には華やかなプロジェクトが長続きする経済的な利益をほとんどもたらさなかったとも言う。第3原子炉だけでいっても、町には9千万ドル(72億円)の公共事業費が落ち、もし原子炉が来年から稼働すれば、その後15年間以上にわたって、6億9000万ドル(552億円)の財産税が別枠で流れる約束だ。

 1990年代第2原子炉からの財産税は町の税収の4分の3を占めた。その収入がいずれ減少するという事実が、第3原子炉追求にを押しやった一つの要因だった、と当時の町長、青山善太郎氏が言う。

 青山氏は、福島原発事故がここ鹿島の住民をゾッとさせたことを認めた。それはそうでも、と彼は言う。島根原発を引き受けたことを住民は後悔していない。そのせいで生活水準も上がったし、日本の多くの地方を空洞化させている人口流出が起こることも食い止めた。

「原発がなければどうなったと思う?」と73歳の青山氏は言う。町は、1960年代後期から始まった第1原子炉からの最初の補償費を屋内水道設備のために使ったのだ、と言う。

 原発はその電力の大部分を遠くの都市地区に供給するのに対し、原発自体は、隔絶した貧しい地方に設けられている。

 中村一良氏(84歳)は、鹿島町の中の日本海の荒海に面する小さな漁村、片句での子供時代の生活が、どれほどつらいものだったかを思い出す。父親は小型平底船にのってイカやタイを釣り、母親がそれを背に、わらじ履きで細い山道をたどり市場まで運ぶ。

 それでもはじめは、漁民は原発に近い漁場の海藻や魚を取る権利を捨てることを、かたくなに拒否した、と中村氏は言う。当時彼は片句漁協の組合長であった。結局、彼らは補償費を受け取り、それは漁師一人あたり60万ドル(4千800万円)に達した。

「最後は金に屈したのさ」と中村氏が言う。

 床は土間の小屋が、今ではドライブウエイ(車用私道)付きの特大の家に代わり、トンネルを通過すれば、鹿島町の市街まで車で5分だ。しかし新しい富は、300戸足らずのこの小村を見えない形で変えてしまった。漁を続けているのはおよそ30人の老人たちだけ。残りの大部分は発電所に通い、安全保安員か清掃員として働く。

「金が簡単に手に入って、もう働く必要もなくなったのです」と、反原発の政治綱領で町長選に出て2度敗れた町議会議員が言う。

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