(※うっすらとネタバレが入ります、注意!)

『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』、身の回りで大好評です。
しかし、話の作りの丁寧さや映像の面白さなどは認めた上で、「見てもなんだかピンとこなかった」という意見が編集部内でもあがり、ぱっくり意見が割れました。
ふむ?

賛否両論がある映画は色々面白い、という理論で考えます。
ピンとこなかった人側は、「盛り上がる部分がわからない」。そもそも「ネタバレってなんのこと?」と言うところからの話。
あっ、そうなるんだ?! ネタバレしかないと思ったけどな?!

話していて感じたのは、『まどか』のキャラクターのことを考えて見ていた人と、「映画作品」として俯瞰して見ている人で、この映画の評価は180度変わる、ということです。

●ファンの目線は親目線
ぼくは『まどか』のさやかちゃんが大好きで、物語に泣き、同人誌を作り、買い集め、いうなれば3年間、鎮魂作業に打ち込んできた人間です。
だから、さやかが出てきて、今までのどうしようもない失恋や濁っちゃったソウルジェムの経験を踏まえた上で、成長したとなると、さやかったら……本当に大きくなって!と、愛しくてしかたなくなっちゃう。

まどか、ほむら、杏子、さやか、マミさん、キュゥべえ、などなど。
それぞれのキャラに思い入れのある人なら、仕草一つ一つがものすごく丁寧に作られていることに、グッとくる。さやかは特に色々な理由で顕著です。贔屓じゃなくてほんとに。

実はこの挙動一つ一つこそが、今作の最大の「ネタバレ」に当たる部分だとぼくは思うのです。
もちろん物語的にでっかい仕掛けもあります。
「わけがわからないよ」でいい。
ですが、二回三回見に行く人はそこよりも、ディティールやキャラクターを見ているはず。
さやかなんてどうよ、あそことかあそことか、主人公じゃんまるで。(←こういうのがネタバレなのです)
杏子も今回ものすごくいい。あんなに幸せそうに笑ってさ。

『まどか』ファンの間で、「杏子×さやか」通称・杏さやと呼ばれるジャンルがあります。

これは公式も早い段階から意識していたようで、BDには二人の歌が収録されるほどです。
悲惨なラストをたどった二人の少女の、愛(それは恋かどうかもわからない)を外側から描くことは、死んでしまった少女への紛れも無い鎮魂歌でした。

「こうあってほしい」
二次創作の儚い願いの塊を、公式が理解し汲み取っています。
それが120%つめ込まれた作品です。見たかったものが見られる。

新房 さやかも放送後に、ファンのみなさんがキャラクターをふくらませてくれました。
みんなでつくりあげたキャラクターなんじゃないかと思います。
(パンフレットより)

これこそが今回の映画のあり方。
だからキャラに思い入れのある人は、一秒一秒が全部ネタバレなんですよ。一個話すと芋づる式にネタバレネタバレ。
誰が何をした、っていう一つ一つが会話のネタになる。それを話して共有したいから、何も言わずに「見に行って!」ってなる。

そりゃあ、夢のようですよ。
こっちは3年間鎮魂してきたんだもの。

●単純な映画作品として
ところが、キャラに思い入れがなければこれらの感覚は0になります。
となると、完全に物語構造とイヌカレー空間の珍妙な映像作品を見ているような感覚になるはず。
少女がオブジェクトになってしまったら、見ているのはロシアやチェコのシュールレアリスムな人形アニメーションと同じ箱に入ります。
そりゃあ、「すごい」かもしれないけど、「面白い」「楽しい」ではない。

むしろその感覚だったら、平日の昼間に劇場が埋まるのがおかしいくらい。

実際、あの空間の正体のSF的設定やらなんやら、予想は途中でついた人もいると思います。
「ある程度は予想の範囲内」に抑えたことで、キャラ5人+1匹が丁寧に描かれている。
そこを「あれ、思ったとおりじゃん?」となるか「ああキャラがこんなに丁寧に描いてあってすごい、これを見たかったんだ!」となるか。
ここでものすごい温度差が生じます。

●本当に見たかったものは二次創作にあるのか
虚淵 巴マミのフィギュアには、お菓子の魔女が必ずついてくるんですよ。あのセットにしてしまう感覚はなんだろうなど思いつつも、あのコンビは印象に残っていました。
(パンフレットより)

ここについては、ファンならうんうんとうなずけるところ。
なんで自分食べた相手とセットなんだよ!マミさんとシャルロッテ(非公式呼び名)が一緒にいるのは確かに謎です。
なんでなんだろうなー、色々こじつけられるけど、最終的には「可愛いから」なんだよなあ。

『まどか』の物語の隙から生まれる妄想は、二次創作(公式・非公式問わず)にどんどん汲み上げられていきます。
最も大きいのは『きらら☆マギカ』連載シリーズ。ほとんどが幸せな話です。
5人の魔法少女が普通の日常を送って幸せでいてほしい。
ぼくが最も見たい、彼女たちの日常です。普通に暮らしてるだけでいいんだよ。
それはまさに映画の前半部分。
ところがさすがに監督も照れがあったようで。

宮本 最初、絵コンテがあがってきたときに、シナリオ通りに「○○!」とセリフが書いてあったんです。あまりに戸惑って。劇団イヌカレーの泥犬さんと「このセリフ消したら良いんじゃないですか?」と相談して、絵コンテからこっそりセリフを消したんです。超恥ずかしかったんです。必殺技を叫びながら戦うことですら抵抗があるのに。(中略)ためしに絵コンテから消してみたら……新房総監督から怒られました。
(パンフレットより)

それは、わかる。あのシーンいいんだよなー、でも面白いけど作るとなると恥ずかしいだろうなあ。
なぜああなったのかの理由がわかり、ほむらの気持ちを考えると、一気に何もかも氷解します。
確かに絵的にはここは賛否両論別れる場所だと思います。監督同士ですらわかれたんだもの。

二次創作で行われていた、幸せなまどか達の数多くの物語は、祈りでした。
少しでも幸せになってほしい。この子達に笑って欲しい。運命に抗って欲しい。
この祈りの経験をしていると、今回の映画がすごい鮮烈になります。
序盤のさやかちゃんの顔だけで、ぼくは一日しゃべれる自信あるね。

同時に、これはスタッフからの挑戦状でもあります。
こういう設定に公式になったよ。さて、君たちはどう受け止めるのかい、今までの二次創作書き換わっちゃうよ、と。
なんせ、同人誌でやるようなネタを公式で豪快に見せた。設定はさらに複雑になった。
けどここもあそこも、見ているだけでイメージが膨らむ。細かいパーツやオブジェクトですら意味ありげで、キャラクターの仕草一つ一つから話が生まれそう。
そういう起爆剤としての役割を秘めているから、すごいんです。話したくなるんです。

●終わらないことの幸せと残虐
この話の構造、別のエンディングがある可能性が匂ってきました。ハッピーエンドでもバッドエンドでもなく、これはトゥルーエンドの一つ、と聞いてなるほどなと感心したものです。
となると、終わんないんじゃないの?と。本編が二次創作に対してあえてその余地を残した。
ここで「やったー」となるか「えー」となるかでまた温度差が生じます。

ぼくは「終わらない」ことに幸せを感じました。それってキュゥべえ目線なんです。
少女を都合のいい客体に変えてしまい、いつまでも少女な彼女らを眺めている。
何もかも終わって葬ったほうが幸せかもしれないのに。でもニヤリ……という気持ち。

やっぱり、『まどか』が好きだった人には見て欲しいんです。
自分が好きなキャラ、あの世界が好きだった人は、娘を見に行く気持ちでいってほしい。
ああ、重曹でソウルジェムの穢れが落ちたらどんなによかったことか!
いずれにしてもこれだけは言いたい。さやか好きは何が何でも見ろ。

余談ですが、『パンティ&ストッキング』や『迷い猫オーバーラン!』、ひいては『トムとジェリー』みたいに、監督や脚本や作画監督がバラバラな『まどか☆マギカ』を見てみたい。この話の続きをやるより遥かに見たい。色んな角度から『まどか』が見たい。
ほんとどうするんでしょうねこの後。それをまたみんなで語り合うのが、楽しかったりするんだなー。


『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編] 始まりの物語/[後編] 永遠の物語【通常版】』
ハノカゲ 『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語 (1)』

(たまごまご)