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集める:ガーナ南部における社会的なものと部分的つながり 浜田 明範(関西大学) 目次 1.部分的つながりの有効性 2.集める 3.この社会的なものの分析に向けて 1.部分的つながりの有効性 i マリリン・ストラザーンは、 『部分的つながり』の「木と笛は満ちみちて」 (ストラザーン 2005: 172-198)におい て、部分的つながりという発想の有効性を民族誌的な事例に適応しながら示している。そこで彼女は、 (1)踊りに 用いられる拡張物やそれを立てかける構造物、クラに用いられるカヌーといった「木々」と、うなり木、音を立てる 樹木、太鼓、仮面、家、杭、そして笛といった「笛」を次々とつなげた上で、 (2)それらの事例のつながりは、一 貫したアナロジーを作るための基軸がないために部分的であると述べ、 (3)にもかかわらず、それらの事例から「木 や笛が人格に属すと同時に人格以上のものである」と考えられているという共通の特徴を抉り出し ii、そのうえで、 (4)ひとつひとつの事例が、その特徴の具体化であると同時に相互に変換関係にあると述べている iii。 水平への 転回 笛 イメージ の 行き詰ま り レベルと コンテク スト 人工物は人格であると同時に人格以上である 木々 垂直 表1: 「木と笛は満ちみちて」のカントールの塵 (儀礼で担ぐ)拡張物 (木でできた)構造物 (神話に登場する人間を生み出す)竹 (特定の木から作られる)カヌー (土の中で成長する)ヤム (拡張物と似ている)うなり木 (神話に登場する大きな音をたてる)竹 (風や鳥でざわめく)樹木 (音を出すためにくり抜かれた)割れ目太鼓 (背後から音を響かせる)仮面 (精霊の声や少年を内側から発する)家 (割れ目太鼓と同じ模様を施された)カヌー (男たちの魂を開放するとともに胎児として放たれる)笛 (成長と豊饒さをもたらす)笛 (少年を成長させる女の精霊について知るための)笛 (豚の過去のやり取りと将来の約束を暗示する)杭 ここで、部分的つながりという発想を用いることの有効性は、少なくとも4つある。 (1)ひとつの軸(例えば、 笛)のみに注目するだけでは集められない事例を様々なつながりを通じて集め、射程に収めること、 (2)つながり を作るための軸が次から次へと変化しうることを明確にすること、 (3)そうして集められた一見して無関係に見え る諸事例に共通する特徴を見出すこと、 (4)取り扱われている事例が相互変換(包含)関係にあることを示すこと、 の4つである。 しかし、ここでストラザーンが行っている作業に違和感を覚える人も少なくないだろう。ストラザーンは、あまり にも広大な地域から「手当たり次第に事例を引き出し」 (p. 183)ているように見える。このようなストラザーンの記 述から学ぶことは何一つないと考える人がいても不思議ではない。人類学者は、あっちこっちの文献から事例を引き 出してきて並べるのではなく、ひとつひとつの事例をより丁寧に描き出すべきだというのである。 そこまで批判的ではなくても、ストラザーンのように文献から縦横無尽に事例を引き出し、広範囲の地域を射程に 1 収める研究を志す人類学者はそれほど多くはないだろう。ストラザーンほど鮮やかに無関係に見える事例同士のつな がりを描き出せる技量を持った者もまた、多くはないだろう。ならば、やはりストラザーンは「使えない」思想家な のだろうか。私たちの本業とは無関係な存在として、一部の理論好きな人が嗜む趣味や娯楽の対象として受容してお けばいいのだろうか。そうではない、というのが、ここでの主張である。ストラザーンほど広い地域を射程に収めな くとも、それほど奇抜なつながりを発見しなくても、部分的つながりという発想は発見を生み出すツールとして価値 を持っている。 この点を明らかにするために、 本発表では、 ストラザーンが行った作業を部分的に模倣することで、 すなわち、 (1) ガーナ南部の農村地帯におけるいくつかの実践のスナップショットを、 (2)部分的につなげられたものとして、か つ、相互に変換・包含関係にあるものとして集めたうえで、 (3)それらの事例に共通した特徴をあぶりだすという 作業を行う iv。 2.集める まず注目したいのは、コレクション collection と呼ばれる実践である。これは、結婚式や徒弟制の免許皆伝、回復 祝い、出産祝いといったパーティー party の最初に行われるもので、大音量で音楽がかかる中、参加者が一列になっ て踊りながら更新し、広場の真ん中にあるタライに少額の紙幣を入れていくというものである。集められたカネはパ ーティーの主役(=お祝いされる人)への贈与となる。 当該地域で、コレクションと呼ばれる実践はもうひとつある。それは、教会で行われる。これも音楽が流れる中を 列席者が一列になって踊りながら行進し、説教台の前に作られた広場に作られた器の中に少額の紙幣を入れていく実 践を指す。コレクションという英単語が教会における献金を意味することや、コレクションに該当する現地語が流通 していないことから、パーティーにおけるコレクションは、この教会におけるコレクションから借用したものと推測 することができる(パーティーでのコレクション⇒教会でのコレクション) 。 教会でカネを集める機会はコレクションだけではない。多くの教会では、メンバーは、日曜礼拝の際に専用のメモ 帳に紙幣を挟んで持参し、献金を行う。このときの献金の額は、コレクションとは異なり、メンバーによって大きく 。また、カネは、会計役のもとに集められ、メンバーの持つメモ帳に拠出額 異なる(拠出者間の差異化が行われる) が正確に記入される。これらの機会に集められたカネは、教会の運営資金として建物の修繕維持費に使用したり、牧 師に対する謝礼として使われたり、老人に対する贈与にされたり、上納されたりする v。つまり、教会でのコレクシ ョンや献金は、主役に贈与されるパーティーにおけるコレクションとは異なり、 「集めて配る」再分配の形式をとっ ている(教会でのコレクション⇒教会でのその他の再分配) 。 とはいえ、教会で集める実践のすべてが、再分配の形式を備えているわけではない。例えば、教会のメンバーシッ プを基盤として、病者や寡婦に行われるチレオド(kyere odo 愛を教える)と呼ばれる実践は、メンバーが収穫物や調 味料や貨幣を教会に持ち寄ったうえで、二列になって讃美歌を歌いながら町中を受け手の家まで練り歩き、贈与財を 庭に積み上げる。この際、チレオドに誰が参加しているのかは記録につけられることが多いが、拠出の量が記録され ることはない。ここで、この実践が「愛を教える」と表現されることに注目しておきたい。この愛は、神の愛ではな く、与え手の受け手に対する親愛の情だと説明される。ここから、贈与は、個々人の親愛の情の表出として理解され ていると考えることができよう(教会での再分配⇒教会での贈与) 。 教会から離れて、パーティーに戻ろう。パーティーでカネを集める機会はコレクションだけではない。むしろ、パ ーティーではひっきりなしにカネが集められ続ける。人々の話を総合すると、パーティーでより多くのカネを集める ことができるかどうかには、二つの条件がある。まず、贈与の受け手であるパーティーの主役は、日ごろから他のパ ーティーに参加し、カネを拠出しておく必要がある。これは、パーティーにおけるカネの拠出が、 「集める」という 特徴を持っているにもかかわらず、返礼を前提とする互酬的な性質を持っていることを意味している。そして、多く のカネを集められるかを左右するもうひとつの条件が、パーティーを取り仕切る司会者の腕である(教会での贈与⇒ パーティーでの贈与) 。 パーティーにおいて、司会者は様々な権利を逆オークションの形で「売る tɔn」 。例えば、あらかじめ会場に飾り 付けられている風船を割る(ハンカチを受け手に投げつける etc.)権利を、20 セディ(約 9US ドル)で売ると宣言 する。それを聞いた観衆は、席を「立ち sɔre」広場の中央に進み出て、司会の助手が持っているタライに 20 セディ 2 の紙幣を入れてから、針を受け取って風船を割る。20 セディで「立つ」人がいなくなると、司会は、10 セディ、5 セディ、2 セディ、1 セディというふうにすべての風船が割られるまで、金額を段階的に下げていく。 この実践は、司会者が「売る」という表現が用いられていることからも分かるように、権利の売買、すなわち交換 の形式をとっている。だが、なぜカネを払ってまで風船を割る権利を買うのか。それは、カネを拠出したことを受け 手や観衆たちに知らしめるためである。パーティーで多くのカネを集めるためには、普段からパーティーに参加して おく必要があると先に述べた。別の言い方をするならば、パーティーの場で受け手に多くのカネを拠出しているとい うこと、すなわち「愛」を持っているということを受け手(やその親族や友人)に印象付けておく必要がある。これ を達成するために、同じ額の拠出で自分の存在をより強く印象付けるために、人々は工夫を凝らす。いろいろな機会 に何度も立ったり、ひとつの機会に連続で拠出したり(風船を 10 個連続で割ったり) 、他の拠出者のなかに埋没しな いように立つ人の少ない高額の時間帯に立ったりする。こうした工夫が重視されるのは、 「売る」/「立つ」におけ るカネの拠出は、人々の記憶以外には痕跡を留めることのないうつろいやすい形式の拠出方法だからである(贈与に 内包された交換) 。 逆に言えば、パーティーに来ていることが記憶に残るのであれば、必ずしもカネを拠出しなくてもよいのかもしれ ない。そのような実践は、 「助ける bua」と呼ばれる。これはとりわけ主役と同じアソシエーションに所属している 者や特に親しい親族や友人によって行われる。具体的には、早朝に集まって広場の飾りつけ(風船を含ませて飾る etc.)や椅子の準備を行ったり、遠方からパーティーに訪れる来客のために炊き出しを行ったり、パーティーが始ま れば、お揃いの服を着てパーティーの場に集まって、 (カネを拠出することもあるだろうが)椅子に座り、合間合間 vi(カネの拠出⇒労働の拠出) 。 に司会者の求めに応じて踊るのである 他方で、誰がいくらのカネを拠出したのかが正確に記録される形式もある。それが、広場の中央ではなく、端で行 われる拠出である。パーティー会場の端には、ステンレス製の蓋付き鍋が置かれた机があり、そこでは主役(=受け 手)の親族が集められたカネを厳重に管理している。コレクションや権利の売買で集められたカネは、タライごと頻 繁にここに運ばれる。パーティーには、連続で拠出を行うために小額紙幣を大量に欲しがる人々がおり、それらの人 はこの机で両替をする。また、この机には必ずノートとペンが置かれており、司会によるパーティーの進行とは無関 係にカネを拠出したい人に備えている。そのような人が来た場合、カネを管理している親族は必ず拠出者の名前と金 額をノートに書き留める。この「端っこでのカネの拠出」は、パーティー会場にいる人々に自分の存在を印象付ける ことにはつながらないが、ノートに記録を付けられることで、自分がどれだけの貢献を行ったのか、長期にわたって 確認可能な形で受け手に確実に貢献を意識させることができる(記憶される拠出⇒記録される拠出) 。 この、 「衆目のなかでの記録されない拠出」と「端っこでの記録をとられる拠出」という対立は、教会におけるコ レクションと献金の対立とも類比できる。また、 「端っこでの記録をとられる拠出」というのは、葬式において支配 的なカネの拠出方法でもある(パーティーにおける記録される拠出⇒教会における記録される拠出⇒葬式における記 録される拠出) 。 パーティーにおいて司会者が売るのは権利だけではない。文字通り、様々な物品も売られる。物品は風船を売る権 利などと同じように逆オークションで売られていくが、布と交互に重ねられて机に置かれているために、買ってみる までは何が売られているのかは分からない。売られるのは、トマトの缶詰や生理用品、食用油やジュースといった安 価なものが大半だが、たまに比較的高価なシャンパンなどが含まれている。この物品の売買は、風船を割る権利の売 買とは同じ形式で行われているものの、少し異なるものであることに注意してもいいだろう。すなわち、入手できる ものが分からない状態で物品を買うことは、賭けの要素を持っており、また、そうであるが故に、カネを贈与として ではなく交換として拠出するという側面が強い。言うなれば、主役はたわいもない賭け事の胴元になることによって カネを多く集めようとしているのである(権利の売買⇒物品の売買) 。 同時に、物品の売買が、カネを払うことによって布を取り払い、その下に隠されているものを露わにするという形 式を備えていることにも注目したい。この形式は、パーティーの別の場面においても採用されることがある。結婚式 や免許皆伝のパーティーなどで、主役となる女性は、お色直しの際に布を何重にも被せられて登場する。このとき、 司会は観衆を煽りながら、布を取り去る権利を一枚一枚売っていく。物品の売買が、賭けを組み込むことによってよ り多くのカネを集めようとする試みだとすれば、 「布の取り去り」は隠されているものを可視化すること、目に見え ないものを目に見えるようにすることによって満たされる好奇心を糧にカネを集める試みである。このとき、観衆は 3 他の場面よりも一体感を持つことがある。風船を割る際には、連続で割る回数を競うことで競覇的な側面が強調され る(前面に出される)のに対し、布を取り去るときには共にカネを出すことにより目的に近づくことができる。もち ろん、ここでの競覇性と共同性は(親愛の情の表出とともに)相互に排他的というよりは、相互包含的であり、一方 が前面に出されると他方が覆い隠される(eclipse)ようなものである(利己性⇒協働性、隠された物品の露出⇒隠さ れた人間の露出) 。 しかし、パーティーでカネを集めるために利用されるのは、物欲や好奇心といった参加者の欲望だけではない。他 の人への親愛の情もパーティーでは利用される。これは、人気投票という形で行われる。投票の対象になるのは、主 役の親族や高額の拠出をした者で、司会者によって 10 人程度が広場の真ん中に連れ出される。そして、彼/女らが 広場の真ん中を離れて椅子に座るためには、例えば 5 セディ出す人が 20 人必要だと宣言する。このとき、カネを拠 出する者は、最終的にカネを受け取るパーティーの主役だけでなく、人気投票の対象となっている者に対する情も揺 さぶられることになる。親交のある者がいつまでも広場の真ん中に立たされたままでもいいのか。彼/女が誰も助け る人のない孤独な人間だと思われてもいいのか。ここでカネを拠出して助けてあげるべきではないのか、というので ある(利己的な欲望の利用⇒互酬の利用) 。 3.この社会的なものの分析に向けて ストラザーンの手法を部分的に模倣し、異なる特徴を持つ実践をこうして並べることによって、何がわかるだろう か。 (パーティーでの)コレクション (教会での)コレクション (教会での)献金 (教会を基盤とする)チレオド (愛を教える) (パーティーでの)権利の売買 (パーティーでの)助ける(準備・ ダンス etc.) (パーティーでの)封筒 (葬式における)拠出 (パーティーでの)物品の売買 (パーティーでの)人気投票 (広場を作る)共同労働 表2:ガーナ南部における「集める」のセリー 集める 拠出の 集める 音楽 隊列 もの 平等性 場所 ○ 一列 貨幣 ○ 中央 ○ 一列 貨幣 ○ 中央 × なし 貨幣 × 端 ものと ○ 二列 〇 中央 貨幣 × なし 貨幣 × 中央 記録の 有無 × × 人・量 行われる 場所 広場 教会 教会 贈与 再分配 再分配 人 教会 贈与 × 広場 交換 形式 〇 なし 労力 × 中央 × 広場 贈与 × × × × × なし なし なし なし なし 貨幣 貨幣 貨幣 貨幣 労力 × × × × 〇 端 端 中央 中央 ― 人・量 人・量 × × 人 広場 広場 広場 広場 ― 贈与 贈与 交換 贈与 再分配 まず、これらの実践は、上記のような多様性を持っているにも関わらず、 「一人ではできないことをみんなで何か を集めることによって達成する」という、共通の特徴を持っている vii。これを、ガーナ南部における「社会的なもの」 の具体化であり表現であると考えることもできるだろう。ここでは、 「社会的なもの」は、1対1の形式をとる贈与 や匿名性と交換の形式が前面に出される保険ではなく、特定の具体的な場所に集まって何かを「集める」ことによっ て達成されている。このことは、パーティーが行われる広場が、共同労働 oman adwuma と呼ばれる協働によって整 備されたことによって可能になっており、その場所そのものによって表現されている(浜田 2012) 。 次に指摘しておきたいのは、ここで取り扱った実践は、贈与・再分配・交換といった経済プロセスの形式を横断す るものである。カネを集める際に、それが贈与となるのか再分配となるのかにはそれほど大きな違いはない。教会に おける再分配の一部を構成するコレクションは、パーティーにそのまま流用されている。また、これまで述べてきた パーティーにおける集金方法は、そのままそっくり小王を中心とする再分配における集金でも用いられる。 4 また、カネを集めるためには、贈与と交換の二つの形式がともに用いられていた。 「集める」という実践は、贈与・ viii 再分配・交換によって達成されるものでもあると同時に、贈与と再分配(と交換) を達成するためのものでもある。 このような状況で、贈与・再分配・交換を区別してそのどれかひとつに焦点を当てることはそれほど有効ではない。 むしろ、集めるという実践の部分的なつながりに注目することによって、贈与と再分配と交換がどのように組み合わ さりながら、当該地域の経済が生成しているのかを明らかにすることが可能になるのである ix。 さらに、集めるという実践に注目することによって、境界性がぼやけるのは、贈与・再分配・交換といった経済プ ロセスの形式の差異だけではない。それは同時に、親愛の情(利他性)と欲望(利己性)の差異や共同性や競覇性の 差異をも曖昧にする。観衆がカネを拠出する際、それは親愛の情の表現であると同時に顕示欲や物欲や好奇心を満た すためでもある。カネの拠出は、他の者よりも親愛の情を強く持っていることを示すための競覇的なものであると同 時に、そうであるからこそ、パーティーを盛り上げ、受け手がいかに人々に愛されているのかを共同で可視化する実 践ともなる。ここでは、一つの実践の動機がどこにあるのかを確定することは難しい。にもかかわらず、それぞれの 集め方は、特定の動機や形式を前面に出し、他のそれを覆い隠すのである。 「集める」という実践に注目することには更なる可能性がある。それは、送り手・貢献の量・受け手をそれぞれに 曖昧化する効果ももちうるし、ガーナ南部の社会性の基盤となり、独特の形式の「社会的なもの」を形作るものでも ある。それらの残された論点ついては、また別のところで述べることにしよう。 参照文献 浜田 明範 2012 「提喩的想像の多層性:ガーナ南部における「われわれ」の生成」風間計博、中野麻衣子、山口裕子、吉田匡興(編) 『共在の論理と倫理:家族・民・まなざしの人類学』 、pp51-71、はる書房。 大杉 高司 2015 「 『部分的つながり』というサイボーグ:部分的な訳者あとがき」ストラザーン著『部分的つながり』 、pp. 333-349。 ポランニー、カール 2003 『経済の文明史』玉野井芳郎・平野健一郎ら訳、ちくま学芸文庫。 ストラザーン、マリリン 2015(2004) 『部分的つながり』 、大杉高司他訳、水声社。 i 本研究は、JSPS 科研費 10J01823, 25884095, 15H05387, 15H05174, 08J03437 の助成を受けて可能になった。また、国立民族 学博物館の共同研究(若手) 「再分配を通じた集団の生成に関する比較民族誌的研究――手続きと多層性に注目して」 (2013.10-2016.3)のメンバーからは研究会を通じて多くの示唆を受けた。ここにすべての方の名前を挙げることはできな いが、プランカシの人々の協力と友情が本研究を可能にしてくれた。ここに記して謝意を示したい。 ii 一貫したアナロジーを作るための基軸がないこととすべての事例に共通する特徴を指摘できることは、矛盾している。そ のような認識を打破することが、ストラザーンが目指していたことのひとつであった。 「サイボーグは単数でも複数でもな く、一でも多でもなく、お互いに同形ではないがゆえに比較できない部分と部分を結合するつながりの岐路である。単一 の存在、あるいは複数の存在からなるひとつの多数体として、全体論的あるいはアトミズム的にアプローチしてはならな い」 (p. 163) 。大杉による指摘(2015)とは理解が少し異なるかもしれないが、ここでストラザーンが描き出している事例 群は、多配列的であると同時に単配列的でもある何か、あるいは、多配列的でも単配列的でもない何かだと言えるだろう。 iii 少し長くなるが、当該部分を引用しておこう。 「木と笛は、西洋人の目には、人格から本来的に切り離されたもの、さら にいえば個別の人格の身体から本来的に切り離されたもののように見える。しかし、木と笛に実際にかかわるメラネシア 人が繰り返し語っているように思われるのは、私たちがその内側を見るか外側を見るかにかかわらず、像であれ、カヌー であれ、杭であれ何であれ、それらが人格に属すと同時に人格以上のものだということである。それらは、人がつくりだ す諸関係にとってなくてはならない拡張物であるという意味で「道具」なのだが、それだけでなく、肉体としての身体が、 諸関係によって構成されているのと同じように、そうした道具によっても構成されていると理解されているのである。そ れらの関係(道具)は、身体に内在するものとして現れる。それらは〔目鼻と同じく〕身体上の特徴である。事例のそれ ぞれが、この言明の全体的な比喩=形象化を提示しているのだ」 (ストラザーン 2015: 198) 。 iv 率直に言って、当初、この作業には、ストラザーンのやり口を単に真似してみるという以上の意義をあまり感じていな かった。フィールドについて深く知るためというよりは、ストラザーンについて知るための習作であると考えていた。し 5 かし、実際に作業を行ってみることで、私は、ガーナ南部においては、教会・パーティー・葬式・アソシエーション・小 王国は相互に変換されたものであり、贈与・再分配・交換は相互包含関係にあり、利他性と利己性、競覇性と共同性は識 別不可能でありながら部分的に前面化したり覆い隠されたりするものであると、理解するようになった。これは、 (本家で あるストラザーンの達成に比べれば)何でもないことかもしれないが、私にとってはそれでも十分に驚くべきことであっ た。時間の都合上、すべてを話すことはできないが、その一端をお示ししたい。 v このことから、 (1)コレクションや献金という実践と、 (2)それが行われる場所である教会、及び(3)制度としての 教会の三者が互いが互いを支えあい、互いが互いを彫琢する相互包含関係にあると指摘できる。 vi 特に、先述したコレクションは、アソシエーションの存在をアピールする格好の場となる。この意味で、踊りながらカネ を拠出するコレクションは、パーティー全体の進行を先取り prefigure(ストラザーン 2015: pp.201-3, 208-9)するものであ る。この実践が、教会から借用されているものと推測されるという事実は、示唆に富んでいる。 vii このように書くと、やはりそれでも、ここで取り扱った事例はすべて「集める」という一貫した基軸に沿っているのだ から、部分的つながりとは呼べないのではないかという疑問が出てくるかもしれない。この点については、脚注ⅱなどで もすでに答えている(そもそもストラザーンの部分的つながりにも、すべての事例に共通する特徴が存在しており、また、 彼女は繰り返し一か多のどちらかで語るなと警告している、これは多元主義ではなくポスト多元主義なのだ)が、改めて 別の角度から回答しておこう。 そもそも、ストラザーンがやっているからそれでいいということにはならない、という批判はありうる。一でも多でも あるというのは、想像しづらい。ストラザーンは、このイメージを説明するためにサイボーグとともに、フラクタルを用 いている。ストラザーンによるフラクタルの引用については、スケールを変えても複雑さの量は変わらないという、反復 性を主張するためだったという理解が一般的かもしれない。私はそれに加えて、ここで、フラクタルが一次元(つながり) と二次元(文化)を媒介するものであることにも注目しておきたい。ストラザーンがフラクタルを最初に説明する際に引 用したのは、グリックによる次の一文である。 「単純でユークリッド的な一次元の線はまったく空間を埋めることはないが、 無限の長さが有限の領域にぎゅうづめになっているコッホ曲線の輪郭は、たしかに空間を埋める。それは線以上なのに面 には足りなく、一次元以上なのに二次元の形式には足りない」 (p. 35-36 より孫引き) 。部分的つながりの連なりは、線以上 のものとして空間を埋めうる。ある空間(の文化)について語る際に、面の発想に依拠する必要はない。 また別の説明を加えておこう。私が、ここで注目した「集める」というスケールは、最終的なものではない。例えば、 「貨 幣を用いたやり取り」という軸に沿って事例を並べてみることもできるかもしれないし、時間のスケールを重視し、集め る前の実践や集めた後の実践と並べてもいいのかもしれない。しかし、その際には、ここで取り扱っていない実践のいく つかが付け加えられ、ここで取り上げた実践のいくつかがこぼれ落ちることになるだろう。 このとき、どのスケールを採用することがより発見的な効果を生むのか、ということが研究者の側の選択の問題として 現れるかもしれない。私は、パーティーや教会といったひとつの場でのカネを「集める」という目的が、複数の異なる形 式の「集める」実践によって構成されていることともに、それらの形式が異なる場をまたぐ形で共有されていることを示 そうとした。前者の目的としての「集める」は、ストラザーンや私が行っている事例を「集める」こと(受け手が集める) に似ており、後者の様々な形式での「集める」は本源的に集合的な実践(送り手が集まる)であるという点で前者とは異 なっている。一口に「集める」と言っても、様々なレベルの差異が存在していることに留意されたい(それでもなお、こ の発表にはストラザーンほどの驚きが含まれていないというのであれば、それは意図されたものであると言っておこう。 この発表の目的は、ストラザーンを神にするためではなく、彼女の分析手法を通俗化することにあるからである。恐れる 必要はない。この程度の発表であってもストラザーンを使っていい) 。 しかし、むしろ強調しておきたいのは、 「集める」ということに注目するという発想自体が、部分的に事例の羅列によっ て方向づけられたものだということである。私は、ここで示した連続性を考える際に、 「時空上の近接性」 (p. 163)に配慮 した。つまり、どのスケールがより「人々が自身の生を提示するやり方のなかにすでに現れている照らし合わせ」 (p. 20) に近いのかにより注意を払った。 そしてもちろん、この一覧表も最終的なものではなく、更なる彫琢に開かれている。この一覧表に、選挙における投票 や労働交換、職業組合や健康保険にまつわる種々の実践を付け加えてもいいだろう。そうすることによって、この発表と は異なる部分的つながりが異なる発見を伴って生成することになる。それについては、またいずれどこか別のところで論 じることにしよう。 viii 紙面の都合上割愛するが、カネを集めるのはそれを用いて特定の何かを購入するためである。実際、パーティーの開催 には様々な支出が伴い、必ずしも主役の手元に出費上の収入が残るとは限らない。 ix ポランニーが、互酬、再分配、交換を定式化した際に当該地域の実体的な経済はそれらの配分によって構成されていると 指摘していたことを思い出して欲しい(ポランニー 2003: 383-384) 。集めるという実践への注目は、これを具体的に分析す るための手法にもなりうる。 6