気仙沼に行きました1 | 中島みゆき(記者)です。

中島みゆき(記者)です。

環境、エネルギー、メディア、建築、アート

日曜日、気仙沼に行きました。別件で仙台に行くはずでしたが、新幹線の中で突然の進路変更。現地滞在4時間という短さでしたが、それでも行ってよかったと思います。震災以来ずっと現地への“出遅れ感”にさいなまれていましたが、これからはむしろ「見続けること」の方が大切だということがわかったからです。

仙台から午後のバスに乗り、気仙沼に着いたのは18時少し前でした。「たぶんこの辺だろう」というところでバスを降り、海のにおいを頼りに低い方へ低い方へと歩きました。準備がなかったこともありますが、先入観なく歩きたい気持ちもありました。

ほどなく、南気仙沼小学校が目に飛び込んできました。校庭には使えなくなった自動車が山積みにされていました。お母さんが買出しや子どもの送り迎えに使っていたであろう軽自動車、お父さんが仕事場に行くのに乗っていたであろう軽トラ…なんてたくさんの暮らしが一瞬にして飲み込まれてしまったのだろうと、立ち尽くす以外にありませんでした。
$中島みゆき(記者)です。

校舎の壁には「みんな仲よく なんでも挑戦 みらいに羽ばたく南っ子」の標語。隣の時計は止まっていました。この小学校は震災当日、水と火で孤立し、児童350人が一夜を過ごした聞きます。どんなに寒く恐ろしかったことか…。現在はお隣の気仙沼小学校の校舎を使っているとのことでしたが、もう一度この校庭に、子どもたちの笑い声の戻る日が来てほしいと、祈らずにはいられません。

さらに歩くと、更地や基礎だけになった建物、家の中のものが積み上げられた家が増えてきました。いわゆる「がれき」なのでしょうが、その一つ一つはみな生活に使っていたもの。一瞬にして使えなくなってしまった「もの」たちが震災前の日常を雄弁に語りかけてくるような気がしました。

そして、幾度となくテレビで見た光景が。この光景に何か言えるだけの知識も言葉も、私の中にはありません。漁協施設、大型ストア、バスターミナル…ここが産業の中心地だったことだけはわかります。あとはただひたすら歩き、日が暮れるまで写真を撮り続けました。
$中島みゆき(記者)です。

今回はとにかく「その場に身を置いてみる」ことだけを目的に据えました。被災地のかかえる現実はあまりに大きすぎて、ちょろっと行って何かが見えるとかできるとか、甘いものではありません。さまざまな事情で現地に入ることができずにいるうちに「今さら」とか「物見遊山のようで」とか……縄跳びの縄に飛び込むハードルは日に日に高くなっていました。でもまず飛び込まないと、現実と自分との距離感を測れない。まず一歩を踏み出す。そこからすべてが始まるのだ、と。

日没前後の2時間半、とにかく歩きました。そしてかつて支局の先輩だったJNN三陸支局の龍崎さんに連絡をとり1時間ほどお話を聞くことができました(突然なのに、ありがとうございました)。「そこにいる」こと、「伝え続ける」ことの意味をこれほどまで大きく感じたことはありません。龍崎さんは日々Facebookで発信されていますが、現地の方々ともやりとりしながら双方向で報道する意義はとても大きいと思います。

本当に駆け足の気仙沼。これで何かわかったとかいう気持ちは全然ありません。私が見たのは広大な被災地のほんの1点にしかすぎません。気仙沼も国道沿いでは量販店やコンビニが営業していました。そこだけ見ると一見日常が戻ったようにも見えますが、現地の方一人ひとりと話せば、目に見えない問題、苦しいこと悲しいこと困っていることがたくさん出てくるはずです。もうすぐ被災半年。とても遅いスタートですが、とにかく最初の一歩を踏み出しました。個別のことは追追書いていきます。

$中島みゆき(記者)です。