矢野村の「下しらべ書出帖」が「童迄も前々ゟ火ノ釜ト唱、又こもり塚トモ呼来り申候」と書くように、安芸郡内では「こもり塚」(籠塚)の名で記載している村が連なっていて、「火ノ釜」よりも一般的であったらしい。
奥海田村は既に見たように「百姓腰林之内ニ七ヶ所御座候」とある。
船越村では現「新宮古墳」が開口した外観が触れられているが、中には入れず寸法などは分からない状態。貫通した現状とは大違い。
籠塚一ヶ所 当村楠木ト申森之内深ク、大石横渡し尤近年追々土草ニ埋リ口穴狭く相成深サ知レ不申候
畑賀村の賀下(影)の「籠塚」は後に「こもり塚古墳群」の呼称に使われる。
入三間一尺 幅三尺五寸 高さ七尺 賀下ト申処ニ有之、山ヲ掘、天井石ニ而御座候、往古人籠之由申伝候
石室の様子から「往古人籠之由」と由来が予想されて「こもり塚」の名が定着したのだろう。とくに畑賀村のこもり塚は『蒲刈志』の「大浦藤波頭山名中峰ニ大ナル穴アリ」という「石洞」*1を説明する際に引き合いに出されるという影響力がある。