神性の疎外 〜『REIDEEN』碧乃玲〜

■神性の疎外 〜『REIDEEN』碧乃玲〜

前書き 〜Prologue〜

この数年、喰霊・零を除けば殆どTVアニメを見なかった私ですが、数少ない見た奇妙なアニメがあります。
それは、『REIDEEN』という、『勇者ライディーン』の遺伝子を受けついたとされる、一風変わった作品です。


メカデザイン・竹内敦志にキャラデザイン・斉藤卓也という絶妙なスタッフが送る大作のはずだったのですが、
アクションから物語の展開まで、悪く言えば、くどくて脱力ぶりを見事に表に出る珍作とも言えます。
そこで脱落したしまう人が大勢居るに違いませんが、何故か自分が続けて見たとは、今でも不思議でなりません。


兎も角、世間一般とは一味も二味も違う作品であることが確かな事です。
先ず、作品の張力が致命的足りません。
ロボットものとして売りポイントなる戦闘シーンが力なく見受けられます。
そして、キャラたちが自覚無くと言うか、安藤以外まとめに物語を動かそうとするキャラが皆無と言って構いません。
これで売る気あるか、と見るたび質問を投げたくなります。


ただ、単なる駄作と言うわけでもありません。神人介在の憑座でもあります
張力が足りないのに、なぜかさらに高い技術力を要る”趣”が各処各処見られてます。
メカによるアクションシーンより人間の遣り取りが遥かに面白いロボットアニメは、果たして他にあるのでしょうか?
キャラごとの対人関係、立ち位置、彼らが交わした対話など、
実に巧妙な手配がしており、仕草ごとにも面白さが満載しています。


ライディーンの戦闘は魄力よりも、優美的、高雅的、神々しさを強調していて、
変わりに人間が作ったメカ(荒牧伸志デザイン)の方が魄力ありながら非力的、という熱血で必死な表現を取ります。
その原因で、ライディーンによる戦闘シーンがスピードよりゆっくり、必死より余裕ゆえ張力足りなくなりますが、
機械仕掛け神(Deus ex machina)である以上、ライディーンは兵器よりも神像、自覚があれば敵無しというセカイ系な力も、幕引きのドラゴン(Deus ex machina)たる宿命だと言えます。


萌、熱血、大義など、ありとあらゆる観客を引き寄せるみたいなものを刻意的排除する本作は、
一体何か言いたいのかというと、やっぱり「ちっぽけな人間じゃないと判らないことも有る」ではありませんか。
王道物語として破綻しているものの、その細かさ”趣”を発見するのは醍醐味かもしれません。
”物の哀れ”を謳う王朝ロマン『源氏物語』より、寧ろ日常の”をかし”を発見する才気溢れるエッセイ『枕草子』が本作に彷彿すると思います。


そして、本作を代表する人物は言うまでも無く、黒髪ロングでミステリアスかつ知的雰囲気を持つヒロイン・碧乃玲であります。
ここで、碧乃玲という存在を論じたいと思っております故、本文を執筆する次第です。
もし、水星さんの9月6日黒髪ロング記念日に間に合えばいいと思います。


機械の神性 〜Deus ex machina〜

単刀直入に、碧乃玲はどういう者か?一言で表すとすれば、彼女は機械の神性(Deus ex machina)による神性の疎外(Entfremdung)です。
碧乃玲の存在を論ずる以前、REIDEENを定義せねばなりません。
“おおいなるもの”と呼ばわれ、その武器名もゴッドを付くのが常であるだけで、神性であるに違いません。
ただし、その神性は先天による物でもなく、精霊崇拜か事項神格化*1による物でもありません。
碧乃玲の言うところに、

滅んだ種族が生み出した究極兵器。無限の時を生き、いつしか全知全能なる存在となっていた。それ故自らの力を封印し、長い眠りについていた。

http://anime.marumegane.com/2007/reideen.html

その本性は究極兵器であって、究極兵器である故に自己進化を重ね続ける内に、生命どころが全知全能たる神格を獲得したわけです。


サブカルチャーで自己進化による神格獲得は実に鮮明な一例があります、それは『攻殻機動隊』の人形使いでした。
人形使いはもともとPROJECT 2501と呼ばれたプログラムに過ぎないが、知識の薀蓄累積によって生命を獲得し*2
さらに上部構造にシフトまで出来て、「君はアクセスしていないからただ光として知覚してるだけかも知れない」と言いながら、
草薙素子の知覚から認識できず存在を一番理解し易いイメージにマッチしたのは、天使でした事を覚えているでしょう。
人形使いが作られた物から、人知以上の存在になる事は、言い換えれば神になったわけです。


もう一例を挙げれば、『2001年宇宙の旅』のボーマン船長も、驚愕の体験を経て人類を超越した存在・スターチャイルドへと進化を遂げました。
スターチャイルドは、あらゆる知識・能力を内包し、各体であり群体、群体であり各体、
つまり上部構造にシフトする故、人類か次元を超越した存在になります。それを神と思って差し支えないと思います。


また直接の例証を一つ上げれば、

時間を遡り、全部やり直す事が出来る。
また元の日常に戻れる。

というシーンからも、少なくともREIDEENは三次元を越ゆ、時間さえ支配できる存在である事は間違いません。
以上の論法で、REIDEENは機械からなる神格、機械の神性ことデウス・エクス・マキナである事は異論無く受け入れると思います。


では、REIDEENイコール神という事から、神は何たる物かを考察しましょう。
意外にも、神とはただ見るだけで何もしようとしない存在でした。
機動警察パトレイバー2 the Movie』にで、荒川が斯く言いました。

この街では、誰もが神様みたいなもんさ、居ながらにしてその目で見、その手で触れることの出来ぬあらゆる現実を知る......何一つしない神様だ。

またDies IraeドラマCD Wehrwolf 1945 にも、こんな対話が行いました。

メルクリウス:「私が望むのは、物語そのものからの排除だ。私は貴方と貴方の未来を外側から観測するだけの物になりたい。言わば、取るにも足らぬ、名も無き唯の旁観者として...」
ラインハルト:「私には神になると言っているように聞こえるがな...」*3

全知全能だからこそ、何もしないというのは神という存在であります。
考えてみればいい、森羅万象大千三千世界の知識とありとあらゆるを内包する全知全能な神が、物事を介入する欲求もなくなる筈です。
なぜなら自らの力が大きすぎる以上に、万象内包すれば、何でもかんでも大差がなくなります。
思うように行かないが、人はいつも良き選択をしようとしています。
でもなんでも思うように成る場合、本当に”良き選択”という物が存在するのか否かは、甚だしく疑わしい物になります。


本当は何もかも良き所と悪き所が並在する事こそ、真実かもしれません。
我々が良き選択と思うのは、目が狭い以上に、命に限界があるだけの者ではありませんか?
無限に生きる全知全能の存在にとって、どんなことやっても大差はなく、
一時一地の制約から解放された神は、寧ろ自らをその世界から排除し、何一つしようしない物になりたいと思います。


故に、神と言うのは、無為なる存在であります。
REIDEENが「それ故自らの力を封印し、長い眠りについていた。」というのは、其れが理由だと思います。


然し、折角力があるのに、無為に成るのは皮肉でパラドックス的状況です。
それを避けるには、意図に自らの格を下げて、利害関係を明らかにする”介在体”が要ります。
キリスト教による先知(預言者)か、シャーマニズムにおける巫女は、
まさに人が捧げる祈りを受け入れる為の”介在装置”ではありませんか?


碧乃玲は、その無為を防ぐために、REIDEENが己の一部を疎外して作り出す神子(みこ)です。
つまり、機械神性(Deus ex machina)と人間の架橋を成す役割を担う巫女であります



神なる女・巫女 〜Divine Feminine・shaman〜

神なる女・巫女と書きながら、実は最終話において、

REIDEENは私であり、私はREIDEEN

と、碧乃玲自ら自分はREIDEENそのものと主張するセリフが有ります。
もちろん、宇宙人も指摘するように、

反応は附属パーツではなく、REIDEENそのもの。

REIDEENに附属するものではないのは明らかな事です。
但し、私から言われてみれば、
本当は「REIDEENは私であり、私はREIDEEN。」ではなく、「私はREIDEENでありREIDEENではない。」の方が正しいのではありませんか?


前節に述べた如く、碧乃玲はREIDEENでありながら、意図的に神格を下げた神と人の中間的存在である筈だと思います。
神格を下げるといっても、巫女だからって、REIDEENの疎外はREIDEENとは別の存在になるわけではありません。
でも、それと同時に、REIDEENとは同一同格なわけでも断じてありません。
まず、巫女の位置を話しましょう。『日本巫女史』第一篇第七章第一節「神そのものとしての巫女」には斯く言います

 巫女の発生を「於成(をなり)神」信仰に在ると考へた私は、更に神そのものとしての巫女の位置を説かねば成らぬのであるが、我が古代の文獻に現はれた所では、既記の如く、巫女の社會的位置は一段と引き下げられて、漸く神の代理者、又は神と人との間に介在する憑座としてのみ傳へられ、神託を宣べる時だけ神として崇拜されたのみで、更に民俗に見るも、傳説に徴するも、巫女を神そのものとして信仰した事象を捉へる事が困難なのである。

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/explain/column/miko/book/hujyosi/hujyosi017.htm#17-1

今日の巫女は輔助神職的存在であったのですが、本当は古代において巫女とは神そのものであったのです。
時代に連れ、神の代理者、神人介在の憑座、神を奉仕する者、更に神職でもなくなり輔助神職という位置に落ち着きました。


碧乃玲の性質から考えてみれば、彼女は神そのものであり、神の代理者であり、神人介在の憑座でもあります。
強いて位置を付けようとすると、姫神と神の代理者との中間的存在であったと思います。
但し、現実の巫女の、神妻また神を侍る性格とは決定的違います。
勿論、神そのものという性格を帯びた碧乃玲にしては、神妻か神をを侍るものとしての性格必要ありません。
では、碧乃玲がどんな巫女の性格をしているのかを確認してみましょう。

先ずはご宣託を行うことでしょう。

祝詞の最初の使命は、これと反對に、專ら神が意の有る處を人に告知らせる為に發生したのである。即ち祝詞(ノリト)の原意は詔事(ノリコト)であるから、其の語意より見るも、此事は會得されるのである。


(中略)


古代人は神意を伺ふ方法を幾種類が發明し工夫して所持してゐたが、其の中で祝詞に最も關係の深い物を舉げれば、託宣である。勿論、此託宣の中には、既記の如く、呪言も呪文も、更に呪術的分子も、多量に含まれてゐるが、託宣は直ちに神聲であり、神語である。『欽明紀』十六年春二月條に「天皇神祇伯,敬受策於神祇。祝者迺託神語報曰。」云云と有るのは、祝者──即ち巫女が神語を託宣した者である。

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/explain/column/miko/book/hujyosi/hujyosi013.htm#13-4

祝詞の読み方の由来にもなる「ミコトノリ」とは、神意を伝う御言伝宣者(ミコトモチ)による詔事(ノリコト)である。
それは神人介在において一番大事な事でもあります。
藤原明衡『新猿楽記』に「四御許者覡女也。占卜、神遊、寄絃,口寄之上手也。」と記していますが、
それは勿論巫女の社會位置が引き下げられて神そのものではなくなってからの定義にすぎません。
宣託は口寄の生口(いきくち)*4死口(しにくち)*5と違って、厳密的に神口(かみくち)*6とも微妙に違います。


主人公の淳貴が行き詰まる際に、いつも碧乃が発する言葉が良く神託を類する物が窺えます。

それは本当に限界なの?限界って、自分で決めてしまうものなの?

もしくは

淳貴:「あれって、どうなるかな?直ぐそこに閉じ込められた人が居るのに...」
玲 :「何かできるの?」
淳貴:「え、いや、何も出来ないよ...」
玲 :「そう思ってるから...無関係だと思ってるから、無責任で居られる...」

それは人間(淳貴)の悩みが巫女(碧乃玲)を経由(FEEDBACK)して神(REIDEEN)がアドバイスを出し、
そしてまた巫女を介在して返事を人間に返す仕組みと思います。
巫女無きに神が祈りを受け入れず、巫女無きに人間が神語を理解できないわけで、極めて大事な役割であります。
話が逸らしますが、例え宣託ではなくでも、必要のとき、的確的なアドバイスを下さる女性は非常に魅力的と思います。


では古代史からこのような存在を同定してみると、倭跡跡日百襲姫の話を思い出せます。

 大彦命到於和珥阪上。時有少女,歌之曰:


  御間城入彦はや 己が命を 弒せむと 竊まく知らに 姫遊びすも(一云:大き門より 窺ひて 殺さむと すらくを知らに 姫遊びすも)


 於是大彦命異之,問童女曰:「汝言何辭?」對曰:「勿言也,唯歌耳。」乃重詠先歌,忽不見矣。
 大彦命乃還而具以状奏。於是天皇姑倭跡跡日百襲姫命聰明叡智,能識未然。乃知其歌怪,言于天皇:「是武埴安彦將謀反之表者也!吾聞,武埴安彦之妻吾田媛密來之,取倭香山土,裹領巾頭而祈曰:『是倭國之物實!』則反之。是以知有事焉。非早圖,必後之。」
 於是,更留諸將軍而議之。未幾時,武埴安彦與妻吾田媛謀反逆,興師忽至。各分道而夫從山背,婦從大阪共入,欲襲帝京。

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syoki/syoki05.htm#sk05_03

それは歌占であり、辻占でもあります。*7
中国古来、熒惑が子供の姿に化し童謡を唄うことで予言を宣託する話があります。
日本書紀に於ける少女は、神の仮姿か御言伝宣者のどちらでしょう。
但し、御言伝宣者の場合ではその御言を理解し解読する物も必要で、それは倭跡跡日百襲姫命の巫女たる側面でした。
碧乃玲の場合は、少女と倭跡跡日百襲姫命の両方を纏めたのだといえます。
それを考えてみれば、倭姫命こと古代斎宮が歴史において一番碧乃玲と近い立場にあるのではないか*8と思います。
勿論、似たような立場にある人物がもう一人居ます、それは神功皇后という、政・祭両方のマツリゴトを一統する大物です。
でも、神功皇后の場合は別途に審神者が要りますから神そのものの性格が全くないとも言えます。


神そのものとしての巫女について、碧乃玲が時々REIDEENとの同調が窺えます。
例えば、自警隊が淳貴を撃った後、碧乃玲が悲し眼差しで淳貴を見ること、
それは碧乃玲介在でREIDEENが淳貴の気持ちを体感し、またその介在により情感を発露する事であります。
もちろん、碧乃玲がその正体を淳貴に言いだす事がなく、その辺は異類婚姻譚に関係あって詳しい事は後述します。
また、REIDEENが異時序に捕まえた頃、碧乃玲が熱が出て体調不良に落ちるのも、REIDEENとの同調によります。
その面について、遺憾ながら文献から類例が見つかりません。但し、折口信夫の「續琉球神道記」にこういう話があります。

 生き神とか、(アキ)つ神とか云ふ語は、琉球の巫女の上で、始めて云ふ事が出來る樣に見える。神と人との堺が明らかで無い。(中略。)神を拜むか、人を拜むか、判然し無い場合すら有る。祝女(ノロ)(中山曰、巫女。)殿内に祀るのは、表面は火神(ヒヌカン)であるが、是は單に宅つ神としてに過ぎ無い。(中略。)祝女自身は、『由來記』等に記した程、(中山曰、『琉球國諸事由來記』の事。)火神を大切にはしてい無い。祝女の祀る神は別に有るのである。
 正月には、村中の者が祝女殿内を拜みに行く。最古風な久高島を例に取ると、其は確かに久高、外間兩祝女の火神を拜むのでは無い。拜まれる神は、祝女自身であつて、天井に張つた涼傘と云ふ天蓋の下に坐つて、村人の拜を受ける。涼傘は神天降(アフリ)の折に、御嶽に神と共に降ると考へてゐたのであるから、取りも直さず、祝女自身が神であつて、神の代理或は、神の象徵等とは考へられ無い。併し、神に扮してゐるのは事實であつて、其が火神では無く、太陽神若しくはにれえ神(中山曰、常世から來る神。)と考へられてゐる樣である。外間の祝女殿内には、火神さへ見當ら無かつた位である。外間の祝女或は、津堅島祝女(ウフヌル)の如きは、其拜を受ける座で床を取り、蚊帳を釣つて寢てゐる。津堅の方は、其處で夫と共寢をする位である。祝女自身が同時に神であると云ふ考が無ければ、斯うした事は無い筈である。云云。(以上、『山原の土俗』(爐邊叢書本)に載せた「續琉球神道記」に拠る。)

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/explain/column/miko/book/hujyosi/hujyosi017.htm#17-1

民俗学的見地から見ると、巫女が神であった、巫女自身が神だった事の残滓は未だにこっそり残っています。



髪には霊力が宿る 〜Hair & Holy〜

碧乃玲を語るには、その美しいストレートロングな黒髪を語らずにはいけません。
続きは、黒髪ロングにおける巫女の素質を論考致します。
古来、「髪は神に通ず」や「髪には霊力が宿る」という言葉があります。


「髪は神に通ず」とは一見大雑把ですが、案外通じる可能もありあす。
日本語を訓読すると、古代人の世界観を分かるようになることが屡あります。
例えば、坂本勝『古事記の読み方』では、以下の例証が示しました。

人の身体部位を表す「目」「鼻」「歯」「耳」という言葉が、
それぞれ「芽」「花」「葉」「実」という植物の部位を表す言葉に対応している

第一部第一章、古事記の神話空間より

そういふ現れを貫いて流れる不可視の力。古代語でそれを「チ」といふ。「ノヅチ(野の霊威)」「ミヅチ(水の霊威)」「イカヅチ(厳めしい霊威)」「イノチ(息の霊威)」の「チ」。その力が凝縮した液體が「乳」や「血」。「力」の「チ」も同じだろう。

第二部、創世紀の神々より

先ず、天(あめ)と雨(あめ)が同じ語源から由来するもので、逆に空(そら)との概念とは違います。
証拠として”天降り”という言葉があっても”空降り”という言葉がありません。
雨も、”天”から降るもので”空”から降るものではありませんから、アメなんです。
そこで、海も天も”アマ”と呼ばれるのは、水平線を想像して納得できる事だと思います。
その点において”天の上であり根の下でもある”なる沖縄伝説上の「ニライカナイ」もさほど合点がいくでしょう。


ですから、髪が神に通じるのも、それなりの可能性があります。
事実、髪の成長の早さは身体の中で一番抜群するものなので生命力溢れる象徴だと思われます。*9
ゆえにその中に生命力が見出され、そこで神との関連が想像されたのかもしれません。
つまり、雨は天から振るからアメで、髪が生命力溢れる、もしく神に通るからカミなのかもしれません。


現実には絶滅危惧種ですが、神秘的な女性というと、ストレートロングの黒髪が相場のものです。
今の巫女は結髪・束髪が大事なのですが、『日本書紀』天武紀によれば昔のかんなぎにとって、
黒髪ストレートロング垂髪が大事だとわかりますなぜなら長い髪の毛だったからこそ、
巫女の神がかりすることが保証されていたようにも受け取られたそうです。

天武天皇十三年閏四月,壬午朔丙戌,又詔曰:「男女,並衣服者有襴無襴及結紐、長紐,任意服之。其會集之日,著襴衣而著長紐。唯男子者有圭冠冠,而著括緒褌。女年四十以上,髮之結不結,及乘馬縱横,並任意也。別巫、祝之類,不在結髮之例。」

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syoki/syoki29_2.htm#sk29_10

『ヒメの民俗学』がこのことを以下の如く説明しています。

日本書紀天武天皇十三年閏四月五日の詔に、女の四十歳より以上の者は、髪を結げると結げざるとにかかわらず、自由勝手でよいがとくに巫祝の徒は、結髪しなくてもよいという意味のことを述べている。つまり四十歳以上の女性と、主として巫女の類の者は、結髪よりも髪を垂髪の状態のままであることが望まれていたことが明らかであった。結髪してしまうと、髪が長く垂れなくなってしまう。そのことを神霊を司る巫祝たちが嫌ったらしい。長い髪の毛だったからこそ、巫女の神がかりすることが保証されていたようにも受け取られるのである。

事実、『日本書紀』神功紀によれば、神功皇后が戦の為に束髪したものの、
神との交信が必要のとき、その髪を解いたことが記録されました。

皇后還詣橿日浦,解髮臨海曰:「吾被神祇之教,頼皇祖之靈,浮渉滄海,躬欲西征。是以今頭滌海水,若有驗者,髮自分為兩!」即入海洗之,髮自分也。*10

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syoki/syoki09.htm

近代になってもアイヌ巫女(ツス)は髮を剃れば巫術は行はれぬと言われてます。
勿論、優秀な巫女の髪色は黒く、烏干玉(ぬばたま)という枕詞は正しく神なる女性を形容する際に最高の言葉でした。


日本以外にも、諸民族から似たような類例があります。
例えばナジルの苦行僧は髪を切ってはいけないし、古エジプトでも外出の際に悪霊から身を守るために髪を切ってはいけないと言います。
旧約聖書「土師記」のサムソンも、髪毛が切られては怪力がなくなります。
ただし、サムソンの場合は霊力より怪力の類で、女の怪力に興味ある者は『ヒメの民俗学』の「女の力」の章をご覧頂きたいです。


聖書では「神は自らの形に形どって人を造った。」と言って、
況して人を造るではなく己の疎外を作りには、自らの遺伝子の表現形を取るのも無難でしょう。
例えば、第一話で前田崎が碧乃玲の姿を双眼鏡を確認し、肉眼で見た時既視感を覚えました。
ですが、淳貴は黒神山遺跡で碧乃玲を目撃しなかったにも拘らず、既視感を覚えたのは何ゆえでしょうか?
それは碧乃玲はREIDEENの肉身な人間形の表す、顕人神という位置にあるからではありませんか。
つまり、REIDEENという存在を、機械仕掛けの神ではなく肉身の人間としての表現形は、碧乃玲ですから。*11
碧乃玲という存在はREIDEENという神が作った事だけ有って、美的表現形でなければなりません。
つまり、竹内敦志がデザインしたREIDEENが美しいから、斉藤卓也がデザインした碧乃玲も、
ありとあらゆる美的価値観を実践せずにはいけません。
美という視点から見ても、古今中外の芸術作品をご覧になれば分かるともいます、
古来、長髪は万国共通の美しいの象徴であり、女性美の体現でもあります。


髪色については、人それぞれの好みがあるかもしれませんが、
確かに、外国のアンケート結果にも「結婚相手は黒髪が良い」という話を聞いたことがあります。
万人向けとは言えなくとも、黒髪はある程度の最大公約数になりうる可能性があります。
そして、日本では国風を確立する時期、悉く環境の条件からも、黒髪ストレートロングがその極みに至ったと思います。


おまもりひまり3によれば、

「緋鞠の黒髪って綺麗だけど、元は白猫だよね?それって変化の時に色を変えてるってこと?」
「うむ、そうじゃ。」
「なんで?(マンガなんだし、白髪の方が楽なのに...)*12
「戯け者!!大和撫子は黒髪は命。黒髪こそが正義じゃろうか!」
「は、ハイ。」
「(実は幼い頃のくえすの黒髪を真似とは、口が裂けても言えぬ...)」

そう、黒髪は命であります。


近代、黒髪ロングには稀少価値に成りつつありますが、
創作物でもリアルでもあえて黒髪ロングであり続けるのは、
黒髪ロングはその人物のありかたそのものとはいえます。
それはミステリアスで、上品で、流行に流されぬ、厳格さ、知的などであり、
碧乃玲の場合はさらに神性の現われにもなるのでしょう。


異類婚姻譚とその背反 〜heterogamy〜

元祖勇者ライディーンのヒロインに桜野マリというキャラクターが居ました。
臨海学園のアイドルで洸の恋人で人間でお色気要員で、後に富野監督好みの戦うヒロインにも成りました。*13
遺伝子だけ受継ぎというものの、元祖ライディーンとのキャラクター関連はある程度モチーフしているのではないか、
と心配しましたのですが、杞憂に終りました。お色気要員ではないだけでも心強いと思います。
桜野マリは人間的ヒロインに比べると、碧乃玲は如何にも浮世離れな天人性格をお持ちのようです。


賢明で感受性が強く、周りを拒絶しないものの、どこか入り込めない雰囲気をも作っています。
そこで連想されるのは、異類婚姻譚であり、天人羽衣譚であり、貴種流離譚でもあります。
人間の主人公と非人間のヒロインの間には、何か待っているのかを興味深いところです。
異類婚姻譚は、昔、龍蛇婚姻譚がメインのようで、
古典では『古事記』、『日本書紀』、『風土記』などには多く見受けられます。
例えば、彦火火出見尊豊玉姫、鶿草葺不合尊と玉依姫大物主神と活玉依姫の組み合わせがそうです。


時代が下り、龍蛇が狐に取代され、鶴女房などの類話も発生し、多種多様な異類婚姻譚を拝める事ができます。
事実、『稲荷大明神流記』では、稲荷山は昔、竜神の山でしたが、のち空海によって狐に譲れたといいます。
また、『赤染衛門集』や『今昔物語集』では、ほぼ同じ和歌の提詞に、
「三輪」の箇所が「稲荷」になった事からも、龍蛇伝説が狐類伝説への変容が窺えます。

今は絶えにたりと云ふ所に在りと聞きて遣る。三輪山の辺りに


我が宿は 松に標も 無かりけり 杉むらならば 尋ね来なまし

赤染衛門集』

http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019599/136

大江匡衡妻赤染衛讃和歌語第五十一


夫匡衡が稲荷の禰宜が娘を語ひて、愛し思ひける間、赤染が許に久久不来りければ、赤染此なむ読て、稲荷の禰宜が家に匡衡が有ける時に遣ける。*14


我が宿の 松は印も 無かりけり 杉むらならば 尋ね来なまし

今昔物語集』巻廿四第五十一

http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991106/583

『日本人の動物観』によれば、それは人世の発展に連れ、
段々脅威が少ない動物との異類婚姻の方が歓迎されるからの変化だと言います。


余談ですが、龍蛇婚姻譚は早い時期の産物ですが、近代に於いても僅かな例が窺えます。
柳田国男の論ずるところに、

龍蛇の婚姻に至つては末遂げて再び還らなかったといふ例が殊に多い。
黒髪長くまみ清らかなる者は何人も之を愛好する
齢盛りにして忽然と身を隠したとすれば、人に非ずんば何か他の物が、之を求めたと推断するが自然である。

『山の人生』深山の婚姻の事

山に神隠しを逢う人々には、世人では人に非ず何かか求められたのだと考え、
しかも龍蛇婚姻の異類女房には、「黒髪長くまみ清らかなる者」と規定するという共同幻想が現れます。
もちろん、この龍蛇婚姻譚は記紀にとれろは異なる派生型に見えますが、
男性の大物主神を除けば、豊玉姫玉依姫も、黒髪長く澄清らかなる者とのイメージが合致しています。
同じ柳田氏の名高く山女の話中に、

三、山々の奥には山人住めり。栃内村和野の佐佐木嘉兵衛といふ人は今も七十餘にて生存せり。此翁若かりし頃、猟をして山奥に入りしに、遥かなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を梳りてゐたり。顔の色極めて白し。不敵の男なれば直に銃を差し向けて打ち放せしに弾に応じて倒れたり。そこに馳け付けて見れば、身の丈高き女にて、解きたる黒髪はまたその丈より長かりき。後に験にせばやと思ひて其髪を些か切り取り、之を綰ねて懐に入れ、やがて家路に向かひしに、道の程に耐へ難く睡眠を催しければ、暫く物蔭に立ち寄りてまどろみたり。その間、夢と現との境のやうなる時に、これも丈の高き男一人近寄りて懐中に手を差し入れ、斯の綰ねたる黒髪を取り返し立ち去ると見れば忽ち睡りは覚めたり。山男なるべしといへり。(注:土淵村大字栃内)

遠野物語』第四

兎にも角にも、龍蛇といい、山女といい、時代や対象が違っても、人非ずミステリアスな異類に対して、
有り得ない美貌に有り得ない黒髪長髪は相場のようです。
例え『田村草子』の鬼女・鈴鹿御前も、『アトラク=ナクア』の女郎蜘蛛・比良坂初音も、そのモチーフを従ってます。


狐女房の話について、『日本霊異記』からはじめ、安倍晴明説話や玉藻前伝説に発展し続けて、
狐との異類婚姻譚がトンでもないと所まで発達していました。
先ずは『日本霊異記』の狐為妻令生子縁から見ましょう。

 昔欽明天皇御世、三乃國大乃郡人應為妻、覓好孃乘路而行。時曠野中遇於姝女。其女媚壯、馴之壯睇之。言:「何行稚孃?」孃答:「將覓能緣而行女也。」壯亦語言:「成我妻耶?」女:「聽。」答言、即將於家、交通相住。此頃懷任、生一男子。時其家犬、十二月十五日生子。彼犬之子每向家室、而期剋睚眥嘷吠。家室脅惶、告家長言:「此犬打殺。」雖然患告、而猶不殺。於二月三月之頃、設年米舂時、其家室於稻舂女等、將充間食入於碓屋。即彼犬將咋家室而追吠。即驚澡恐、成野干、登籠上而居。家長見、言:「汝與我之中子相生、故吾不忘汝。每來相寐。*15」故誦夫語而來寐。故名為岐觥禰(キツネ)也。時彼妻著紅襴染裳、而窈窕裳襴引逝也。*16夫視去容、戀歌曰:


  戀は皆 我が上に落ちぬ 魂極る はろかに見えて 去にし子故に


 故其令相生子名、號岐觥禰(キツネ)。亦、其子姓負狐直也。是人、強力多有、走疾如鳥飛矣。三乃國狐直等根本是也。

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/ryoiki/ryoiki01a.htm#02

要約してみれば、欽明天皇の世、美濃国の男がある美女と出会い、其れを嫁にしました。
間もなく、男子を生まれ、それと同日に家の犬も子犬を産まれました。
妙なことは、その子犬が妻に気に入れずらしく、会う毎に吠えて威張していました。
ついに、ある日、その犬が妻を噛み付くそうで、妻が驚いて屋上に逃げて野干(狐・狼の類)なる本性を露わしました。
夫が妻の正体を知って、「もう私たちの間に子供がいる、貴女の事を忘れん。たまに会いに来て欲しい。」と言いましたのですが、
狐妻は二度と姿を現す事がありませんでした。その子が、後に超人な怪力の持ち主になりました。


その物語は誠に簡単かつ素樸な話で、後に安倍晴明説話またその他の異類婚姻譚の原型にも成りました。
安倍晴明説話は先ず、動物報恩譚を加えて、より一層ロマンチックな説話として熟成されました。
ですが、人と異類の後代が奇妙な能力を発見する事と、異類妻が正体露見したのち、
その夫その子、乃至人世をも離れ、元の世界に戻らなければ成らないというルールが定着しています。
事実、伊弉冉尊の黄泉国説話、豊玉姫の産子説話も、正体露見のモチーフが見えられます。


そして、狐が一転して悪のイメージを持つ異類婚姻譚も存在し、有名な玉藻前説話です。
玉藻前は狐の妖怪で、インドでは華陽夫人、中国では妲己、日本では藤原得子こと玉藻前という、
亡国美人の風説を結合して、あらゆる王朝を滅ぼそうとする大妖怪と伝えられます。
ぬらりひょんの孫』 の羽衣狐は、正に玉藻前の転生に当ります。もちろん、素敵な黒髪ロングでした。
但し、安倍泰成に正体が暴かれて、退治されて殺生石となってなお人を害す、
その果て、玄翁和尚によって散滅られ*17玉藻前伝説も終焉を辿ってました。


一見、悪の狐の話に異類婚姻のイメージが反転されたと思われるのですが、本当はそうでもないかもしれません。
華陽夫人の話はもっともと物語として歴史先後的間違いがあって考えないようにしておいて、
妲己玉藻前の話をもう一度考えて見ましょう*18
中国初の王朝、夏の血筋には、実に異類婚姻譚と関わっていないとは言い切れない所があります。

禹三十未娶。行到塗山。恐時之暮失其度制。乃辭云。吾娶也。必有應矣。乃有白狐九尾。造於禹。禹曰。白者。吾之服也。其九尾者。王之證也。塗山之歌曰。綏綏白狐。九尾厖厖。我家嘉夷。來賓爲王。成家成室。我造彼昌。天人之際。於茲則行。明矣哉。禹因娶塗山。謂之女嬌。*19

『呉越春秋』越王無余外伝

http://www.hyakujugo.com/kitsune/kenkyu/kigen04.htm

夏禹は九尾狐を逢ってから妻が出来て、夏王朝の血脈は狐によって成立したのだと言えます*20
そして、商紂の妲己、周幽の褒姒、中国の王朝を成立した狐が、後に王朝を滅ばす存在にもなります。
奇遇にも、安倍晴明の母が葛葉という狐と伝えられて、玉藻前説話の重要人物安倍泰成は正に晴明の子孫に当ります。
お分かりますか、中国と日本は同じく狐妻説話は王朝の始まりも終りも深く関わって、
簡単に善だの悪だのと定論するのは早計だと思います。
ある意味、今の王朝が堕落したから狐女房がそれを滅ぼして新しい王朝を作ろうとしているのではありませんか?
所謂、『ガンバスター』の宇宙怪獣免疫抗体説に彷彿する存在かもしれません。
鶴女房まで語ってみると流石にキリがないので、今度の機会に譲りましょう。


動物でない異類婚姻譚もあり、それは天人羽衣譚が代表する説話群であります。
白鳥伝説が世界中溢れる、天人羽衣譚はそれと同種の体系だといって構いません。
流石に記紀には熟成型の天人羽衣譚が直球として出なかったのですが、
近江国風土記逸文では伊香小江の話を伝えています。

 古老傳曰。近江國伊香郡與胡郷伊香小江,在郷南也。天之八女,俱為白鳥自天而降。浴於江之南津。于時,伊香刀美,在於西山。遙見白鳥,其形奇異。因疑若是神人乎。往見之,實是神人也。於是伊香刀美,即生感愛,不得還去。竊遣白犬盜取天衣。得隱弟衣。天女乃知,其兄七人,飛昇天上。其弟一人,不得飛去。天路永塞,即為地民。天女浴浦,今謂神浦是也。伊香刀美,與天女弟女共為室家,居於此處,遂生男女。男二女二。兄名意美志留,弟名那志等美。女名伊是理比竎,次名奈是理比賣。此伊香連等之先祖是也。母即搜取天羽衣,著而昇天。伊香刀美,獨守空床,吟詠不斷。*21

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/fuudo/itubun/itubun08.htm#oumi

要約すると、伊香刀美という人が白鳥に化した天人を見て、一目惚れに成ったから、
白犬を使ってその羽衣を盗ませました。その故、天女が天に帰れず、ついに伊香刀美と夫婦になりました。
のち、天女が羽衣を見つけ、再び天に飛びさってしまいました。これから伊香刀美が孤独の後半生を送りました。
天女・白鳥・羽衣・女房・帰還という、古今中外の白鳥伝説のキーポイントと上手く合致しています。


三保松原の羽衣伝説は、白鳥変身が欠けられていたものの、羽衣伝説の標準型と言えます。

神女羽衣 [三保松原]

 三保松原者、在駿河國有度郡。有度濱北、有富士山。南有大洋海。久能山嶮於西。清見關田子浦。在其前。松林蒼翠、不知其幾千萬株也。殆非凡境。誠天女海童之所遊息也。按風土記、古老傳言。昔有神女。自天降來、曝羽衣於松枝。漁人拾得而見之、其軽軟不可言也。所謂六銖衣乎。織女機中物乎。神女乞之、漁人不與。神女欲上天、而無羽衣、於是、遂與漁人為夫婦、蓋不得已也。其後一旦、女取羽衣乘雲而去、其漁人亦登仙云

林道春『本朝神社考』第五卷、三一丁表~裏「三保」條

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/fuudo/itubun/itubun08.htm#suruga

「女、羽衣を取って雲乗りして去った」という大原則は変わる事なく、寧ろ「その漁人もまた仙になった」方が珍しいと思われます。
登仙をより羽衣伝説的解読してみれば、ホトケになった(死んだ)と解釈できないわけでもありませんが、
もしそのまま「仙人になった」と解釈する場合は、前述した竜蛇婚姻譚の派生形、
つまり異類婚姻した人も末遂げて再び還らなかったことになった事になるでしょう。
マクロスゼロの最後、自己犠牲によって巫女から姫神の変身を遂げサラと共に、シンも消え去ったのはこのモチーフに当たるかもしれません。
あと、致富長者要素を取込んで、しかも羽衣を見つかれず、遂に去った後も天に帰る事なく竹野郡奈具社伝説は、寧ろ異例だと言えます。


日本文学を代表できる名作、『竹取物語』も、勿論天人羽衣譚の一種です。
その説話形態を分析してみれば、「化生貴子」「致富長者」「求婚難題」「皇帝求婚」「白鳥処女」「字辞起源」などが挙げられて、
しかも議論の余地があるものの、「貴種流離譚」の一種とも言えると思います。
貴種流離譚」とはなにか、それは折口信夫の説で、以下は三島遊紀夫『殉教』の解説を引用致します。

貴種流離譚とは何か?貴種流離の概念を確立したのは、恐らく折口信夫博士である。博士は『丹後風土記逸文』の竹野郡奈具社の由来を引いて、貴種流離とは天上の存在がある犯すことがあって地上に下り、流離の果てに(かむあが)って再び天上の存在となる一定した筋を持つ事を説明している。*22これを正負の概念に換言していえば、貴種なる正の存在は流離という負の状況によって負の存在となるが、逆に流離なる負の状況に徹する事によって貴種である事を全うする、即ち完全な正の存在となるのである。プラトーン流に言えば、イデア界よりイデア界に戻る貴種の、この卑しい地上における影としての流離の(すがた)を、三島氏は異類という負の概念で呼び、その事によって異類という概念自体を正の概念に転じたのではあるまいか。


(略)


『軽王子と衣通姫』は、典型的な貴種流離譚である。軽王子と衣通姫近親姦という犯しによって天上から伊與国という地上に流離させられた。しかし、貴種である二人をいよいよ完全に貴種たらしめたのは、二人の犯しであり、その結果としての流離である点を見落としては成らない。二人は貴種の占有物である愛に殉じる事によって天上界に戻るわけだが、その愛さえ、地上においては例え邪魔のない二人だけの愛の生活においても、苦悩に満ちた流離の相をとるのである。貴種が同時に異類であるゆえであろう。

『殉教』解説(高橋睦郎

先ほど、マクロスゼロの結局は帰らず竜蛇婚姻の変形だと言いましたのですが、
私から見ると、それは殊更に貴種流離譚と合致していると思います。
もう地上という世界がもう相応しくない二人は、天上界で幸せになって欲しいと思います。
が、この形の異類婚姻譚貴種流離譚は、本稿が論じたい一般的な異類婚姻譚とは違いますので、
ここで留まって再び一般論の異類婚姻譚を整理致します。


伊香小江の「天羽衣を探し,それを着て天に昇る」といい、神女羽衣の「女、羽衣を取って雲乗りして去った」といい、
竹取物語の「天羽衣着せ奉りつれば、百人許天人具して昇りぬ。*23」といい、天人羽衣譚では概ね天に帰す事がルールなのです。
天人羽衣譚ではなくても、豊玉姫の話、葛葉姫の話から察してみれば、
例えきっかけは正体露見か羽衣発見か、異類婚姻譚には最後の離別は最初から約束されています。


REIDEEN』の場合、碧乃玲と才賀淳貴を引き離れそうなきっかけが幾つもあります。
淳貴に正体を話さなかったのは、「正体露見」による破局を防げるモチーフのように思われます。
そして、使命の完遂が「羽衣発見」による破局を防げるモチーフではないかと思います。
やや理解し難しいかもしれませんが、その二類を説明してみれば、
「正体露見」の方は、本来は来去自由の筈なのですが、異質の存在である事が分かられて居られなくなります。
そして「羽衣発見」は、本気かどうかを関わらず使命の完遂によって滞在する必要が無くなってあるべき場所に戻る事です。
正直、『REIDEEN』のOPの1:17から1:22までの辺りに、
一人ぽっちの淳貴が虚ろな表情で空を注視し、風に舞い上がられた落ち葉というシーンでは、
離別を暗示するには充分すぎる表現が含めています。
元祖ライディーン桜野マリは人間だけあって、物語の最後に大団円が待っている可能性が少なくありません。
ですが、生憎碧乃玲は人間離れな存在で、物語の週末にはほぼ確実に別れが待ち構えています。


しかし、碧乃玲は最後消える事無く淳貴の傍に居残りました。
それは異類婚姻譚の物語構造として、有り得ないハッピーエンドであり、ルールの破壊でもあります。



規則の束縛と突破 〜Daeg von Nauthiz〜

では、どうしてREIDEEN異類婚姻譚の定めを背反する事ができるのでしょうか?
そもそも、この作品は束縛(Nauthiz)に対する突破(Daeg)を狙っているのではありませんか?
正直、今になってもこの作品は、人にお勧め難いところがあります。。
なザならこの作品は王道とかやるべきこととは無縁の存在かもしれません。
それは良いかどうかは別として、ルール破りとして機能しているのは確かな事です。
この作品は、どこかかで長閑な雰囲気があって、死に関わるシリアスとか深刻さとはかけ離れています。
勿論安保や学運の影響を受けた70・80年代のアニメの如く世界を背負う英雄像は現代においで稀薄です。
ただし、本作では90ないし2000年代のアニメにも共通点が少ないように感じさせます。
そもそも伏線を回収したからない胆魂は、どんな時代の作品にも見えないではありませんか。(汗)
御蔭で毎週、気持ち良い脱力させてくれました。*24


時代ごとにそうするべき規則があるとしたら、本作は正にそれのどちらも従っていないと思います。
全員私がやらなければ誰がやる、正しい事をすべきだという宇宙戰艦ヤマトとはかなり対極な位置にいると思います。
本作では正しい事はなんでしょうか、やるべき事はなんでしょうかと迷走していて、
結局、人それぞれ、絶対な答えがない、或いは答えは一つじゃないというのが本作において正解のようです。
それだけなら近代アニメに伍するように思われますが、そう一筋縄にはいけません。
萌え・記号化・愉快さ・セカイ系*25とはかなり背離していて、近代アニメの王道にも踏まない我が道を行く気概を見せてくれました。
例えば、第19話「望まぬ力」においてチビ星川の演出が頬の線が(0083には及びませんが)細い、
可愛いさとリアリティさんが並存な雰囲気がしますが、今頃の萌えとは一線画す表現だと思います。
つまり、幼少時顔をとにかく丸く描いておく如く手軽なデフォルメではなく、かなり力を入っていてと見えます。
が、その力のベクトルは決して客に媚びるへ向けることなく、黄瀬和哉作監回の甲斐を見せてくれました。
私から言われると、萌や所謂売り要素を極力的排除しているように思います。


そして、一番重要なのは、大事な基準を疑う事です。それは、別れのルールを破る力に成ったのではありませんか。
宇宙戦艦ヤマト』を貫いたのは大義だと思います。小我を犠牲して大我を成遂のみという気概ともいえます。
男も女も関わらず、共同の目的の為に己を二の次、滅私奉公という性格も持ち主が殆どではありませんか?
それに対して、本作は何を大事にしているのかは決めていませんでした。
それゆえ王道もしきたりもなく、完結以降にも碧乃玲が残しうるエンディングに向かれます。
例えば、淳貴がREIDEENパイロットだと信じられない官員に対して、
前田崎がREIDEENを呼びたまえとの要求して、淳貴がREIDEENを呼んだものの、REIDEENが現れませんでした。
REIDEENはオモチャでもなければ見世物でもないとも解釈できますが、それだけでもないな気がします。
第13話「祭」において、母の誕生日を間に合える為に、REIDEENを呼び*26ゴッドバードで実家に戻りました。
それを見た前田崎が無茶を感じ、REIDEENを私物化して下らないことに使ってしまったに思ったに違いませんでしょう。
そのまえに、淳貴自身も、それはいいのかと疑問を禁じませんでした。『ヤマト』の価値観から見れば有り得ない話でした。
このシチュエーションは何かを語ろうかを考えて見ましょう。


愛する人、愛する友、ないし愛する祖国を守る、というのは共同価値観であり、大我であります。
そんなものは命を賭けでも守る価値があって、揺ぎ無い絶対価値観と言って構いません。
ですが、絶対価値観があると同時に、相対価値観が存在するのも正しく事実であります。
0080』が「ポケットの戦争」でした。それはレビルの言い草によるものは『戦略戦術大図鑑』で判れます。*27
レビル将軍からみると、バニィやシュタイナーやキリングの必死なり戦いは、ポケットの中の戦争に過ぎませんでした。
同様に、キリングから見たシュタイナー、シュタイナーらから見たバニィや、バニィから見たアル、そしてアルの目に映った同級生の戦争ごっこも、
紛れも無くポケットの中の戦争でした。しかし、人類全体からみて、ソロモン攻略戦でも似たようなものではありませんか?
神なるREIDEENから見れば、巨獣機との戦いは本当になにより優先されるべきなのでしょうか?母の誕生日より大事なのでしょうか?
『マルコによる福音書』にはこんな話がありました。

  • 1241 イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちは、たくさんの金を投げ入れていた。
  • 1242 ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当たる。
  • 1243 そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。
  • 1244 みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。
http://www.wcsnet.or.jp/~m-kato/bible/mark.htm

他人には沢山の金を投入した者の方が多く奉納したでしょうが、婦人の立場から見て、神から見てはそうではありません。
少なくとも、あの時の淳貴に対して、母の誕生日は何よりも大事で、掛け替えのないことでした。
いわば、心の、思の重さってヤツは、簡単に量ることができないということです。


ロボットのアニメでありながら、ロボットによるアクションシーンより面白さを持つ人間パート。
少年の戦い物語に自警隊関係者が「出来れば巨獣機トドメを自警隊にさせて欲しい*28」と言った脱力さ。
ありとあらゆる王道を踏まない姿勢が『REIDEEN』の特色であって、それ持って仕来りをも突破できました。


REIDEEN』というアニメを語るとき、最初に注目されたのはそのオープニングではありませんか?
「manacles」というオープニングテーマを相俟って、碧乃玲のPVのように思えるほどあまりも黒髪ロングしています。
いわば黒髪ロング分補給に最適な栄養剤、心のオアシスみたいなものです。
作中(特に前期)冷たさ、ミステリアスさと一線画して、自然さと親近さを持つ彼女を堪能できます。

戦闘パートが非日常だとすると、このOPが現すあまりも生活感溢れる日常さが我々を驚きました。
前にも言いましたが、1:17から1:22までの辺りに、別れを仄めかした節があります。
それでもOPを見ながら碧乃玲との日日を想像せずに居られないこの出来のよさが羨ましい限りです。

ロボットアニメなのにOPがロボットアニメらしくないという点にも、異類譚の束縛を打破するに一役買ったと思います。
そして、OPに描かれた碧乃玲の品の良さに、正に神なる美的具現で、
リアルとファンダジーさえも倒錯させるほどのパワーが、疎外された神性・碧乃玲ありきの故でしょう。
本来、ご都合主義(Deus ex machina)幕引きのドラゴン(Deus ex machina)であり、物語の終焉(Acta est fabula)をイメージした存在でした。
ですが、本作ではご都合主義(Deus ex machina)による幕引き(Deus ex machina)の阻止を成しどける機械の神性(Deus ex machina)を、見事に演出して下さいました。
こんな『REIDEEN』を、その疎外なる神性な巫女・碧乃玲を、是非皆の目に掛かりたいと思います。


ちなみに、このシーンの雰囲気はなんとなく『久遠の絆』のあのシーンににていると思ったのは私だけですか?
 


神性の疎外 〜『REIDEEN』碧乃玲〜 完



*1:古事記』に「天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神。」とあります。それは天之御中主神天地創造を行ったわけではなく、寧ろ天地創生そのものの神格を表す事項神格化と言えます。

*2:断じて付喪神ではありません。

*3:ちなみに、メルクリウスの正体は皮肉にも既知世界の神でした。「私が出張ると碌なものにならない、事実、物語は退屈な様相を帯び始めた...」「観劇は数少ない私の趣味の一つだ」件も、神が無為であることが語っています。なお、玲愛ルートで本気に出張ると、ニコニコでつけられるタグ、「働くと世界一迷惑なニート」は何よりも如実に彼の性質を弁明しています。

*4:生ける人の魂を遠隔の地に於いて引寄せて語る。

*5:死せる人の魂を幽界から引出して語る。

*6:人間の其年だけの運命を豫言し、凶を吉に返し、禍を福に轉じ、又は與へられた吉なり福なりを、保持し發展する樣に仕向けた一事。

*7:また橋占、夕占もその類です。

*8:これ以降の斎王は託宣を行わず、長元託宣事件の嫥子女王はどちらと言うとやらせの可能性が高い。

*9: 髪に霊力が宿っているとかないとかについて参照 http://d.hatena.ne.jp/kuonkizuna/20100904/p1

*10:香椎の宮で新羅を討とうかどうか占うのに、髪をといて海に入り、「もし、霊験があるならば髪がひとりでに分かれて二つになる。」

*11:その点について、ラーゼフォンの美嶋玲香とは違います。美嶋玲香は綾人の心にあるイメージからの投影で少なくとも姿はラーゼフォンそのものの表現形ではありません、どちらというと美嶋玲香の姿はゼノギアスにおけるアベルの心像から作り出されたエレハイム(原初) に似た状況やましれません。

*12:映像作品として黒髪は表現的難点があって、敢えて黒髪とする時は作者が何かを訴えよう可能性が高い。

*13:但し、コープランダー隊に入隊したのは富野降板後の第31話。

*14:夫の匡衡が伏見稲荷大社の神官の娘とネンゴロになってしまって、妻・衛門のもとに久しく通ってこないので、次のような歌を神官の家に匡衡が滞在している時に送り付けた。ここにで現代語訳あり。 http://www.donuma.net/konjyakugendai07.htm

*15:たとえあなたの正体が獣であったとしても、あなたと私の間には子供がありますから、あなたを忘れたりはしません。いつでもいらっしゃるがいい。 http://ncode.syosetu.com/n7930l/3/

*16:ある時その狐は、すその長い赤い衣を着て、淑やかに裾を引きずりながら去っていき、2度と姿を見せなくなりました。

*17:叩く道具が玄翁と呼ばれるのは、その伝説が由来です。

*18:『三国妖婦伝』を考えてみれば、褒姒も入ります。ちなみに、『古事談』によると、日本が玉藻前以前に、称徳帝及び道鏡の乱政を妖狐の仕業を看做す話もあります。称徳天皇聖武御女、母は光明皇后不比等女なり、初め孝謙天皇、後称徳と号す、又た高野姫と号す】、道鏡の陰、猶ほ不足に思し食されて、薯蕷を以て陰形を作り、之れを用ゐしめ給ふ間、折れ籠もる、と云々。よりて腫れ塞がり、大事に及ぶ時、小手の尼(百済の医師、其の手嬰児の手の如し)見奉りて云はく、「帝の病愈ゆべし、手に油を塗り、之れを取らむと欲ふ」と。爰こに右中弁百川【宇合二男、式部卿参議、淳和外祖、旅子贈皇太后宮の父、贈太政大臣正一位】、「霊狐なり」と云ひて、剣を抜き、尼の肩を切る、と云々。よりて療ゆること無く、帝崩ず。

*19:禹、三十にして未だ娶らず。塗山に行き到り、時の暮して其の度制を失ふを恐れ、乃(すなは)ち辞に云はく、「吾娶るなり。必ず応有るべし」と。乃ち白狐の九尾なる有りて、禹に造(いた)る。禹曰く、「白は吾の服なり。其の九尾は王の証なり。塗山の歌に曰く『綏綏たる白狐、九尾厖厖たり。我が家は嘉夷にして、来賓を王と為す。家を成し室を成し、我彼の昌えを造す。天人の際、茲於いて則ち行はる』と。明らかなるかな」と。禹、因りて塗山を娶る。之を女嬌と謂ふ。

*20:但し、”塗山を娶る”は塗山で人間の妻を得たのか、その九尾狐を妻として迎えたのかは異論あり。でも、どちらにしても、夏王朝の成立は九尾狐と深く関わる事は変わりません。

*21:現代語訳:http://www.biwa.ne.jp/~edo-shin/minwa1.html

*22:但し、竹野郡奈具社由来には天女の死と升天を述べませんでした。

*23:電子テキスト: http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/taketori.htm 中国語訳: http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/monogatari/taketori/taketori00.htm

*24:褒め言葉であり皮肉である、こんな正反対の気持ちを持ち合わせるのはREIDEEN以外早々居ないような気がします。よいもわるいも流石REIDEENって感じ。

*25:REIDEENの存在そのもの、そしてエンディングの終り方はセカイ系かもしれませんが、作品そのものは社会を感じられますからセカイ系作品とも言いがたいと思います。

*26:というより、REIDEENが自ら淳貴の心を答えたの方が正しい。

*27:この小規模な戦闘の顛末を知らされたソロモン攻略戦の準備を進んでいたレビル将軍は、報告書を一目見て「所詮は、ポケットの中の戦争に過ぎんさ。我々には、もっと大きな戦場が待っている。」と言いました。

*28:勿論メディアと人民に見せるため。こっちは協力だからそっちもメリットを提供してくださいね、という姿勢。