人生では「絶対に負けないもの」だけ作れればいい……波乱のサッカー人生を生きた岩本輝雄の信念

有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回は岩本輝雄さんに登場していただきました。ベルマーレ平塚で得意の左足キックを武器に日本代表まで上り詰め、その後もベガルタ仙台などで活躍した姿をご記憶のファンも多いことでしょう。近年はAKB48の熱烈なファンとしてテレビ出演をすることもありますが、基本はあくまでサッカーとのこと。46歳の今もなおトレーニングを欠かさないストイックな日常、そして現役時代から変わらぬ人生哲学、そして横浜や銀座のグルメについてもお話を伺いました。 (伊勢佐木町・長者町のグルメランチ

人生では「絶対に負けないもの」だけ作れればいい……波乱のサッカー人生を生きた岩本輝雄の信念

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天真爛漫かつ自由気まま

岩本輝雄には確かにそんな一面もある

出来事だけ見ると不思議に思えることもあるからだ

1年半のブランクから復帰したこともそうだろう

 

一方でスペイン語はペラペラ

チーム分析が頭の中に入っていて立板に水のごとく語る

決して感情に任せているのではない

発想が豊かで正直に行動するのだ

 

いつも明るい岩本が一番苦しかったときはいつか

なぜブランクを経て復帰しようと思ったのか

自分をどう分析しているのか

岩本はすべて素直な言葉で語ってくれた

 

所属チームなしの中、ケガと戦った現役時代

2004年、グランパスにいたとき足首に大ケガしたんですよ。実は1992年、20歳のときも、ブラジルの留学から帰ってきて、最初の練習で足首の靱帯を切ってたんです。

 

でも当時って、ケガしても頑張るじゃないですか。早く試合に出てほしいという期待も感じてたし。そこで千葉の有名なドクターに診てもらったんですけど、そのとき「この足首は10年持てばいいな」って言われてたんですよ。そうしてらやっぱり10年経ったところでケガをした。

 

2004年5月29日、ヤマザキナビスコカップのホーム、新潟戦だったんです。ジャンプして着地したときに、足首の骨がずれたんですよ。ガンって感じて、「あ、これはもう終わったな」って思いました。それでも、そこからずっと我慢し2、3カ月リハビリをやったんですけどダメで、それでグランパスを辞めたんです。

 

結局、足首は4回手術しました。それも、くるぶしにドリルで穴を空けて、膝から伸びる腸脛(ちょうけい)靱帯を引っ張って、その穴につなぐっていう手術もして。でも全然馴染まなくて、治るまでに1年8カ月かかって。あの時期が一番辛かったかな。

 

全然足首治んない。思うように痛みが引かなくて大変でした。もう一回他のお医者さんに切開してもらったけど治んない。

 

所属するチームがない、ということはチームに所属してたら診てもらえるドクターもいない。いつケガが治るかわからないという出口が見えないリハビリが続くし、もし足首が元に戻ってもチームがあるかどうかわかんない。もう33歳になってましたからね。

 

しかもちょっとリハビリをやると、足首の中にテニスボールが入ってるんじゃないかってくらい腫れてました。それでも2005年の夏って、足を引きずりながら毎日100メートルを72本走ってたんです。それが終わって帰ってくるともう動けない。

 

自分はタイプ的にそういう厳しいフィジカルトレーニングをやりそうに見えないでしょ(笑)? でもやるんですよ。だからプロサッカーの世界で生きてこられたんです。

 

2005年の終わりには、足首だけじゃなくて脛のヒラメ筋まで痛くなってきて。それで日本代表のドクターも経験してた武井經憲先生に診てもらったんです。

 

足首を見せて「先生、どうですか?」って聞いたら、「とりあえず痛み止めの注射を打ってみよう」って。それでくるぶしの穴の空いているところ、一番痛いところに10ccぐらい痛み止めを打ったんですよ。そうしたら一瞬で痛みが取れた。

 

それで4回目の手術をすることになって、患部を開いてみたら、くるぶしに腱を縫い付けていた糸が小指の先ぐらいの大きさで固まって腐ってて。それって結構ある事らしいんですけど。

 

先生がその腐った部分を取り除いて、「終わりました」って言うんで、台に乗ってそのままどこかに運ばれると思ったんですよ。普通、そうじゃないですか。足首だけだったんで局部麻酔でしたけど。

 

そうしたら手術が終わった直後に先生が、手術台から降りて歩けって言うんです。で、歩いてみたら全然痛くない。これだったんだって。

 

それでまたリハビリが始まるんですけど、右足首が動くようになったら、今度は左の股関節が痛くなってきた。今まで動いてないところを動かしたら、人間の体って×印の対角線上に痛みが来るんですよ。まぁでもこれは、やってみながら治していけばいいかって。

 

手術して4カ月ぐらい経って、2006年になったらテレビ番組で東海道五十三次を歩くっていう企画に出たんです。東海道を歩いたときは、精神的なものもあると思うんだけど、足首の癒着してた部分がどんどんはがれていく感じがして。

 

2カ月歩いた直後からホント痛みがなくなった。それに走らないんだから疲れないだろう、楽勝だろうって、スーパーポジティブに考えてやりました。

 

それで治ってきたら、あるJクラブの監督さんが自分のことを評価してくれていて、テストを受けに来いって言ってくれたんです。それでそのチームに入ることが決まりかけたんですよ。ところがそれが漏れちゃって、そうしたら話がなくなった。

 

さぁどうしよう、せっかく足が治ったのにって。グランパスを辞めてから1年半、どこのチームにも入ってなかったけど、応援してくれるファンの人たちがたくさんいてくれたし、ここはやっぱり自分としての姿勢をみせなきゃ、ってことで、クラブワールドカップに出たいと思いました。

 

苦しい思いしてここまできたんで、ちゃんとやることやって、最後ドンッといこうって。それで自分でビデオ作って、知り合いの伝(つて)を辿ってニュージーランドのオークランド・シティにビデオを送ってもらって。それで2006年のクラブワールドカップに出て、スパッと引退したんです。

 

子どもたちにキックを見せると態度が一気に変わる

2000年にもね、シーズン中にヴェルディを辞めたあとって、何人か仲間がいて一緒に集まってトレーニングしてたんですよ。金もそんなになかったから、みんなで楽しんで。今も午前中にトレーニングして、飯食って、午後はフリーで、週末はサッカーの試合して。それが一番いいんじゃないかなって。今置かれている状態がどうであれ、そうやって日々過ごしてるのが一番いい。小学校のころからそういう生活を続けてるから。

 

今は午前中にトレーニングをして、午後は仕事したりカフェに行ったり、バルセロナにサッカー観戦しに行ったりしています。引退してからはそういう生活ですよ。

 

若いときは結果出すことしか考えてなかったけど。若いときの写真を見直すと、やっぱり目つきが鋭いから。久しぶりに知り合いの人に会ったら「穏やかになったね」って。「戦ってないから」って言ったら「そうですね」って。

 

トレーニングして、昼ご飯食べて、みんなと話をして。基本的にサッカー好きなんで。そんな生活の中にAKB48や新日本プロレスのことを考えてる部分があったりするんです。AKB48についても話を聞かれますけど、でも自分の基本はサッカーだから。

 

現役時代、人から天才肌って言われることもありましたけど、ホントは努力派です。トレーニングとかちゃんとやってるし。才能もそんなでもない。サッカーの研究もしています。ずっとバルセロナに通って、年間30試合とか見たりしてるんですよ。それで時々、DAZNの解説をやらせてもらったり、平畠啓史さんの番組に出させてもらってます。

 

2018年は4月に膝の手術をしたんですけどね、そのあとでも週に5回筋トレやってるんですよ。ベンチプレスも現役のときは85キロだったんだけど、今は100キロ上げてます。ただ体がデカくなりすぎて膝に負担がかかりすぎるんで、少し落としてるんですけど。今日もこのインタビューの前はトレーニングしてたし、インタビューの後は筋トレだし。46歳で2部練習やってるヤツっていないでしょう(笑)。

 

ただサッカーって結局は「止める」「蹴る」じゃないですか。その「止める」「蹴る」にプラスして自分はキックの精度が高かったんです。ということは、他の選手が僕の周りをフリーランニングすれば、僕が何秒かフリーになる。その瞬間にいいボールを僕に入れればチャンスになってたんです。

 

バルセロナでリオネル・メッシがフリーになるのはイヴァン・ラキティッチがメッシの周りをフリーランするからですよ。そういうのを徹底的にチームでやっていけばいいんですよ。あとはそういうのが出来る選手を集めるのが監督だったり、強化部長だったりするんです。

 

こういうことって、偉そうに聞こえるかもしれないから、みんなあんまり口にしないじゃないですか。サッカーに限らず。でも、それって自信がないからじゃないかって。

 

自信って、やることやってたら出来るんです。一つ武器を作ればいいんです。左足は絶対負けないと思ってた。今もサッカースクールやって、もう僕のことを知らない子どもたちとかがいて、でも、キック見せれば一気に態度が変わるんですよ。そういう武器を作ればいい。

 

人生において、絶対に負けないものだけ作ればいい。平均なんていらないです。いいものはいいし、悪いものは悪い。あとシンプルが一番いい。

 

自分は仕事への考え方もそうでしょう? 返事も早いし。時間がかかるといろいろ起きるじゃないですか。だって、中盤なんて時間ないんですよ。0コンマ数秒で相手から寄せられちゃうし。だからすぐ決断しなきゃいけない。毎日の自分の生活も同じで、何事もぱっと決めてるんです。

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食べたいものを食べるのが一番いい

食事は何でも食べます。甘いものも大好きだから、チョコとかケーキとかガンガン食べますよ。食べないことでストレス溜めるのよくないから。人間って血糖値、ちょっと高めのほうがいいんですよ。45歳過ぎたら。平均より下ってガンになりやすいって聞いたから。

 

現役のときは食べ物をどう取るかって気にしてましたね。試合の2日前からは炭水化物。月曜から水曜までは魚と肉、木曜日と金曜日は炭水化物を取って土曜日が試合。体重はベガルタ時代って74.0キロって決めました。試合の前は74.0キロ、ピッタリ。100グラム上がっても下がっても、絶対調整しましたね。

 

体重が下がってもダメだし上がってもダメだったんですよ。一度73.5キロにしたときは体が軽くていいじゃんと思ったけど、パワーが出なかった。1回、1キロ増やしてプレーしてみたことがあるんですけど、その1キロで全然動けないし、全然抜けないじゃんって。それくらい細かくやってました。

 

今は78キロぐらいですね。一時は食事の量を落として72.5キロにしてました。でもそうすると風邪引きますね。今は膝が痛いから78キロがちょうどいいくらい。これからフィジカルをガンガンやって食事を落として、また絞るんですけど。

 

トレーニングをちゃんとやってるときって、メシあんまり食べなくなるんですよ。逆にたくさん食べるときって、トレーニングあんまりやってないときなんです。たぶん走ったりトレーニングしたりすることでストレス発散するから。体も次の日に走るための栄養しか取らなくなる。この10年間、そういうこと考えてます。

 

40歳過ぎたら酒飲んでもいいと思ってたんですよ。僕は形から入るから、酒を飲むって格好いいなって思うこともあるんで。それにワインってポリフェノールのあるから体にいいんじゃないかって。

 

今、食事に関してはその日食べたいものを食べるってのが一番いいと思ってます。肉が食べたいってことは、体が肉を求めてるから。そんなときは肉を食べるほうがいいんですよ。だから「みんなで3日後に肉を食べに行こう」とか、そういう誘いをもらってもダメなんですよ。今食べたかったとしても、3日後の脳は変わってるから、そのときは肉が食べたくないかもしれない。

 

つまり食べたいものを食べる。食べたくないものは食べない。食べないときは、食パン1枚に蜂蜜付けて血糖値上げてトレーニング。それでもいいんです。

 

で、食べに行くのにいい店紹介しますね。横浜だったら、「庭」っていう福富町の韓国料理の店があるんですけど、ここはいいです。奥大介(故人)に連れてってもらったところです。

 

韓国流だから、焼肉を頼むと漬物なんかが無料でついてきてました。自分が食べる肉って、ひたすらハラミ。脂が少ないから。

 

あとヒレ肉も大好きなんで、ヒレ肉を食べたくなったら東銀座のイタリアンに行ったりしますね。東銀座にある「エル・ビステッカーロ・デイ・マニャッチョーニ」っていう店です。「肉食べたい」と思ったら、いきなり東銀座に行って食べてますよ。

 

そこのシェフはサッカー好きで、ローマ、それこそラツィオでずっと修行してたんですよ。昔、調べて食べに行ったらすごい話が合って、それからずっと通ってます。ヒレ肉とかTボーンステーキとか出てくるんです。

 

ヒレ肉も黒毛和牛の肉があって、それが一番おいしいと思いますね。この前、プロレスラーと一緒に行ったら1人1キロとか食べてて、すごいなぁって。他にもパスタや生ハムもすごいうまいし、この店は確実にいいですよ。

 

紹介したお店

韓国焼肉 庭
〒231-0043 神奈川県横浜市中区福富町仲通38 1F
エル ビステッカーロ デイ マニャッチョーニ
〒104-0061 東京都中央区銀座3-9-5 伊勢半ビルB1
8,000円(平均)

 

岩本輝雄 プロフィール

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1991年、横浜商科大学高校からフジタへ入団。1年目から出場機会を掴む。Jリーグ発足後は、ベルマーレ平塚として94年にJリーグ昇格し、ベルマーレ旋風の原動力となった。

94年にはファルカン監督率いる日本代表に招集され、アジア大会には10番をつけてプレーした。ベルマーレ退団後はベガルタ仙台などで活躍し2006年に引退した。
1972年生まれ、神奈川県出身

 

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

 

 

 

 

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