空気で議論するネットのひとたち

メカAG氏のブログ記事が面白かった。


メカAG氏の指摘を誤読し、ソースを元に組み立てない議論なんてなんの意味があるのかみたいなコメントも多くあったが、そのとおり、確かに根拠をきちんと明示して論理的な議論を組み立てるためであれば、むしろソースはとても大事なのだが、ソースをコピペだけして、はい、論破。みたいなのは極端にしても、ソースと自分の主張と現実との因果関係をまともに説明できないのに議論しているつもりになっているひとばかりがネットに溢れている。


ネットでよく見る非論理的な論客を昔、twitterでこう評したことがある。


・ ゾンビ型論客 ・・・ 議論でいくら斬られても痛みを感じず、気づきもしない。

・ スケルトン型論客 ・・・ 議論で斬られたはずの論点が、時間がたつと再生する。

・ スライム型論客 ・・・ 斬ると議論が分裂する。


彼らは論理的な思考力がそもそも備わっていないので他人の理屈を理解できないし、そもそも他人の理屈を理解する気もない。相手の意見を理解した上で自分が考えた意見を述べるというよりは、相手の意見を外部からのいくつかの単純な刺激のパターンとし解釈し、決まったかたちで反応するどちらかというと知的生物というよりは昆虫とかに近い行動形態をとる。ネットイナゴとはよくいったものだ。


では、彼らはどういうパターンに反応して自らの行動を選択しているのだろうか?そして自分たちの機械的な反応を議論していると勘違いするのはなぜなのかを今回の記事では考察してみたい。


現実でもそうなので、あたりまえなのだが、ネットでは難しい理屈をこねまわせばこねまわすほど理解してくれるひとは減る。池田信夫氏のブログがいい例だ。いい記事でも中身が難しいとまったくブクマがついていない。簡単な理屈でないと多くのひとを納得させることは難しいのだ。ではネットで理解してもらえるために大切な簡単な理屈とはいったいなんだろうか?もちろん話の内容ではない。


・ 態度がいいか悪いか? ・・・ あるひとが書いたりしゃべったりしたことに、ネットの反応がどうなるかで一番大事なのは態度だ。いっている内容はあまり理解されないから、ぱっと見の態度がいいか悪いかがとても大切だ。それでそのひとを応援するか攻撃するかの基本方針が決まるといっても過言でもない。本当にいっている内容はあまり関係ない。いいひとそうか?そうでないか?生意気なのか?誠実そうなのか?ネットのひとたちはそれを第一に観察する。


・ どっちの意見が権威あるか? ・・・ ネットのひとたちの大多数はそのひとがいっている内容が正しいか間違っているかちょっと難しくなると判断できないので、だれがいった内容かということを重視する。中身は判断できないので、いったひとが専門家かどうか?もしくは専門家の意見と同じかどうかを重要視する。


・ 自分のもっている意見といっしょか反対か? ・・・ 多くのネットのひとたちはある意見について結論が最初から決まっている。原子炉は反対とか、韓国は嫌いとか、リア充は爆発する、とかだ。そうなると、まず、自分の意見と同じ側か、反対側かの分類だけをおこなってあとの細かい情報、相手が具体的になにを主張しているかなどは廃棄する。


まあ、簡単にいうと、上記のポイントの組み合わせで彼らはまず他人の意見に賛成するか反対するかを決めるということだ。次にそれからどう彼らが反応するかの典型的なパターンを列挙してみよう。


・ わら人形論法 ・・・ わら人形とは相手を殴るときに相手の肉体ではなく、わら人形をなぐれば相手をなぐったことになるという恐ろしい魔法だ。これはレッテル貼り+レッテルへの攻撃というコンボでおこなわれる。たとえば原子炉はなくすべきと主張しているとどういう根拠で主張しようが、反原子力発電派としてレッテルが貼られて、じゃあおまえは電気使うな、とかいう汎用的な攻撃が無条件にヒットする。


・ やつのいうことに騙されるな論法 ・・・ ネットの多くのひとは社会的な立場をある程度もっているひとは必ず自分が得になることしか発言しないという絶対法則があると信じている。この攻撃は強力だ。これはあるひとが発言するテーマが利害関係がある可能性があるというだけで、100%ヒットするというハメ技だ。ゲームバランスが崩れることこの上ない。ちなみに過去、何回かネット業界の体質について批判的なブログを書いたところ、おまえが言うなという正しい反応もあったが、それと同じぐらいにポジショントークだという断定コメントがたくさんついた。つまり発言する内容が客観的にみて自分を肯定しようが否定しようが関係なくて、自分の業界についての発言だから、裏の意図があるはずだから間違いという理屈のほうが優先されるらしい。・・・中身読めよ。


・ 目線談義 ・・・ 議論の内容にはついていけなくても比較的だれでも参加しやすい方法は、態度について批判することだ。まあ、ダイレクトに態度を批判すると悪口いっているだけみたいになるのだが、”国民目線じゃない”、とか”ユーザ目線じゃない”とかいうとぐっと議論っぽく見えるので多用される。ポジショントークと同じなのだが、どこが国民目線じゃないのか、なぜ国民目線じゃないと議論がおかしいのかまでをコンボで説明しないと意味がないはずなのだが、ネットの議論では単体でもなぜかあたり判定も大きくてダメージも発生する攻撃とされている。つかんだ瞬間にダメージ判定がある投げ技みたいだ。


・ 考え方が古い論法 ・・・ 自分で議論を組み立てられないひとたちはしばしば相手のいっていることの新しさと古さを問題にする。”その考え方は古いんだよね”、とかはよくある決めコメントだ。理屈に新しいも古いもなくて、正しいか間違っているかだけのはずなのだが、イメージだけで議論するひとたちは自分では理解できない議論をこうやって批判する。


・ アホというおまえこそアホやねん論法 ・・・ これは小学生の理屈なのだが、もうちょっとお化粧をして形を変えて、ネットの議論でもよく見られる。あなたのいっている批判は自分自身にもあてはまっている、とかいうとちょっとかっこいい。だが、議論をよく読むと本筋にはまったく関係のない指摘だったりするのだが、いいかたがかっこいいので、本来のダメージはゼロのはずなのだが、スタイリッシュボーナスがついてダメージを与えたことになる。


・ 世の中はバランス論法 ・・・ ”Aという意見とBという意見の中間に真実があるんですよ”ときいたふうなことをいうと、まるで航空支援のようにまず確実に当たり判定をくらう強力な攻撃。実際にはどうみてもAあるいはBだろうが、この意見を述べると賢者として認定されやすいので愚者が多用する。


・ 違和感談義 ・・・ 一時期、違和感がどうのこうのといういいまわしがネットで流行った。いまでも時々みられる。これは簡単にいうと議論の中身が理解できないひとが、よくわからないということを、”なにか違和感がある”といい変えることによって、相手にダメージを発生させられるというバグ技だ。類似のいいまわしに、わからないことがわかったような気になったということを、”ぼくの違和感をうまく説明してくれた”、とかいってHPを回復させるという荒技もある。


さて、どうしてネットの議論はこうもレベルが低くなってしまうのか。ひとつの理由はネットが議論の場としてフラットだということだ。フラットであるがゆえに多数派の程度の低い議論が数で影響力をもちすぎてしまうというのが一点だろう。フラットな議論の場というのは一般にはいいことと思われているが、悪い面もあるということだ。(←バランス論法)


もうひとつの理由は、おそらくネットで程度の低い議論をしているひとたちは、本当は頭がいいんじゃないか、学校とかでも成績がよかったひとたちだからなんじゃないか、ということだ。現在のつめこみ教育では、情報をたくさんインプットして暗記するということが優先される。暗記というのはようするに理屈で理解するのではなく、ある事柄をパターン認識でひもづけるという作業だ。現代で頭がいいとまわりからいわれて、自分でもそう思うひとたちというのは情報のパターン認識に能力が秀でているひとたちになるだろう。タイトルだけ見てコメントつけるひとが多いのもうなづける。少ない情報で中身をパターン認識しちゃったのだ。むしろ、おれ頭いい、ぐらいなものだろう。


もともとは、そういう頭のいいひとたちが自分は議論に参加できる能力があるはずと勘違いして大量発生しているのが、いまのネットの議論の場じゃないのかと思うのだ。