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江戸時代の駕籠

駕籠自体、相当重そうなのに、人を乗せてかなりの距離を走る。 昔の人の体力には感心するものの、乗ってる方も乗り心地悪そうだし、二人分の人件費がかかります。 なぜ人力車のように、車輪をつけようと思わなかったのでしょうか。大八車とか、牛車とかはあったわけで、車輪の概念はありますよね? 何かの理由で幕府が禁止していたのですか。

  • 歴史
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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.2

江戸については幕府が人の乗る車を禁止していました。京都でも御所車以外では、牛車は人間が乗ることを禁じられていました。 言い方は悪いのですが、駕籠かき人足の「既得権益」を守るためです。実際、明治になって馬車の解禁の際、かなり揉めています。 以下の本に、まさにpastoraleさんの抱いた疑問と、その調査結果が載っています。 『日本史再発見―理系の視点から』板倉聖宣、朝日選書

pastorale
質問者

お礼

やはり幕府が禁止していたのですか。 日本史再発見を検索しましたが、あまり詳しい中身までは出ていませんでした。 本物を探してみて、また補足欄に感想を書き込みます。

その他の回答 (11)

  • Galaxi500
  • ベストアンサー率29% (14/47)
回答No.12

本当は、企業城下町も抱える藩(会社)からの脱藩者です。 急ぎの用向きも無いのに早籠(ハイヤー)を呼ぶような今とは違い、当時は体力が追いつかない年寄りのお武家さんが使ったのでしょうね。輪っかで耳に引っ掛けたようなメガネをした大久保彦左衛門とか。 こんな「彦左」が「殿、一大事でございます!」なんて言ってきたら、ずれてほぐれた裃や埃だらけのメガネや、血豆だらけの手の平を見たら、本当に一大事!と殿様も思った事でしょう。 「役人専用の乗用大八車、発注しちゃおうかな!」なんて発想、なかったのかなあ。 なんか、この時代って、いと惜しい。

pastorale
質問者

お礼

ちょっとルール違反ですが、ここを借りて皆さんにまとめてお礼申し上げます。 「日本史再発見」1部を何とか読み終えて、大体の疑問が解決しました。ヨーロッパにも駕籠様の乗り物があって、セダンの語源なんですね。 石川英輔の著書は、検索すると50冊くらい出てきたので、ぼちぼち読みます。 飲み込みの悪い生徒を、根気良く何度も指導いただいてありがとうございました。 先生に点をつけるようで僭越だし、二人にしか上げられないし、心苦しいのですが、とりあえず何度も回答いただいた方にポイントをつけます。すべての回答がとても参考になりました。 また愚問を持ちましたら、よろしく

  • ss79
  • ベストアンサー率33% (258/765)
回答No.11

誤解があるといけませんので補足。 早駕籠でツリ紐に乗客がぶら下がったのは、駕籠の動揺が激しいので座ったままでは腰を痛めるのを防ぐためです。 駕籠自体歩く負担を無くす為のものですから速度など問題にしません。 幕府が大型船(千石積み以上)の建造を禁止したのは鎖国の為外洋航海の出来るような船の建造を禁止する目的があったのです。 この為外洋航海の出来る船の建造技術の発達が遅れ、江戸時代伊豆に漂着したロシア軍艦の修理の際にその技術を学んだといいます。 大体日本には牛車の概念はあっても(速度は度外視)馬車の概念がありませんでした。 馬は人が乗るものか駄馬として荷物を積送するもので挽馬として使う事はなかったのです。 挽馬として使い始めたのは明治維新以後鉄道馬車や外人の馬車を見て始まったのです。 

pastorale
質問者

お礼

ははは、Galaxiさんが「人足の負担を軽くする」なんておっしゃるから、悪乗りしただけです。完全にぶら下がっても人足の過重は同じですよね? 武士以外が江戸市内で馬に乗るとしたら、市中引き回しくらいですか。 何とものんびりした時代だったんですね。 「日本史再発見」を入手して読み始めました。ここで出した疑問が殆ど出ていました。 軽い気持ちでした質問に、思いがけないほどたくさんの博識な方から回答いただき、本も一冊読む羽目・・・機会に恵まれ、少し利口になりつつあります。

  • mii-japan
  • ベストアンサー率30% (874/2820)
回答No.10

>迅速な移動手段を禁じることで、庶民が台頭するのを防いだという思惑はあるのでしょうか これは戦後の偏向歴史教育による誤解以外の何者でもありません そのためにも、石川英輔の著作を何冊かお読みください

pastorale
質問者

お礼

はあ、そうですか。 たしか「菜の花の沖」で、大きな船を造ることが禁じられていたとあったし、商人が力を持ちすぎるのを恐れたのかなと思ったのです。 石川英輔の著書は少しは読んだことあるような気がしますが、私の興味が日常のミクロなことに偏ってしまっていて・・ どの辺から読めばいいのでしょう。

回答No.9

あちゃ。 #2で詳しく書いていませんでしたね。すみません。 「京都でも御所車以外では、牛車は人間が乗ることを禁じられていました」 というのは、御所車以外の牛車がなかった、ということではなく、牛車が人間を乗せる以外の使われ方をしていた、ということです。 つまり、荷車としての使用ですね。 そして、そのためのレール(のようなもの)が、京都にはあった、と。 説明不足ですみません。

回答No.8

#6に追加です。 誤解されているようですが、京都では牛車は御所車だけではなく、荷車として使用されていました(#2で書いたようにです)。 ここでの石畳のレールとは、その荷車としての牛車のためのものです。

pastorale
質問者

お礼

すみません。読み方が浅かったです。 荷車のためにわざわざレールを敷いたのですか。 両輪の幅には規格があったわけですね。

  • Galaxi500
  • ベストアンサー率29% (14/47)
回答No.7

元幕府の役人です(嘘です)。 当時、大八車のように物を運ぶのがせいぜいでした。 タイヤのゴムとか、バネやスプリング、ベアリングの無い時代です。 泥の凸凹の道を、ゴムタイヤ無しの自転車に乗ったことがありますか? 顎は外れそうになるし、メガネはとっくにどこかに吹っ飛んでるし、これで日本髪を結っていたら、全部ほどけて、大喧嘩をしたあとみたいになってしまいます。 一方、籠について。 人を担ぐのは大変なことですが、担がれると気分がよくて、騙されるって、心地いいですよね。 そんなこと、ある訳無いって、わかった時の後味の悪さ。籠を担いでお駄賃をもらった方が、どんなに嬉しいか。 それにしても、昔のお客様は、つり紐にぶら下がってまでして、駕篭かき人足の負担を軽くしてあげようだなんて。想像しただけでも大変です。 皆さんのコメント、学術的で勉強になります。 質問者の方にもポイントを差し上げたいくらいです。

pastorale
質問者

お礼

車輪が原始的なら、座るところにクッションを積み上げても駄目ですかね。 西洋はいつからスプリングとかあったのでしょう。ベン・ハーもちゃんと戦車に乗ってるし。 「担がれる」って、ここから来た言葉ですか。担ぐ方は雲助とか呼ばれて、あまり柄のいい感じではないですが。 つり紐にぶら下がったら、人足の負担が軽くなりますか?? 物理カテで訊いてみねば

回答No.6

ss79さんの回答に少し補足。 京都では牛車に関しては鉄道でいうところのレールのようなものが整備されていました。牛車の車幅に石畳を敷いて、轍の部分を彫り込んでいました。それをレールに、町中での牛車の通行場所を定めていた、ともいえます。 石川英輔の本は、私も三田村鳶魚とともに必須参考文献としてそろえていますが、江戸以外の都市についての記載が少ないのが残念です。

pastorale
質問者

お礼

京都とはいえ、公家の人数なんて知れてるのに、専用のレールを作るほどの権力があったのですね。 江戸時代にはうらぶれて、牛車どころではなかったでしょうが。 日本史再発見は図書館の分館にあったので、取り寄せを頼みました。読んでみます。

  • ss79
  • ベストアンサー率33% (258/765)
回答No.5

追加質問にお答えします。 当時は時間の感覚ものんびりしていた時代です。 時刻も2時間単位の表現で現代のような分刻みなど想像できない時代でした。 費用の点は駕籠に乗るのは比較的裕福な町人などで一般庶民は歩くのが当たり前でしたから不思議でもありません。  江戸時代、大抵は朝からウオーキングしなければ生活出来なかったのです。 交代要員を用意出来るのはそれなりの身分の人や公費ですから費用の心配はありません。 既得権といったのは失業はいつの時代でも社会不安の原因でしかも交通機関、情報伝達の機関の一部として組み込まれていたし、替わるものがなかったのです。 明治維新後、人力車が出来てから爆発的に普及しました。 車曳きは駕籠かきからの転職が多かったと聞きます。 ローマの道路は幹線は軍隊移動のために作られたもので当時既に道幅、舗装の仕様、車道歩道の別、街路樹の設置など定められていました。 車社会でない日本ではそのような概念が無かったのです。

pastorale
質問者

お礼

再度、回答ありがとうございます。 確かに江戸時代は、ゆったりと時間が流れていたような気がします。最初からその生活が当たり前なら、不自由は感じないでしょうね。 現代が環境を破壊してまで、こんなにスピードを追求する必要があるのかなと思いながら、やはり新幹線は停車駅の少ないのを選んでます。 日本で馬車ができなかったのは、馬のサイズの違いからでしょうか。

  • mii-japan
  • ベストアンサー率30% (874/2820)
回答No.4

>明治時代には道が舗装されたのでしょうか 舗装された道路もありましたが、ごく一部です 大部分は、雨が降ればぬかるみになる道です ですから、車が通れば道が荒れます 江戸時代 大八車等が普及しなかったのは、今の言葉で言えば 環境破壊 に対する配慮です なお、道路の舗装が、現在と同じ位になったのは、昭和40年代後半から50年代にかけてです 東京オリンピックの頃は、舗装されていたのは、東京の山手線の内側と、国道の1~50号あたりまででした 今の感覚で判断すると、とんでもない見当外れになります 石川英輔の「大江戸シリーズ」をお読みになるのもよろしいかと

pastorale
質問者

お礼

ローマ時代に車道と歩道が分かれていたヨーロッパと、道路に対する考えが違うんですね。 たしかに舗装はエコ的に良いとは言えないし。 歴史博物館で本物の駕籠や甲冑を見て、現代女性より小柄な当時の男性が、こんなものを担いで何キロも走ったのかと驚いたのです。 迅速な移動手段を禁じることで、庶民が台頭するのを防いだという思惑はあるのでしょうか。

  • ss79
  • ベストアンサー率33% (258/765)
回答No.3

駕籠の乗り心地は思った程悪くはなかったようです。 駕籠の種類によりますが町駕籠は比較的平坦な町中の道路を、特に急ぎなどを頼まない限り歩く速度位で移動します。 大名駕籠のような立派な作りの場合、普通4人の陸尺が担ぎ、必ず交代の人数がついていたものです。 又速度も歩く速度くらいで乗客の負担をかけないように気をつけます。 ですから駕籠の中で煙管に煙草を詰めて煙草盆から火をつけるなど優雅なものでした。 早駕籠というのは危急の場合走る速度で移動しますので、疲れる前に担ぎ手が走りながら交代し、かなりの交代要員がついて走ります。  これらの交代要員は宿場毎に交代する定めで多くの担ぎ手が走り続けました。 乗り手も不眠不休で負担をかけないよう駕籠の中の吊り手にぶら下がって腰を浮かして乗りました。 従って町中、各宿場毎にかなりの人数の駕籠かきが常駐していました。 彼らの既得権は他に替わるものがない時代尊重する必要があったのです。

pastorale
質問者

お礼

乗り心地が良くても、歩く速さと同じなら、現代人ならいらいらするでしょうね。 交代要員が多いと、今度は費用が大変だろうし。 人力車的なもので、一台一人で引けるなら、倍の客をさばけたような気もしますが。 なぜそこまでして既得権を守ったのか。 No2さんの本を読んで、また補足質問します。

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