フィンチャーはなぜザッカーバーグを選んだのか−『ソーシャル・ネットワーク』感想

ソーシャル・ネットワーク』を横浜ブルク13で観てきました。(Dir. David Fincher, 2010, 米)

フェイスブック創始者マーク・ザッカーバーグについての話。

ザッカーバークの内面は語られず、主に彼を訴えたエドゥアルド・サベリンとウィンクルボス兄弟(富豪の双子息子)の視点から語られます。この映画の原作は、『ジ・アクシデンタル・ビリオネアーズ(偶然の億万長者たち)』*1です。ザッカーバーグ側に取材した『フェイスブック: 若き天才の野望』*2の解説によると、「どちらかと言えば、ザッカーバーグを提訴した元親友で前CFOエドゥアルド・サベリン寄りの内容に見受けられる(ザッカーバーグは取材を拒否した)」そうです。

あくまでもサベリンや双子の兄弟の観点から描かれているのは、ザッカーバーグの人並み外れた天才を際立たせるためでもあり、実際に物語が基づいているのがザッカーバーグではなく彼らの証言だからでもあるのでしょう。

そのため、ザッカーバーグは自分では語らないのに、様々な人の推論の対象、つまり空虚なる中心のように物語内で扱われます。
誰もこの天才が本当に目指していたことは分からない。なぜなら彼は自分が何を欲しているのか劇中決して言わないから。高らかに理想を謳い上げませんし、明確なコンセプトを以って仲間を引っ張っていくことをしないリーダーのように思えます。

しかしこの映画がフィンチャーの創作であることを強く感じさせるのは、冒頭で彼を振るボストン大学のガールフレンドの存在です。
ザッカーバーグの行動の動機は、彼女を中心にしているように見えます。彼女が通うボストン大学にまでフェイスブックを広めようとし、ボストン大学にはボランティアでシステム構築を手伝おうと申し入れます。

しかも物語の最後、呆けた表情のザッカーバーグは彼女のフェイスブック・ページを開き、フレンド申請をします。放心したような表情で更新ボタンを何度も押す彼の顔で映画は終わります。*3

この女性に振られて以来、ザッカーバーグは彼女を見返すことを目的とするようになったと映画の中では描かれています。「マークにとって、女性は『トロフィー』か『敵』のどちらかだった」という脚本家の言葉もあります*4

しかし実際には、ザッカーバーグにはハーバードで知り合った中国系のガールフレンドがいるそうです(映画には同名では出てきませんが、グルーピーの一人だと思われます)*5。そんな彼が、いつまでも昔の彼女に固執するでしょうか。

物語を劇化(dramatize)するために、脚色を行なった旨が最後に断り書きとして出ます。つまり、フィンチャーの創作であることははっきり宣言されています。*6

創作であるからには、どの視点人物を選ぶかで、物語の見え方は大きく変わってきます。

私は、この映画の感情の中心は、エドゥアルドだと思いました。*7

自分ではコーディング(電算処理手順をコンピュータ言語に直すこと。この単語はセリフに頻出する)ができないエドゥアルドは、自分にしかできないやり方で、ザッカーバーグを助けようとします。つまり、資金集めと広告主探しによって。

このエドゥアルド主観からの語り方には、いくつか問題点があると思われます。

1) 巨大なソーシャル・ネットワーキング・サービスを構築したザッカーバーグの理想を、昔の彼女への意趣返しへと矮小化したこと。
2) エドゥアルドが高く評価していた大学内のソサエティに、ザッカーバーグも入りたくてしょうがないと思っていたという推論の上に、物語展開や登場人物の感じ方を構築していること。自分自身が入れなかったフェニックスといった名門フラタニティへのコンプレックスや、友人エドゥアルドが入会資格を得たことへの嫉妬から、ザッカーバーグフェイスブックを拡大し、エドゥアルドとの気持ちの溝を広げていったというのを前提として物語が展開していきます。
3) 「唯一の親友」というのも、エドゥアルドから見た関係性の捉え方である。例えばザッカーバーグにはほかに、ダスティン・モスコヴィッツという親友がいました。彼はハーヴァードの大学寮でザッカーバーグとルームメイトになってからプログラミングを学び始め、設立当初のフェイスブックのサーバーがダウンしないように粘り強くシステムを監視し、のちにザッカーバーグの采配によって6%の株を保有することとなりました。*8この映画はモスコヴィッツを登場はさせますが、内面を描写することはなく、あたかもザッカーバーグには大学でエドゥアルドしか親友がいなかったかのように描きます。

そして、映画の中では、エドゥアルドがザッカーバーグフェイスブックに投資した動機は、ザッカーバーグの親友であり、手助けしたかったからであるということになっています。投資した理由を涙ながらに、「僕は彼の唯一の友人だったから」と語る場面さえあります。しかしザッカーバーグ側に取材した前出の本のなかで、サベリンの動機は、自分や家族がポケットマネーを投資した事業を広告掲載により収益化することだったと説明されています。ところが利用者を増やすことを第一の目的としていたザッカーバーグは当初、広告事業にまったく乗り気ではなく、そのために両者の亀裂が深まっていったと解説されています*9

さて、上記でだらだらと映画とザッカーバーグ側に取材した本の相違点を述べてきたのには、理由があります。デイヴィッド・フィンチャー監督が主人公に選んだ人物が実際にはどういう人間であったのか、ザッカーバーグ側の視点から述べるためです。この人物をフィンチャーがどう描くのかということに興味があり、フィンチャー独自の視点を知るには、フィンチャー以外の目線から見たザッカーバーグ像を頭に入れておきたいと思いました。

私は、ザッカーバーグという人物は、ある種の反逆者として描かれていると思いました。そして、それはこれまでのフィンチャーの作風とも重なるところだと思いました。

フィンチャーはこれまでにも、さまざまな形で反逆行為を描いてきた映画監督です。反逆と言っても、少数のゲリラ集団が国家に対して行なうようなテロリズムではありません。彼が描いてきたのは、個人による日常生活や社会通念や体制への反逆です。

現代人の堕落をミルトンの『失楽園』に出てきた七つの大罪になぞらえ、彼の目に「罪を犯している」風に見えた見知らぬ人々を、残虐なやり方で死に至らしめる『セブン』のジョン・ドゥ。

肉体性を忘れた現代人を裸で殴り合わせ、その痛みによって生きているという感覚を思い出させる『ファイト・クラブ』のタイラー・ダーデンという人物もいました。

もう一つの鍵となるのは、フィンチャーの映画にはなにか(反社会的行為であることが多い)に我を忘れるほど没頭し、細かく綿密な作業を積み重ね、目的を成し遂げようとする人物が出てくることです。

『セブン』のジョン・ドゥは自分の計画とその実行過程を細かく日記に付けていますし、『ゾディアック』で犯人を追う記者(訂正:記者ではなく漫画家でした)は、警察の膨大な捜査資料や、自分が足で稼いだ情報を組み立て、犯人像を割り出そうとします。

ソーシャル・ネットワーク』で描かれるザッカーバーグ像にも、「社会に対する反逆性」と、「なにかに没頭すると我を忘れてしまう」という、フィンチャー的主人公の資質があります。

ザッカーバーグは、彼女に振られた腹いせに、フェイスマッシュというサイトを立ち上げ、女子学生同士の容姿を競い合わせます*10。美醜を問わずアメリカでもっとも一生懸命勉強した男女が入学してくるハーバード大。そんな学力ピラミッドの頂点に立つ社会で、「容姿」というある程度以上は人の努力でどうにもならない点に人々の注意を向けさせたところなど、まさに日常生活へのテロリストです。

ハーバード大生の社会で圧倒的優位に立つウィンクルボス兄弟から「ハーバード・コネクションというSNSのアイディアを盗んでフェイスブックを作った」と訴えられたときには、「お前らが一つでもコードを書いたか?」と反論します*11

また、気になる女の子に彼氏がいるのかどうか気にする友人の一言から「交際ステータス」欄を設けることを思いつき、自室のPCに走っていくなど、自分の人生経験すべてを注ぎこむほどフェイスブックに没頭する姿が見受けられます。

ザッカーバーグは、「若干26歳で資産60億円の天才」ではなく、「人の気持ちなどお構いなく、自分のやりたいことをひたすら追求する人間」として描かれます。フィンチャーは、自らの物語の主人公たる彼の反逆性や偏執性を際立たせるために、エドゥアルドや双子を感情移入できるような人物造形にしたのはないでしょうか。

ザッカーバーグに見られる反逆性と偏執性。これらはフィンチャーにとって、これまでの自分の映画と通底するテーマだったのではないでしょうか。

*1:Ben Mezrick, 2010, Arrow Books Ltd.

The Accidental Billionaires: Sex, Money, Betrayal and the Founding of Facebook

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*2:デビッド・カークパトリック著,滑川海彦・高橋信夫日経BP社, 2011

フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた)

フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた)

*3:この彼女との関係に着目し、『市民ケーン』との類似点を論じたレビュー: くりごはんが嫌い 「なぜ『ソーシャル・ネットワーク』は21世紀の『市民ケーン』と評されたのか?」http://d.hatena.ne.jp/katokitiz/20110119/1295403711

*4:ソーシャル・ネットワーク』の裏側 http://www.newsweekjapan.jp/stories/movie/2011/01/post-1914.php?page=2

*5:彼女については、『フェイスブック: 若き天才の野望』の登場人物紹介に出てきますし、ザッカーバーグとの交際の取り決めの話も出てきます。(Ibid., pp. 253-4)

*6:ちなみに、ザッカーバーグはこの映画について、「服装以外はすべて創作」と言っているそうです。この映画で彼がどう描かれているかを考えると、虚偽として裁判で訴えるのではなく、創作として尊重するとは、懐が深いと思いました。

*7:エドゥアルドとザッカーバーグの関係性に着目したレビュー:スキルズ・トゥ・ペイ・ザ・¥ 「窓に書かれたアルゴリズムhttp://d.hatena.ne.jp/Dirk_Diggler/20110121

*8: Ibid., p.191等参照

*9:「ザ・フェイスブックがきちんと利益を上げる会社にならなければ、サベリンの投資は無駄になってしまう。しかしザッカーバーグは、サイトを運営していく資金さえ確保できれば満足らしかった」(Ibid., pp.80-1)、「パロアルト組のようにザ・フェイスブックに生活のすべてを賭けていないサベリンが「ビジネスのコントロール」を要求するのは理に合わなかった。彼はフルタイムで働くことを拒みながら、事実上ザ・フェイスブックのCEOの地位を要求していた」、「ザッカーバーグとモスコヴィッツに対し、サベリンは「ザ・フェイスブックはトップ・ページにもっと大きなスペースで広告を掲載すべきだ」と強硬に主張した。「とんでもない。そんなことは最悪だとぼくらは思った。サイトを最高の状態に保ってこそ、長期的な収入が確保できるんだとぼくらは考えていた」とモスコヴィッツは言う」(Ibid., p.83)。

*10:実際には男子学生も対象だったようです。(Ibid., p.21)

*11:ちなみにこの映画では"idea"と"coding"という単語が頻出していました。「発想(idea)はあっても、自分でプログラムを書く(coding)能力がなければ、自分でSNSを作ったとは言えない」という考え方が貫かれています。その考えは、ハーバード大学長が双子の訴えを軽く退ける部分にも如実に現れています。