ソトブログ

文化系バーダー・ブログ。映画と本、野鳥/自然観察。時々ガジェット。

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日々のレッスン #022――天神崎の標高約三〇メートルの日和山を登る

写真は日和山入口(2023.2)

 

 天神崎
 ここに来るといつも、いつの間にか「ウユニ塩湖みたいな写真が撮れる」ということでインスタ映えスポットとなった岩礁ではなく、天神崎の、その<崎>の後背山である標高約三〇メートルの日和山に登る。
 いつも、というのは<チャーちゃんと来るといつも>で、ひとりだとただクルマで流して海を見て鳥を見ているだけのこともある。

 

 その三〇メートルの日和山も含めた天神崎は何年か前から「吉野熊野国立公園」の一部となっている。主要二箇所の登り口には国立公園となってからつくられた、まだ真新しい案内板がある。三〇メートルだから小学校低学年(この四月に二年生になった)のチャーちゃんにもラクラク登れるが、大人でも慣れていないと山道は意外にキツい。わたしも今では慣れてラクなものだが、それでも登山道は登り口の一方は横木を渡して簡単な階段に設えてあり、もう一方はどういったらいいのか、地表に出ている木の根っこをうまく利用してジグザグに登れるこちらもある種の階段になっている。道々にはウラジロの鬱蒼とした群生を掻き分けながら進むところがあったり――雨上がりだとツルツルしたシダ類のウラジロに乗っかった水滴をシャワーのように浴びることになる――、急に開けて立木がなく岩肌や砂地が露出しそこでは存分に陽の光を浴びたり、下草がいつも伸びきってどこが道かわからなくなりそうなのはまだいいが、必ずといっていいほどジョロウグモだかのクモの巣に引っ掛かるところがあったり、こう書くと楽しそうに思えないかもしれないがそれなりに整備された山道でも、植生にも詳しくないわたしのような人間でも、自然のアスレチック、ちょっとした探検隊気分でいつも楽しい。

 

 

 チャーちゃんと登ると決まってトレイルランじゃないけど登りは山頂までの競争になり、必ずチャーちゃんが勝つ。子どもと勝負するとき、親は手を抜いて負けてあげている訳じゃない。といっても他の人のことは知らないし、チャーちゃんは今でも法的にも、存在論的にも? 妹の息子で、チャーちゃんにとってはわたしは「ユウちゃん」で、普通の親子関係とは違っていても一緒に暮らしていて人から見ても自分の意識としても親みたいなもので、だからはっきりと断言できるが、親が子どもとの勝負に負けるのは、本当に負けているのだ。

 

 天神崎というところは一九六〇年代にナショナルトラスト運動の本邦の嚆矢として、行政や開発業者との折衝、住民の土地買い取りなどの地道な活動によってリゾート開発による環境破壊を免れた海岸とその後背山で、その経緯については『天神崎を守った人たち』(朝日新聞社、1989年)という本に詳しい。「天神崎の自然を大切にする会」による天神崎の土地の買い取りも含めた環境保全活動は今も続けられていて、インスタ映えもその活動さまさまなのだが、端で見ていると天神崎に来る人たちは、インスタ映えを求めてくる人たち(意外と若者だけではなく老若男女だ)、釣り人たち、スキューバダイビングを楽しむ人たち、岩礁のタイドプールで磯遊び・潮干狩りをする親子連れ、ここでは一番少数派のわたしとチャーちゃんのような超低山ハイカーに至るまで、それぞれの服装から嗜好は(ほとんど同じ場所にいるのに)くっきりとクラスターとして分かれていて、越境することがない。ように思える。

 

 ――結局のところ、自然環境は何のために保全されているのだろうか、とわたしもその一群のなかのひとりとしていながら考えていたりすると、いつも結局チャーちゃんとの勝負に負けてしまうのだ。

 

天神崎の絶景 – 和歌山県 田辺観光協会

 

 

シリーズ「日々のレッスン」について

日々のレッスン」は、フィクションと日記のあわいにあるテキストとして、不定期連載していくシリーズです(できれば日記のように、デイリーに近いかたちで続けていけたら、と考えています)。また、それにApple Musicから選曲した<野鳥音楽>プレイリストを添えた「日々のレッスン ft. Bird Songs in Apple Music」を、月1、2回のペースで更新しています。

 

【日々のレッスン・バックナンバー】

 

【本連載「日々のレッスン」の前作に当たる拙著・小説集『踊る回る鳥みたいに』、AmazonSTORESとリアル店舗(書店その他)にて発売中です。】

日々のレッスン #021――食べ物の反芻はできないけれど、気持ちならそれができる。(ft. Bird Songs in Apple Music)

写真は西村伊作記念館にて(2022.6)

 

「不測の事態ほど苦手なものはないんですよ。」
 とわたしがいうと、
「そんなの、得意な人っているの?」
 とハジメちゃんが答えた。三人で話していると、意識せずとも二人に向かってではなくて、そのうちの一人に向けて話しているみたいになっていることがあって、しおりさんじゃなくてハジメちゃんが答えてくれたのはわたしには意外なことだった。しかし、
「<フソクノジタイ>って想像できんってこと?」
 と続けたのはもうすぐ八歳になるチャーちゃん。三人で話しているつもりになっているのはわたしたち大人だけ(か、あるいはわたしだけ)で、ファクトはチャーちゃんも入れて四人だった。チャーちゃんはわたしが子どもの頃のように、「オトナがわからない話をしている」というふうには思わないでいて、聞こえてくる話の断片、ことばの欠片に当意即妙に反応するのはチャーちゃんらしさ、子どもらしさといってよかった。

 

 わたしはだいたいいつも本を読んでいるが、本を読んでいるとどんなにいい本でも人間のことばかり、自分=書き手のことばかり書かれていてうんざりすることがある。対象について書かれた論文みたいなテキストであっても、書き手が自分の専門分野について語るということは、やはり自分語り、人間語りではないか。――ただし、そう捉えてしまうのは書き手のせいというよりこちらのコンディションの問題だろう。
「いまここ」の不穏さ、あるいは直面していたり、これから起こり得たりする不測の事態を避けたい気持ちから、現代のことについて書かれた本を読むことが多い。わたしが人間だから、人間のことが、人間が集まってできた社会のことについて書かれた本を読むことが多いのだとも思える。

 

「自分の気持ちも、人の気持ちもワカラナイわたしなんかは、自然科学に没入、俗世を離れた学究を追求。的な生き方をしたらよかったのかな、って思うこともあるんです。」
「韻を踏みつつ軽々しくいえることじゃないよ。」とハジメちゃん。
「それは勿論だけど。」
「でもこのおしゃべりは好きなんでしょう。」
 しおりさんがいった、しおりさんは綺麗な手をしている。それ以上具体的な表現や、何かの比喩やアナロジーで言い換えられないような手。
「それはやっぱり、しおりさんとハジメちゃんだから。それにチャーちゃん。」
「水、もう一杯。」
 チャーちゃんがいった。チャーちゃんは何でも食べるが、飲みものはほとんど水しか飲まない。チャーちゃんが大人になる頃、十数年後のわたしたちは、何を食べて何を飲んでいるんだろう。どんな場所で。そこはここみたいな、居心地のよいお店で、好きも嫌いもあるがずっといたいと思う街なのか――という思いは思いのまま辺りに漂わせたままでいて、わたしはお店の人に声をかけた、
「お水をひとつと、あとルイボスティーのメニューをもう一度、見せて下さい。」
 いいながらもうわたしはわたしの日常に起こっている<不測の事態>をここにいるみんなにどんなふうに説明したらいいか、わたしがそれに対してどう感じているのか、あるいはそもそも今回の<不測の事態>というひとまとまりの事態、事象とは何なのか。自分にもわからなくなっていた。ある場合にはそれは不都合なことなのかもしれないが、今この場所、この空間、このわたしたちが何かの<恩寵>の下に護られているなら――あるいはわたしたち自身がそれを作り出しているといってもいい――、それでいいのだ。それでいいのだ。と思いながらわたしは小さく笑った。チャーちゃんは子どもらしく、それを見逃さなかった。しおりさんとハジメちゃんもオトナらしく、見逃していなかった。三人で、
「侑ちゃん、何笑ってんの?」

 

 わたしはことさらクールな顔をして、腕組みして、「なーんにも。」と返していたら、ルイボスティーとお水が運ばれて来るのが見えた、わたしはこの店の日替わりのルイボスティ―のフレーヴァーを想像して、今日はこれでいいのだ、と気持ちを反芻した。人間だもの。食べ物の反芻はできないけれど、気持ちなら、それができる。

プレイリスト「2023.03_魚の骨 鳥の羽根」

※以下、選曲は全て、「演者/曲名」で表記しています。
※下記プレイリスト名のリンクより、Apple Musicで聴くことができます(Apple Musicのメンバーシップが必要です)。

2023.03_魚の骨 鳥の羽根」(選曲:ソト

M01. U-zhaan & 坂本龍一/energy flow
M02. cero/魚の骨 鳥の羽根
M03. 羊文学/光るとき
M04. George Ezra/Green Green Grass
M05. Paris Hilton/Stars Are Blind
M06. agraph feat.ANi/unfld perpective (feat. ANI)[variation]
M07. Raquel Martins/Mountains
M08. Tchotchke/Ronnie
M09. The Boys/I Don't Care
M10. 怒髪天/100万1回ヤロウ
M11. David Bowie/Magic Dance
M12. 星野源/喜劇


羊文学「光るとき」Official Music Video (テレビアニメ「平家物語」OPテーマ) - YouTube

 

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日々のレッスン #020――現実が夢の論理を追っている、夢の論理を使って人が拵えたものが現実だ。

写真はヒレンジャク(樹冠の一羽)。2023.3

 

 現実が夢の論理を追っている、夢の論理を使って人が拵えたものが現実だ。というのは転倒に見えてもわたしには、私淑している小説家の教えないし口癖だから、自家薬籠中のものと思っている。ハジメちゃんがいった、
「コウベ、と聞くと学生時代を思い出すんだよ。」
 コウベは神戸で、地元が同じハジメちゃんとは、進学先の学校は違ったけれど場所は同じ神戸で、実家にいた高校生の時より頻繁に会うようになった。現在に至るまで彼女と続いているのは案外そういう偶然の積み重なりによるのだろう。
 クロード・レヴィ=ストロースというと、トロブリアンド諸島というと、遠洋航海者というとやっぱり大学時代を思い出すんだよ。
「<トロブリアンド諸島>とか<遠洋航海者>はマリノフスキーでしょう?」
 なんでユウちゃんが知ってるのよ? ――ハジメちゃんがいうのはもっともで、わたしは体育大学に進学したから文化人類学を学んだわけではない。でもいつも言っていたのだ、ハジメちゃんが。
「クラ、クラ、クラってさ。」
 結局いつまでも西太平洋とかメラネシアには縁のない人生だが、当時から彼女の声で聞いた「クラ交易」「トロブリアンド諸島」ということばの響きに魅せられて、わたしは文庫本で手に入る『西太平洋の遠洋航海者』を買ったのだった。
「いや、でもあの頃はなかったよ、文庫。」
「だから後になって買ったんだよ、たしか、10年前くらい。読んではいないんだけどね。」

 

 わたしは書棚にある本は、読み終えた本はたぶん、半分くらいしかないんです。そう打ち明けたら書店主のMさんは驚いたような顔をした(とわたしには思われた)。Mさんは<家にある本を読み尽くしてしまったから>という理由で書店を開くことを思いついたそうだから、あるのに読まない、という事態を想定されなかったのだと思った。
 しかしそのMさんの(開店の)理由も本当はもっと複雑な背景があるだろうし、もちろん実際に書店を開く、という行為――しかもそれは開店という瞬間の一回性のものではなく持続する行為だ――、それを実現させる/させ続けることに伴う労苦を想像すると、ただこんな手記、虚構を交えた日記のような文章を書きつけているだけのわたしは、Mさんという女性を子どもの頃の母親や先生のように、あるいは信徒にとっての教祖のように、仰ぎ見る気持ちになる。夢のなかでその場その場で起きている事がらの真偽に疑いを持たないのと同じくらい、それは確固とした感覚だった。現実が夢の論理を追っている、夢の論理を使って人が拵えたものが現実だ。

 

 わたしは判で押したような毎日を愛している。望んでいる。実際に経理の仕事では毎日会計伝票を処理していてわたしの所属する組織の全ての商取引は会計伝票に起こされ、起票者であるわたしが押印し、上席者が押印する、すなわちそれが稟議ということだが、本当に同じ判を押し続けているその作業も、概念としての<判で押したような毎日>にはならない。時には勘定科目に迷い、時には仕訳を誤り修正伝票を起票することになり、ふだんは決裁函と呼ばれる上席者の机の端に置かれた函にただ入れていく伝票を、そうした場合は修正内容を上席者に修正理由を書き起こしたペーパーを見せながら口頭で説明する。大抵の場合彼は――というのは大抵の場合、上席者は男性である――わたしの説明に頷き、それでいいよ。とか、わかりました。といって書類を受け取り、決裁函に入れる。
 百均で買った所謂<三文判>を仕事で使っているわたしは、毎日数十枚、数百枚と判を押すのだが、職場の多くの人が愛用している、印鑑をそれにセットすることで、押印のたびに自動で朱肉が印面に付けられるメカニカルな機構の印鑑ケースを使わない。そのことにさしたる理由はないけれど、一枚一枚、一回一回、朱肉に印鑑をトントン、と突いてから書類に押印する。その儀式めいた趣きがわたしは好きなのか、それもわからない。わからないがそうしている、ということがわたしには何かだろう、というところまでは言えるが、それ以上このことについて、考えを下ろすべきではない、という感覚がわたしにはある。

 

 柳宗悦とか『手仕事の日本』、民藝運動ということばも学生生活を思い出させる、あとはアイルランドもそうだよ、とハジメちゃんはいった。五年間通ったという大学卒業間近、単位取得のために取った集中講義が<アイルランド社会文化論特殊講義>だったのだ。
 ハジメちゃんがいくつかあった集中講義からそれを選んだのは、当時わたしと一緒にアニメーション監督の押井守にハマり、押井監督の『アヴァロン』という映画を観たからだった。『アヴァロン』はアーサー王物語を下敷きにしている。イコール、アイルランドということにはならないが、訥々と眠気を誘う喋り方をする年配の講師の佇まいは、メディアで見た押井守のそれを髣髴とさせた。――しかし講義自体よりもハジメちゃんの記憶に残っているのは、一緒に丸二日間に及んだ講義に臨んだ同級生、マツノくんとほとんど初めて、授業の合間に談笑したことだった。

 

 

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ブックレビュー“読む探鳥”:藤原辰史『植物考』――植物、飛翔できない鳥。

藤原辰史『植物考』(生きのびるブックス、2022年11月刊)( 生きのびるブックス公式サイト・本書紹介ページ

植物考

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野鳥観察は対象にさわれない。

 

 野鳥観察は対象にさわれない趣味であるだけに、こちらとあちら、人間と野鳥たち、ヒトと生きものたちの世界の<距離>――あるいは生きている<世界>そのものの違いを、よりいっそう意識するものであるようにわたしには思われます。
 神の似姿として人間が作られ知恵を与えられる一神教や、地球外知的生命から<武器>を与えられることで地上の王として君臨することになる映画『2001年宇宙の旅』のようなサイエンス・フィクションを持ち出すまでもなく、やはり人間と地上の他の生きものたちのあいだには、断絶があることが自明であるように、わたしには思われます。

 しかし本書『植物考』には、以下のような「人間の植物性」への言及が幾度も繰り返されます。

人間も含まれる多くの高等植物は、消化器官に肥沃な動植物の亡骸を流し込み、消化酵素と腸内微生物によって土壌化したものに根を張って養分を吸い取り、外気を取り込んだ袋に樹状の毛細血管を張り巡らし呼吸する「動く植物」である


藤原辰史『植物考』(生きのびるブックス、2022年)※以下引用全て、同書より

 

植物の炸裂、人間の植物性。

 

 ――というわけで今回は鳥の本ではなく、植物の本です。
 著者は農業史、食の思想史が専門の人文系研究者の藤原辰史さん(京都大学准教授)。本書は、《人文学の視点から植物とはなにか、植物と人間とはとはこれまでどのような関係にあり、またどのような関係を作りえるのかについて、歴史学や文学や哲学を横断しつつ、考え》るという、一連の思索をまとめたものです。
 植物と人間の違い、から始められる論考はその端緒から、上述の体内調整機構にみる人間の「植物性」や、「歩く植物」としてのガジュマル、カレル・チャペックの『園芸家の一年』を引用しつつ春の芽吹きに植物の「炸裂」を見るといった、植物-動物-人間の垣根をクロスオーヴァーしていく思考の過程がスリリング。

《ヒトは怪我で器官を失ってしまうと元通りにはならないが、植物であればまったく問題ない。そもそも植物は新たな器官を作り続け、古い器官を使い捨てているのだから。》*1《人間は、太陽光と水を用いてエネルギーを生み出したり、そのエネルギーを用いて大気中の二酸化炭素をデンプンなどの有機物に変えたり、動植物の生命活動に必須の酵素を大気中に放出したりすることができない。だが、ほとんどすべての植物にはそれができる。》

 というような彼我の違いを超えて、植物の「植物性」を、<植物の知性><大気のクリエイター><植物の根は頭である(アリストテレス)><「生殖の舞台装置」としての花>――といったキイ・ワードで解き明かしつつ、《根も葉もない世界に人間はすっかり疲弊している》、その人間観の一新を植物に求める考察の果て。次のようなくだりの出てくるのをみつけて、バーダー(野鳥観察愛好家)の端くれであるわたしは小躍りします。

 

 では、人文学的課題として、私たちは葉をどのように語ることができるのか。ここでもまた、イタリアの植物の哲学者、コッチャの語りに耳を傾けてみよう。

 

《ゆるぎなく、不動のまま、大気と渾然一体となるまで大気現象に晒される。中空に宙づりになり、いかなる努力も要さず、筋肉ひとつ収縮させる必要もないままに。飛翔できなくとも鳥となること。葉とは、いわば陸地を征服したことへの最初の大きな反動、植物の陸生化がもたらした大きな帰結、そして空中生活への植物の渇望の表れであるかもしれない。》*2

 

「飛翔できない鳥」という表現は、ちょっとカッコ良すぎる感が否めないが、詩のような印象的な言葉である。思えば、これだけ薄くて広い器官を作ることができる動物は、鳥くらいかもしれない。

 

「初めて会った人なのに昔から知っている気がする」ように。

 

 元来筋金入りのインドアラーで、昨年中学生になった長男とともに五年前に野鳥の会に入会するまで、運動や野外活動の類はほとんど何もしてこなかったくらいのわたしですが、ここ一年くらい、だいたい月一回のペースで山に登っています。とはいえいつも同じ、紀南の霊峰・高尾山。高尾山は標高606メートルの比較的低い山ですが、登山好きや周辺地域の方にはよく知られているように、山頂への主要なアクセスルートである奇絶峡からの登山道は、低山とはいいながらなかなかの急勾配です。
 この一年でそれなりに体力はついたものの、できるだけ荷物は軽くしたいので、野鳥用のカメラは持参せずに登ることが多いのですが、それでも季節ごとに、様々な鳥が見られます。手もとのメモというか日記によれば、昨年の十月には、コガラの群れに出会ったと書かれています。とはいえ、
「コガラ見た、高尾山で。」
 と息子に言ったら、
「コガラ?」と疑問形で返されて、高尾山で声だけではなくちゃんと姿を見たのは初めてだった、ということもあって、すぐに自信がなくなる自分の野鳥鑑の未熟さはちょっと恥ずかしいくらいですが、わたしがそれ以上に疎いのは、植物、草木について。
 それこそ長男と自然観察会に足繁く通うようになって、専門家の先生方や諸先輩方にたくさん教わりつつも、草木の種類や特徴など、なかなか知識として定着しません。山に登っていれば、珍鳥に会えなくとも、足元でも眼前でも、多種多様な植物に出会えるというのに。

 

 しかし本書『植物考』を読むことでわたしたちは、ヒトと生きものたちの距離よりも繋がり、違いよりも似ているところ、同じところ――仮にそう見えるだけだとしても――そんなことを意識できるようになる、ちょうど著者の藤原辰史さんが、

植物について考えることは、初めて会った人なのに昔から知っている気がすると錯覚する、あの感覚に似ている。

 とこの本の締め括りに記しているのは、そのことを証しするかのようです。

 

植物考

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【以前の記事から:「世界の雑貨化」と野鳥の関係。】

ブックレビュー“読む探鳥”:三品輝起『雑貨の終わり』――夜空のカラス、野球場のツバメ、わたしたちの近未来。 - ソトブログ

 

【野鳥に関する本、映画等についてのレビューを、シリーズ「読む探鳥、観るバードウオッチング」としてカテゴリーにまとめました。】

 

【当ブログの読書および野鳥観察についての記事一覧はこちら。】

*1:※『植物考』本文中にある、図録『特別展 植物――地球を支える仲間たち』における植物学者、池内桃子によるテキストより。

*2:※エマヌエーレ・コッチャ『植物の生の哲学――混合の形而上学』(嶋崎正樹訳、山内志朗解説、勁草書房、2019年)からの引用。『植物考』本文中では、文頭二字下げにより引用を表しています。

日々のレッスン #019――わたしである彼女との対話。

写真はイソヒヨドリ(2023.2.5、梅の里オートキャンプ場/和歌山県)

 

 キャンプ場ではイソヒヨドリが、おそらく薪に加工されるのだろうか、サイトの端に整然と積み上げられた丸太のてっぺんで、二月とは思えない陽気を感じて日向ぼっこをしているような風采で寛いでいる。寛いだ心地でいるのはわたしで、だからわたしにはイソヒヨドリが寛いでいた

 なんでもない/なんてことのない白いシャツを着ているのに、それがコム・デ・ギャルソンである、しかもそれが滅茶苦茶似合っている、わたしだった彼女はそうなりたいと思っていた。なんならなれると思っていた。
 けれどいま、わたしの着ているスタンドカラーの白いシャツは、ファストブランドのものだ。例えば他をコストカットして、シャツに資本投下を集中させれば(というほどの財産はないが)、わたしにだってコム・デ・ギャルソンが買えないわけじゃない。たぶん。

――でも実際、そういうことじゃないんですよね?
「そうなんです。そんなふうにして、お金がないのにかけるところにだけかけて、恰好いいっていう人もいるにはいると思うんです。あんまり現実にお見かけしたことはないですけど。」

自分に語りかける時も敬語で*1
 たしかそういうタイトルの本があって、読んではいないのだが、というよりその文句から想起される感じ、わたしが感じているそれが好きすぎて本そのものは手に取れないでいる、その本、そのタイトルに影響されてわたしはわたしと対談している。インタビューみたいなものだ。
 かつて人類は、自己の内言(心の声)を他者のものとして聞いたという――これも聞きかじりだけれど、だからキリスト教やイスラム教やその他、世界宗教、原始宗教の教祖や預言者たちは神の声を聞いたのだ。

――そんなこと、聞きかじりで断言していいことじゃないでしょう。
「ですよね。本当にごめんなさい。しかも、今は白いシャツの話でした。コム・デ・ギャルソンの。」

 

 白いシャツが似合う彼は――偶々わたしが先日、見かけたのは男性だった、シャツの上はややふわっとした見ごろのVネックセーターで、左胸のロゴでそちらはヴィヴィアン・ウエストウッドだとわかる。やっぱり恰好いい。わたしだった彼女がなりたかった大人だった。突然わたしは思い出した。郷愁ではないが、いま現実に抱いている欲望とも違うものだった。
 わたしはわたしを惨めに思っているわけじゃない。卑下しているわけでもない。わたしはわたしの白いシャツに、毎回アイロンをかけ、折り目を正してそれを羽織る。たまにミスって、その折り目もずれてしまうが。
 わたしの着ている白いシャツのファストブランドがそのサプライチェーンにおいて、ダイバーシティに逆行する行為、マイノリティから搾取するような行為を、(恒常的に)行っているかもしれないことを考えないわけではない。コム・デ・ギャルソンやヴィヴィアン・ウエストウッドがどのような態度を取っているのかも、まだ調べていない。それはわたしの怠惰。
 しかしそういうこと、代名詞が指示する内容を取り違えられることは本意ではないので、その「そういうこと」が何を指すかを明確にしておくと、

個人がモノを買うときに、ダイバーシティに反する行為、マイノリティから搾取するような行為がプロダクトの生産過程で行われていないか確認した上で、購入するかどうかの意思決定をすること。

 ――それはすぐに当然のこととなるだろう。あるいは、すでにそうなっていなければならない。だろう、なんて他人ごとのような謂いはなにごとか。しかしあるいはだから、わたしが偶々見かけたコム・デ・ギャルソンの白いシャツの男性によく似た著述家を最近知った。というよりその方を知ったから、その方によく似た男性をわたしは見かけたのだ。著述家であり医師であるその方曰く、

「~しなければならない」という価値判断は<あたま>、すなわち脳がするもので、あたまがする判断は、わたし/あなただけの狭い価値観を優先するものである。という趣旨のことを、著作で語られている。<あたま>を優先させるのではなくて、わたしたちの<こころ>や<からだ>が自ずから発しているサインに耳を傾ける必要があるのです――と。
 いずれも稲葉俊郎先生(面識はないが、あるわけないが、あえて<先生>と呼ばせていただく)の、『からだとこころの健康学 NHK出版 学びのきほん』(NHK出版、2019年)を読んで、わたしなりのことばに言い換えてみたものだ。ニュアンスや主旨が変わっているとしたら、わたしの責任だ。もしわたしのこの手記を読まれる方があったなら、ぜひ原典に当たっていただきたい。
「~しなければならない」という思考の型は端的にいって、人を不幸にする。わたしのはただの経験則になってしまうが、わたしにとってはそうだった。

 

――《ユウちゃんと、カズちゃんと、たき火をしました。/家で二回れんしゅうして、キャンプじょうで本ばんをやったので、たき火はせいこうでした。》ってチャーちゃんが宿題の作文で、書いていましたよね。
「そうそう。でもその書き出しと終わり、二つの文のあいだにあって、いちばん可笑しかった個所は、
たき火でウインナーをやいたら、一しゅんでこげました。ユウちゃんがこげをとってくれたので、こげていないところを食べました。
 っていうところだったんです。」
――チャーちゃんのいう成功には、<ウインナーが一瞬で焦げてしまった>っていう失敗も、包摂されているんですよね。
「それが嬉しくて。でもチャーちゃんにそのことをいったら、『――じゃあユウちゃんがへたくそでユウちゃんにはだいしっぱいだったけど、ぼくはおいしかったので、たき火もあったかくて、だからせいこうでした。って書きなおしといてあげるわ。』だって。」
――でも侑子さんは、最初の書きぶりのほうがいいと思っているでしょう?
 わたしであるところの彼女はいったが、わたしもその通りだと思った。
「元の作文は、たき火の成功と、ウインナーの出来・不出来がチャーちゃんのなかで接続されていないところがよくて。」
――たき火の成功は練習の成果という因果律の俎上にあるけれど、そのこと自体はそもそも悪いことじゃないんです。だけど、ウインナーとたき火は繋がらない方がいいですよね。

 

 何もかも説明され尽くされないこと
 それに料理の本質は、食べられないものと食べられるものに材料を分別し、食べられるものを調理して生きるのに必要な栄養を得ることである。おいしいとかおいしくないというのは副次的なもの、付随的な価値に過ぎない。
 おいしさにこだわり過ぎること、それを過剰に重んじることは、料理の作り手に不必要な十字架を背負わせることになる。
 今読んでいる土井善晴先生の本*2には冒頭には、大意こういうことが書かれている。こういう語彙で書かれているわけではない。土井先生の書き方は、もっと優しい。やはり主旨やニュアンスが曲がってしまっているとしたら、その責はわたしにある。

 

 わたしは以上のことを、わたしであるところの彼女と、わたし自身との対話として話し合ったが、その週末の午後、ハジメちゃんやしおりさんと話したのは、稲葉俊郎先生の本と、土井善晴先生の本がどちらも「NHK出版 学びのきほん」というシリーズの一冊であって、「学びのきほん」みたいなシリーズは、自分の狭量な世界観を拡げたり、問い直したりするのにとてもいいもの、端的にいって便利――便利、というといやしい感じがするけれど、わたしという彼女にスイッチを入れてくれるテキスト=教科書みたいなものだ。ということだった。
 それからしおりさんからもハジメちゃんからも、お勧めの本を一冊ずつ、教えてもらった。本にとって、本を読むわたしにとって、わたしである彼女にとって、「それを買う理由」が自分のなかの臓腑に落ちていることは、それを読み始めることと同じかより以上に、大事なことだ。

 

学びのきほん (@manabinokihon) / Twitter

 

 

シリーズ「日々のレッスン」について

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【本連載「日々のレッスン」の前作に当たる拙著・小説集『踊る回る鳥みたいに』、AmazonSTORESとリアル店舗(書店その他)にて発売中です。】

*1:※秋田道夫『自分に語りかける時も敬語で』( 夜間飛行、2022年)

*2:※土井善晴『くらしのための料理学 NHK出版 学びのきほん』(NHK出版、2021年)

日々のレッスン #018――<わたしの琴線の50分の一>

写真はシロガシラ(和歌山県某所)、2023.1.22

 

「〝正義は制度化された商品の平等な分配という意味にまで下落している〟――こんなふうに的確なことばっていうか、いま自分が感じていて抱えている想いのカタマリが、精密に言語化されているのを読むと、何ていうか、幸せだよね。」
 といったのはわたしだった、聞いていたのはいつものようにしおりさんとハジメちゃん――それは昨日のことで、わたしは自転車を無軌道に走らせながら、わたしはアタマのなかに、というより肚の底で、色々なことばや想いを反芻している、それはいつものことだが、今の仕事に就いて通勤はクルマになったから日常的に決まった時間に自転車を走らせることはなくなった。
 そういう生活の習慣の異同は大きい。耳にはイヤフォンも刺さっていて、そこからはラジオの音声も流れているけれど、それが録音したものやポッドキャストなのか、リアルタイムで放送されているものなのかという違い以上のものに、それを自転車で聴くのか、クルマで聴くのか、毎日毎週同じタイミングで聴くのか、不定期なのかといったことが――わたし個人の生活にとっては感じられる。

 

 今日は母がカズヒコとチャーちゃんに夕飯を食べさせてくれていて、わたしはこんな夜に、自転車に乗っている。無軌道といっても自宅から数キロ先の書店兼レンタルビデオ店がなんとなく目的地に定まっていて、それを決めたのは走り出してからなのか、家を出る前なのかわたしにももうわからない。寒いさむい冬の夜風が(今日は)気持ちよく感じられて、
「これ、毎週〇曜の夜のルーティンにしたいな――、」
 という気持ちが、漕ぐ足が距離を稼ぐほどに大きくなってくるのをわたしは感じている。そのわたしはここ一年くらい日記を毎日書いている、というのは今書いているこれ(手記)ではなくて純然たる日記で、日記に「純然たる」なんてことばが当てはまるのか、不純な日記があるとしたらどういうものなのか知らないが、ここでいう「知らない」は関西人一般の用例としての、「知らんけど」ではない。

 

「そういうところだよ、侑ちゃん。」
 とハジメちゃんがいった、
「けどさ、日記ってどういうわけか、<神聖視>されてるみたいなところ、ない? <続けたいけど続けられないもの>の代名詞みたいなところ。」
「変だよね。わたし、書こうと思ったことないけど。」
 というハジメちゃんの言い分は彼女らしくて大好きだけれど、友人に対する予断ってのも何なんだろう? と思う。
 自分のこと、(家族や友人まで含めた)他の人のこと、人と人とのあいだのこと、つまりは人間のことは不確かすぎる。
 それでわたしの日記には、

「〇時〇分起床。朝、ヤクルト。トースト、ゆでたまご、コーヒー。仕事〇時~〇時半。〇時〇分帰宅。夜、とり照り焼き丼他。ストレッチ、ヨガ(骨盤・腹筋・肩と背中)。読書。アニメ(『はたらく細胞』)観始める。」

 ――大抵こんなふうに時系列に並べただけの事がらが書かれている。「事がら」も書いていないものの方が多いかもしれない。わたしがいった、
「〝正義は制度化された商品の平等な分配という意味にまで下落している〟――こんなふうに的確なことばっていうか、いま自分が感じていて抱えている想いのカタマリが、精密に言語化されているのを読むと、何ていうか、幸せだよね。」
 というのもいま引用した箇所の日、しおりさんとハジメちゃんに話した前の日、だから一昨日にイヴァン・イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』を読んだ感想の一部なのだけれど、日記にはただ「読書」と書かれているなかにその感想は含まれているし、翌日、だから昨日の日記の「しおりさんとハジメちゃんと新年会(お茶会)」と書かれたなかに含まれている。
 しかしそれもわたしの『コンヴィヴィアリティのための道具』の読書体験のごく一部に過ぎない。わたしは(前にもここに書いたと思うが)読書の際に気になった/琴線に触れた箇所に付箋を貼ることになっていて、最近はだいたい一冊当たり付箋50枚は下らないことになっているから、引用して喋った箇所は単純にいって<わたしの琴線の50分の一>。ということになるが、〝正義は制度化された商品の平等な分配という意味にまで下落している〟はフレーズとして記憶できる長さとインパクトがあるから喋れただけで、ほとんどの付箋を貼った箇所は――わたしの<琴線的まとまり>は、もっとずっと長くて、本を持ち歩いてページを開いて音読しなければ誰かに開陳することはできないし、そんな機会はほとんど起こりえないし、しようとも思わない

 

 

 詩人や道化はつねに、独断的教義による創造的思考の抑圧に反抗してきた。彼らは隠喩を持ちいることによって、想像力の欠如をあばく。彼らはユーモアを用いて深刻ぶりのばかばかしさを見せつける。彼らの心からの深い驚きは、確実なものをぐらつかせ、恐怖を消し去り、麻痺を解く。予言者は独断的信条を公然と非難し、迷信をあばき、人々が知力と正気を生かすように仕向ける。詩や直感や理論は、自覚における革命につながる知恵に逆らって独断的教義が進展していることを暗示することができる。政治的行動から、教会や政府および強制的知識を切り離すことによってのみ、学習のバランスは回復することができる。法律はこういう目的のために用いられてきたし、ふたたび用いることもできる。

 

イヴァン・イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』(渡辺京二・渡辺梨佐 訳、ちくま学芸文庫)より

私たちは消費者社会で富裕になればなるほど、余暇と労働の両面でいかに多くの価値の等級をよじのぼってきたかということを、いっそう鋭く意識するようになる。ピラミッドに高くのぼるほど私たちは、ただたんに何もせずのんびりしていることや、明らかに非生産的な目的追求に時間を投げ棄てることができにくくなる。近所の鳴鳥を聴くよろこびは、「世界の鳥の歌」と銘打ったステレオ録音のレコードによってたやすくくもらされてしまうし、公園での散歩はパッケージ化されたジャングルへのバードウォッチング・ツアーの予行演習までたやすく格下げされてしまう。あらゆる社会的関与が長期間にわたるものになるとき、時間を節約することはむずかしくなる。


前掲書より

 

生命学(biology)は、普通「生物学」と訳される。この言葉は、医学ではあまりに〝生「物」(もの)学〟でありすぎる。さらにヒトを中心に据え、あたかもヒトの身体が特権的であるかのごとき生命学が医学である。人間の治療を目的とする学の存在の権利を奪うつもりはないが、広大な生物たちの文脈の中に据え直す必要がある。私達医者は空気が一方に流れる鳥類の肺が、往復運動を必要とする哺乳類の肺よりすぐれていることを忘れがちである。鯨類が数十分を無呼吸のままで海中に過ごしうることを閑却しがちである。彼らにおいては、その筋肉のミオグロビンに酸素が結合することによって、この奇跡が実現されるのである。

 

中井久夫『治療文化論 精神医学的再構築の試み』(岩波現代文庫)より

 病者と非病者とは、対をなす概念ではないことを強調したい。病者が「有徴者」(印のついたもの the marked)であるのに対して、非病者は無徴者であるから、「非病者」という否定的表現しかできないはずであって、「健常者」ということばはおかしい。ただ、ここでのみ、この表現を意図的に誤用して、「健常者症候群」とでも言うべきものを抽出しようとした。もっとも無徴者の「病い」ということは定義によって言いえず、したがってここでは点線を用いている。

 

前掲書より

 

「<これから読む本が一番面白い>っていうコンセプトなのね。」
「読む前に紹介しちゃうんでしょ。」
「本は自分のなかに買う理由があるから買うわけ。
 買ってみたってのはつまり、自分が知っていることがここまであって、この本には知らないことがある――その続きとして知らないことがあるかも知れない、っていうところで買うわけだから。」

 

 本屋兼ビデオ屋には入るには入ったが今日は何も買わなかった。帰り道にラジオからYouTubeに切り換えて聴き始めたら、こんな会話が耳に入って来た(blkswn radio「佐久間裕美子さんと本屋lighthouseへ|黒鳥本屋探訪〈これから読む本が一番面白い〉第1回 前編」)。
 うんうん。激しく同意。すぐにでも誰かに、というかしおりさんとハジメちゃんに話したい――そう思えるのは彼女たちが、個人的に肚落ちしなかったとしてもわたしの話を<分かってくれる>、という予断があるからだ。やっぱり何か買えばよかったか。

 

 帰ってきたらチャーちゃんは母と一緒に寝ていて、カズヒコがリビングで勉強をしているのかYouTubeを観ているのかそれらを同時にしている風情の隣りで、母の作ってくれたシチューを温め直して啜りながら、ふだんはやらないのだが、「自分の日記の読み返し」をしてみると、やっぱり書いているのは日々のルーティンばかりで、イレギュラーなことのほうをおそらく意図的に書き落としているように見える。

 

「『ように見える』って、自分で書いているんでしょう?」
 というのはしおりさんの突っ込み。動作に無駄な要素の少ないしおりさんが、珍しく器のなかで溶けかかったアイスクリームを、スプーンでくるくる手慰みのように引っかき回していた――ほら、それもまたわたしの予断だった。
「そんなことよりとにかく、今は中井久夫先生なんですよ。学部は違うけれど、わたしが通っていた頃に同じ大学に中井先生がいたなんて、わたしなんて一方的に先生の著作を読んでいるだけの人ですけど――、だけどいま、中井先生が何十年も前に書かれたことに救われる気持ちになったり、<同じ大学>くらいの繋がりを貴重なことに感じられたり、本読みの愉しみって、そんな些細なところにあるっていうか、それが全部っていってもいいですよね。」
「そう、思えることがね。」
 しおりさんは手を止めて、いつもそうするように、相手の、今はさしむかいのわたしの眼を見つめながらいった。

 

 

シリーズ「日々のレッスン」について

日々のレッスン」は、フィクションと日記のあわいにあるテキストとして、不定期連載していくシリーズです(できれば日記のように、デイリーに近いかたちで続けていけたら、と考えています)。また、それにApple Musicから選曲した<野鳥音楽>プレイリストを添えた「日々のレッスン ft. Bird Songs in Apple Music」を、月1、2回のペースで更新しています。

 

【日々のレッスン・バックナンバー】

 

【本連載「日々のレッスン」の前作に当たる拙著・小説集『踊る回る鳥みたいに』、AmazonSTORESとリアル店舗(書店その他)にて発売中です。】

日々のレッスン #017――めまぐるしく世の中が動く、だがどれほどめまぐるしくても、体内の調整ほどめまぐるしくはない。

写真は高尾山(和歌山県)、2023.1.1

 

 年末から年始にかけては宗教と植物になりそうだった。

 

 というのはわたしの読書記録の話で、きわめて個人的な話だが、だからこそ様々な社会的要因に影響を受けている。佐野亜裕美さん。「テレビドラマのプロデューサー」に注目してテレビを、ドラマを観るというのはわたしにはほとんど初めての経験だったが、『エルピス―希望、あるいは災い―』というドラマを観始めて、エルピスというタイトルがギリシア神話の<パンドラの箱>に由来することを知って書店に行き、ずいぶん昔、学生時代に読んだ、

 

・阿刀田高『ギリシア神話を知っていますか』(新潮文庫)

 

 という文庫本をもう一度参照するつもりで手に取ってレジに向かいかけたそのとき、新潮文庫の同じ<あ行>の著者の棚に遠藤周作『イエスの生涯』を見つけてそちらを購入したのは、『エルピス』を観始めてすぐだった。
 だからその日は二〇二二年十月の初めなのだが、今これを書いているのは十二月二七日で、『イエスの生涯』を読み終えたのはそれよりちょっと前で、この同じ手記の直前の部分を書いた翌々日だったから十二月十三日だった。パンドラの箱の概略については『ギリシア神話を知っていますか』の立ち読みで済ませた。しかし十五年以上前に読んだ文庫がそのままのカタチで販売され続けているのはすごい、調べてみたら現在売られているものは一九八四年改版とある、初版は単行本で一九八一年らしい。やっぱりすごい。なのでつい今、Kindle版をポチった。一九七三年初版の『イエスの生涯』ももちろんすごい。
 それで宗教と植物だけれど、遠藤周作『イエスの生涯』を皮切りにキリスト教に限らず宗教と人間の関わりについて書かれた本を買い漁って読みかじっている。しかしまずは『イエスの生涯』で、十二月十一日にわたしは「イエスは奇蹟を起こすことが得意で、だからそのことが好きだったのだ」みたいなことを書いたけれど、それは早とちりそのものだった、イエスは実際には何もできなかった。「何もできないこと」こそがイエスだった。

 

 イエスは民衆が、結局は現実に役に立つものだけを求めるのをこの半年の間、身にしみて感じねばならなかった。彼は愛の神と神の愛だけを説いたのに、それに耳傾けたのはごく少数の者にすぎなかった。弟子たちでさえ、彼の語っていることの真意を理解してくれなかった。弟子も民衆も「愛」ではなく、現実的なものしか彼に求めてこなかった。盲人たちは眼の開くことだけを、跛は足の動くことだけを、癩者は膿の出る傷口のふさぐことだけを要求してくるのだった。

 

遠藤周作『イエスの生涯』(新潮文庫)より

 

『エルピス』は野心的な、そして魅力的なテレビドラマでありエンターテインメントでありそれゆえに優れた社会批評でもあったが、そのラストは現実世界(そして現実の政・官・財/界)より後退してしまっていた、エンターテインメントが現実に起きていることを題材に採るなら、その一歩先を描いてみせることが真骨頂だと思うが、『エルピス』のラストは現実よりも美化された正義が、現実よりも矮小化された悪と、なけなしの果実を手にするために「手打ち」するのだった。その「手打ち」をするために闇に葬られた、政権を転覆し社会を混乱に陥らせるとされた「スキャンダル」のカードは、おそらく二〇二二年の現実世界ではそこまでの効力を持つワイルドカード足り得ないだろう(それじたい狂ったことだが、この国では残念ながら、そうだろう)。
 日本で暮らしていたらそのことは肌感覚でわかる、だからこれほどの才能の集結したドラマの作り手たちがそれに気づいていないはずはない、あの結末じたいが今ここにこのようにしてある現実との「手打ち」なのだとしたら、あれほどさわやかにフィクションの幕を下ろすことは果たして正解なのだろうか――それすらも忖度、配慮の産物だというのでしょうか?

 

 めまぐるしく世の中が動く、とよく言われる。だが、どれほどめまぐるしく動いていようが、体内の調整ほどめまぐるしくはない。呼吸、体内の管による物質の運搬、濾過、排出。温度調節、圧力調節、水分調節。外敵の退治。人間と植物に共通するこれらの機能こそ、めまぐるしいという形容詞にふさわしいのであって、プライベートジェット機に乗って世界を飛びわたる大富豪のめまぐるしさは、植物のめまぐるしさには、もっといえば、大富豪の体内の細胞のめまぐるしさにさえも、はるかに及ばない。

 

藤原辰史『植物考』(生きのびるブックス)より

植物考

植物考

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 では、「ブッダのように修行して生きる」とは、どんな生き方でしょうか。
 誤解を恐れずに一言で言えば、それは「愉快な生き方」です。仏教は、各自が自分の愉快な生き方を学ぶための参考書だということを、これからお伝えしていきたいと思います。

 

藤田一照『ブッダが教える愉快な生き方』(NHK出版)より

 

 二〇二二年最後に観た映画はチェコ・ウクライナ合作の『異端の鳥』(ヴァーツラフ・マルホウル監督、2019年)だった。ナチス・ドイツによるホロコーストを逃れて放浪する少年が、行く先々で「異端者」として爪弾き、どころかありとあらゆる虐待を受け続ける姿は、聖書物語のイエスと重なる。
 あまねく地球上に広がった人間世界も、「地球上のすべての多細胞生物の重量の九九・七パーセントをも占めている」*1植物から見た環世界の豊穣さ、多様性、懐の深さには、遠く及ばない。そもそも植物たちはわたしたち人間に用はない。用があるのはわたしたちだ。人間世界そのものの大きさの何倍にも、あまねく拡大してきた人間の愚かしさを、気がついたわたしたちのごく一部が活写しても、九九・七パーセントがそこに描かれていなければ、世界にとっては十分とはいえない(単純な事実として、〇・三パーセントよりもさらに狭い範囲しか描出できていないことになる)。
 庭のモッコクには、カズヒコが今朝も挿したミカンの半実にメジロが一羽来て、しかし後から来たスズメのペアに追い出された。
狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い」(『マタイによる福音書』第七章十三節)

 

異端の鳥(字幕版)

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映画『異端の鳥』は、Amazonプライムビデオで会員無料にて配信中(2023.1.1現在)

 

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*1:(藤原辰史『植物考』)より。

日々のレッスン #016――「得意なこと」と「好きなこと」。

 

 子どもでなくても得意なことばかりやりたくなるのは道理で、わたしの場合、学生時代のそれはサッカーであり、それ以上に中高生のころは学校の勉強というかテストだった。テストとなると順位が出て、自分の「実力」が数値として目に見えるし、わたしの親は「学年10位以内でいくら」「学年3位以上でいくら」「全国模試で何番でいくら」と、小遣いというカタチでわたしたちにインセンティヴを与えていた。わたしはテストの点を取るのが得意で、学業で躓いたことがなかったからそれを「好き」だと思っていた。だから地域振興の活動をする地元の同世代くらいが運営する団体のマニフェストというのか、ウェブサイトの<About Us>に、「ぼくら」の「ふつう」として、
「学校の勉強は嫌いだし――」
 と書かれているのには違和感を禁じ得なかった、子どもにとって(オトナにとっても)得意なことは好きなことだという自覚がある。たとえそれが錯覚というか、見当違いのことだったとしても。というのは「得意なこと」と「好きなこと」を同一視すること、混同することの危うさはオトナにならないと、ある程度経験を積まないとわからない。ずっとわからない人もたくさんいる。

 

 いや、本当にそうか? いまチャーちゃんはすごい勢いで縄跳びが上手くなっていて10回20回跳べて喜んでいた数日間から、一週間もすると連続二〇〇回オーバー、みたいになっていてそばで見ているオトナの実感としては指数関数的と感じるくらいの上達ぶりで、本人も得意になっていて縄跳びは毎日の「宿題」でもあって、宿題は「誰でも面倒なモノ」「嫌なモノ」という先入観がオトナのわたしたちにはあるが、チャーちゃんにとっては少なくとも縄跳びはいま、毎日やりたいこと、大好きなことになっているように見える。

 

 同様にお風呂に入れば湯気で曇った鏡や壁に、毎日習いたての漢字をつらつらと得意げに書いていくチャーちゃん。「ふつう」に言及すること自体に、どんな時代であっても危うさが内包されるのだから、細心さ、心砕きが不可欠だ。
「好き」について考えること、表明することも。詩人・小説家の最果タヒさんの本に自身の好きなものやことについて、三種のテキストで書き分けた名著、『「好き」の因数分解』というのがある。かように「好き」は、多角的に考える必要がある。

 

 この物語はイエスが彼女の病を治すという奇蹟物語を混じてはいるが、私たちの心を動かすのは彼女の病気がイエスの奇蹟で治されたという結末よりも、おずおずと衣服に触れたその女の指一本から彼女の切ない苦しみのすべてを感じとったイエスである。たくさんの人々の蔭からそっと差しだされた女の指、衣にかすかにふれただけでイエスはふりむく。彼は彼女の苦しみのすべてがわかったのだ。我々にはその時の女の怯えた顔もイエスの辛そうな表情も、このおずおずとした指一本からはっきり想像できるのだ。


遠藤周作『イエスの生涯』(新潮文庫)より

 

 イエスの「慰めの物語」のリアリティを論じた遠藤周作のこのテキストから、人々の「苦しみのすべて」を感じとることは、イエスにとって「得意なこと」だったのだろうとわたしは考える、それは換言すれば精神科医・中井久夫のいう<S親和者>の、兆しを察知する能力のことではないか。あまりに得意だったためにイエスは人々を慰め、奇蹟を起こすことが好きだったのだ、それはひとりの人間の人生としては、キワキワの危うさを含んでいたとわたしには思えてならない。
 子育てはムズカシイ。カズヒコとチャーちゃんが――こういっては彼らに対して無責任であるともいえるが――「実の子」ではないことでわたしには少しだけ、荷が軽くなる心地がするのだった。それが彼らの心身にも「軽み」を与えるものだと、いまは信じたい。

 

 

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日々のレッスン #015――ハッピーなベイビーによる「ハッピーベイビー」。

 

 人間的で、しかも春のあかるさのようなこの婚姻の話を、ヨハネ福音書がイエスの初期時代に織りこんで語っているのは決して偶然ではない。それは荒涼たるユダの荒野の冬の修業時代と対比させるためである。ユダの荒野に欠如しているものとこの荒野の教団のもつ神の暗いイメージをのり超えたイエスをここで浮きぼりにしているのだ。若者たちの愛の結婚式を悦ぶイエス。笑われ、次々と酒を飲まれるその顔と、あの毛皮を身にまとい、革の帯をしめて人々に神の怒りのみを叫ぶ洗者ヨハネの顔とを比べるといい。そこには荒野とヨハネ教団を超えられたイエスのあかるい悦びがある。

 

遠藤周作『イエスの生涯』(新潮文庫)より

 

 リコさんのストレッチ&ヨガのYouTubeは思想性、宗教性を排したスポーティなエクササイズに特化したものであって、だからこそ日常的かつキラクな愉しみと実用的なものとして行うことができる(だから人気がある)。わたしにもヨガの思想的バックグラウンドというか、体系としての、行法としての、宗教的行為としてのヨガの知識は皆無なのだが、リコさんにとっては違うらしいことは本人からほのめかし程度に訊いたことがあるからだけではなくて動画を見ているだけの、それをマネしながらポーズを取っているだけのわたしにも、感じられる(ような気がする)。
 ヨガが元来は解脱のための行法であることは、ムチモウマイなわたしにさえ、Wikipediaの一行目を読むだけでわかるが、その「わかる」は「わからない」の一部としての「わかる」で、「何もわからない」と同じ意味の「わかる」だ。

 

 妹がリコさんのところ、すなわち北米(初めはワシントン州、そしてオレゴン、いまはテキサス)に渡って、カズヒコやチャーちゃんとわたしが三人で暮らすようになって五年になるが、そのあいだずっと毎日、わたしはリコさんのストレッチ&ヨガを続けてきたが、チャーちゃんが「ぼくもやる」といって入ってきたのは今年の秋の一週間だけだけだった。
 子どものすることだからきっかけはそのときヒマだっただけかも知れないし、そのとき「面白そうだ」と思ったのかも知れないし、そのときの気まぐれだったのかも知れないし、要するに「そのとき」「そうだった」というだけで理由になる。というか、「そのときそうする」ことに、実のところ子どもでなくても因果はいらない。
「因果」の語源がいうまでもなく仏教語だから話はややこしいのかそれも因果なのかわたしにはわからないが、いまたまたま手許にある『旺文社 国語辞典[第八版]』に拠れば、
《[仏]原因と結果のこと。善因には善の果報、悪因には悪の果報があると説く。》
 とある。

 

 チャーちゃんはずっとスポーツ/運動をしてきたわりに身体の硬いわたしとは対称的に柔らかくて、気がつくと自分の足指を口許に持ってきて舐めるふりをしている(もっと小さいころは本当に舐めていた)。仰向けになって両脚を膝を折って開き、足裏をそれぞれの手でつかんで足裏と手のひらを押し合うようにする、「ハッピーベイビー」のポーズなんかはチャーちゃんには楽勝すぎて、どこにも力がかかっていないようでエクササイズにはなっていないように見えるくらいで、でもそれはチャーちゃんがハッピーなベイビーで少年であるからかも知れない(と、「わからない」ことは「わかっている」つもりのわたしは思う)。

 

 遠藤周作のキリシタン弾圧を描いた小説『沈黙』を映画化(2016年)したマーティン・スコセッシはインタビューで以下のように答えている。

 

 私は人生のかなりの部分を、宗教への思いや習わしにとらわれてきました。信仰について考えることなど、やめてしまおうと思ったことも何度かありましたが、そのたびにやはり、宗教的な物語や観念に戻ってしまいます。信仰については今も疑問であり続けているからです。だからさまざな作品で、取り組もうとしました。


『沈黙 ―サイレンス―』日本版パンフレット掲載のインタビュー(取材・文:南波克行)より

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 わたしとチャーちゃんの一週間のストレッチ&ヨガはほんの遊戯のような、そのままの意味で一時の戯れ、お遊びみたいなものだったとしても、止むに止まれぬ理由で子どもたちを残して海を渡った妹の心の拠りどころになっているはずだし(わたしは一日分のそれを動画に撮ってLINEで妹に送った)、一週間で飽きたチャーちゃんにとっても、そのときのその時間を心から愉しめたのなら、彼にとっても何かだっただろう、わたしにとってはそうだった――わたしとカズヒコとチャーちゃんはここにいて、リコさんと妹は向こうに、画面の向こうであって太平洋の向こう、テキサスにいる。
 テキサス州パリス、という小さな街を舞台にした奇妙な映画、でも大好きな映画、『パリ、テキサス』をまた、観返したくなった。

 

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日々のレッスン #014――“大きな手(The Big Hand)”

 

 カズヒコがCOVID-19陽性となり、カズヒコも含め家族で自宅待機。小学一年生のチャーちゃんも、学校支給のタブレットでリモート授業となった。端末は政府/文科省による「GIGAスクール構想」の施策で一番よく見かけるマウスコンピューターのWindowsタブレット、「Mouse Pro-P101」というシリーズ。型番はいまこれを書くために調べたし、「GIGAスクール構想」という教育政策の本質もわたしにはよくわからない、ICTとかDXとかの流れで文教分野でもコンピューターに慣れ親しむというのか、インターネットやプログラミングを学んだり――そこへちょうど、というと語弊があるがコロナ禍がやってきて(しかしそれは構想の外=想定外だったはずだ)、施策によって整備された端末がリモート授業に使われたりしているのだろう。

 

 先日の忘年会でみんなにいったとおりに、チャーちゃんとわたしは今年の数日間、一緒にストレッチ&ヨガを続けた。今や経理事務が板についたわたしだが、元々はスポーツジムのインストラクターだったのであって、毎日自分の身体を動かす、というより整えておくことにはずっと関心があり続けてきた、けれど体系的なトレーニング方法を組み立てるのは昔から不得手だ。その代わりに好きなのは、例えばこんな「大きな手(The Big Hand)」だ。

 

視覚化(ヴィジュアライゼーション)

 

 走ることで生じる自然な意識の流れがある。ランニング中に頭をよぎる志向の流れを自覚できる人は心地よい驚きを感じるだろう。こうした意識の状態を高めるツールとして、私はさまざまな誘導イメージを用いる。その筆頭は名づけて「大きな手(The Big Hand)」だ。
 このエクササイズでは、背中全体に添えられた大きな手に後押しされるのを視覚化しながら、シャッフルやフレッシュスイングで走る。疲れを感じたら、その手にもたれてみよう。
 もうひとつの視覚化は、髪の毛の上からあなたを直立させる天空の鈎(スカイフック)を心に描くものだ。それはあなたをつかんだまま、地面の上を引っ張っていってくれる。

 

マイク・スピーノ『ほんとうのランニング』Beyond Jogging : The Innerspaces of Running(近藤隆文訳、木星社)より

 

 とにかくデイリーなストレッチのルーティンも、自分では最適解を得られないので先達に頼る。いまのわたしのメンターは、スポセンの先輩でゴンダさんの門下生のリコさんだ。リコさんのストレッチはご本人の体操競技およびヨガ修行の経験のミクストで、彼女のYouTubeチャンネルは一動画につき数百万再生レベル。女子サッカー部に所属していた学生時代はチームのトレーニングメニューで、「どんぐりのスポセン」に勤めていたころはスポセンのそれでこと足りていたが、退職後はもっぱらリコさんの動画がテキストだ。リコさんに直接教われればいいところだが、彼女はいまテキサスにいる。

 

 画面の向こうのチャーちゃんの野那先生とクラスメートたちの姿は、低スペックPCのMouse Pro-P101だからかジャギーの出た粗い動画だが、それでもタブレットの音は意外と悪くなくて臨場感がちゃんとある。それにこちらはオトナにもコドモにも物珍しさがあってチャーちゃんに訊いたわけではないが学校での授業よりリラックスした、娯楽めいた愉しささえあるんじゃないだろうか。何より野那先生の授業での落ち着いた振る舞いが素晴らしくて、先生はまだ採用三年目とか四年目とかのはずだが学校生活、すなわち社会生活にいまだ馴致していない小学一年生を上手にハンドリングしている――なんてわたしが上段から評価めいたことを思うのもはばかられるくらいだった。

 

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日々のレッスン #013――飛ぶものたち、這うものたち、歌うものたち。(ft. Bird & Bug Songs in Apple Music)

写真はシーボルトミミズ(2018.11、和歌山県某所)

 

<自分にとっての今年の重大ニュース>を披露していこうというしおりさんの提案に、ハジメちゃんもカズヒコも、そしてゴンダさんも淀みなく回答していくからわたしはひるんでしまった。
 わたしの以前の職場――「どんぐりのスポセン」と呼ばれていた公営のスポーツジムで、管理者を定年まで務めていたゴンダさんは、退職後、小説家になっていた、「なっていた」というのはおかしいかも知れない、在職中は誰が名付けたか、利用者にもスタッフにも「ドンじい」と呼ばれ親しまれていたゴンダさんは人好きのする、自らも世話好きの人間だが、スポセンに在職していた二〇年間ずっと小説を書き続けていた。

 

 そんなゴンダさんにとっての重大ニュースは、今年初め、大手出版社の新人文学賞を授賞して「作家デビュー」した、わたしたち外野からは誰でもそう見えるけれど、ゴンダさんの第一の回答は、
ハイキングでシーボルトミミズを見た。
 だった。それを訊いてわたしも「<重大ニュース>ってそういうことだったのか!」と思えることができてそれならば、と、
「わたしの<重大ニュース>……ひとつめは小説家、梨木香歩さんの本に「再会」したこと。二つめは秋山あゆ子さんの『虫けら様』というマンガに出合ったこと。それともうひとつ、わたしの十年来の日課、寝る前のストレッチ&ヨガをチャーちゃんが一緒にやってくれた一週間。」
 そんなふうにまくし立てた。ひとり一個ずつ、何周もする予定だったんだけど、としおりさんはいいつつ、
「『虫けら様』、気になる題名です。」
 ゴンダさんと声を合わせた。ゴンダさんのいうシーボルトミミズは胴体の厚み(=体幅というらしい)14~15ミリ、体長四〇センチはある巨大なミミズで、およそ自然物というか有機物というか生きものには見えないブルーというかバイオレットというかグリーンというか、そのどれもが入り混じったような色と金属みたいな光沢を放っていた、というのはわたしもカズヒコと自然観察会で歩いた林道で見たことがあった、そのシーボルトミミズは確かに、ひるむくらいデカくて美しい。初めて見たときは、地下水を汲み上げるホースか給水管かと思ったくらいだった、
「沢歩きの会で滝の前でみんなで昼食を摂ってたら、ニョロッと出てきたんだよ。」
 とゴンダさんはいった。

 

「『虫けら様』も突然の出合いで。去年くらいかな、隣りのS町に小さな本屋さんができたでしょう?」
「知ってる。わたし、すぐ行ったよ」とハジメちゃん、さすがの行動力。「そこの隣りのコーヒーもおいしいんだよ。」
「そうそう。わたしは最近初めて行ったんだけど。確か○○民報の<読書の秋>特集みたいな感じでインタビュー記事が出ててさ、『日々の暮らしにまつわる本を集めた小さな書店です』って店主のMさんがいってらして。」
 Mさんは朗らかな女性でわたしと同世代で、「暮らしにまつわる」といったらわたしやわたしの世代(という言葉を安易に使うのもどうかだが)にとっては、ひと頃のマガジンハウスの雑誌――『クウネル』とか、あるいは『暮らしの手帖』とかイラストレーターの大橋歩さん(彼女も『アルネ』というリトルプレスの雑誌を発行していた)とかそういうイメージで、確かにMさんの店にも土井善晴さんの『一汁一菜でよいという提案』とか、間違いなく<地に足のついた暮らし>の本たちもあったけれど、わたしには、ダイアン・アーバスの写真集やジョージア・オキーフの画集、チョコレートにまつわる本や『ちびくろさんぼ』から韓国の新進作家までが並ぶ絵本たちに混じって、というよりシームレスに違和感なく書棚に佇む、

 

・秋山あゆ子『虫けら様』『こんちゅう稼業
・佐伯真二郎『おいしい昆虫記
・川上和人『鳥類学者だからって鳥が好きだと思うなよ

 

 そんな類の本が輝いて見えた。なかでもわたしには初見だった、それでもひと目で<ガロ系>とわかる絵柄の秋山あゆ子さんの、虫の虫による虫のための世界、とでも呼べそうな幻想的で夢見がちでしかし異様なほど生活感とリアリティのある虫けらたちの暮らしを描いたマンガのトリコになった、それは確かに、わたしが挙げた<重大ニュース>のあと二つ、梨木香歩さんの作品群とチャーちゃんとのストレッチ&ヨガの日々と比肩する、かけがえのないものだった。

 

 

プレイリスト「2022.12_Creep(Bug's Life)」

※以下、選曲は全て、「演者/曲名」で表記しています。
※下記プレイリスト名のリンクより、Apple Musicで聴くことができます(Apple Musicのメンバーシップが必要です)。

2022.12_Creep(Bug's Life)」(選曲:ソト

M01. 当真伊都子/Lemon Grass
M02. Daniela Andrade/Creep (Radiohead Cover)
M03. Birdspotter/Oracle
M04. Anya Taylor-Joy/Downtown (Uptempo)
M05. Sobs/Air Guitar
M06. Fairport Convention/Who Knows Where the Time Goes?
M07. Deerhoof/Small Axe (Bob Marley Cover)
M08. Lana Del Rey/Yosemite
M09. Elise Trouw/How to Get What You Want
M10. Mrage Op.2 (feat.長澤まさみ)/Mirage Collective, STUTS, butaji & YONCE
M11. モノンクル/FLOWER
M12. TLC/Creep

Radiohead - Creep (cover) by Daniela Andrade - YouTube

 

シリーズ「日々のレッスン」について

日々のレッスン」は、フィクションと日記のあわいにあるテキストとして、不定期連載していくシリーズです(できれば日記のように、デイリーに近いかたちで続けていけたら、と考えています)。また、それにApple Musicから選曲した<野鳥音楽>プレイリストを添えた「日々のレッスン ft. Bird Songs in Apple Music」を、月1、2回のペースで更新しています。

 

【日々のレッスン・バックナンバー】

 

【本連載「日々のレッスン」の前作に当たる拙著・小説集『踊る回る鳥みたいに』、AmazonSTORESとリアル店舗(書店その他)にて発売中です。】

日々のレッスン #012――わたしはエイミーとともに掃除をした、それでいい、それくらいがいいという一日がわたしにはある。

 

 朝、エイミーと掃除。エイミーというのは所謂お掃除ロボットで、我が家に来た初めてのお掃除ロボット。カズヒコやチャーちゃんと同様、他の子と比較したことがないので彼女の掃除スキルがルンバなどの先行機種、お掃除ロボット界の<代表メンバー>たちとどう違うのかわからない(実は興味もない)。
 というよりふだん、エイミーを使うのはもっぱらカズヒコでせっかく知人からの頂きもののエイミーだが、わたしはつい、
「自分でやったほうが早い。」
 となってしまって、エイミーで/と掃除をしたことがなかった。
 今朝は「エイミーが掃除をするのを眺めながらコーヒーを飲む。という優雅なひとときを過ごそう」というのを思いついたが、朝食とともにコーヒーは摂ったあとだったし、文庫本を開きながらエイミーのスイッチを入れたが、現実にはとても本を読んでいるバアイではなかった。

 

 掃除をしようと思った通称<第二リビング>はこの、わたしたちの実家で妹が夫婦と子どもたち、雅文くんとカズヒコとチャーちゃんと過ごすために増築した部分で、ただ<第二>と略していつもは呼んでいるこの一階の上にはカズヒコとチャーちゃんの子ども部屋がある。
 その第二リビングは白木のフローリングだが、センターラグを敷いていてエイミーは床とラグの段差をうまく越えることができない。しかしわたしが掃除したいのは部屋の大部分を占めるそのラグの上であって、ラグの周囲をイスやテーブル、その辺の函を使ってエイミーに対して結界をこしらえた。壁にぶち当たるとエイミーは身を翻してあり得べき壁を確認するように半転回してぶつかりつつ前進する。家具やモノで囲めない一角はエイミーに寄り添ってわたしが牛歩で、わたしの足先で<動く壁>を作っていった。

 

 それが奏功して、センターラグ全体の掃除を達成。――そもそも「エイミーが掃除をするのを眺めながらコーヒーを飲む/文庫本を読む」という了見がいけなかった、それではわたしとエイミーとのあいだに支配‐被支配の権力構造が発生してしまう。いや、それは端から内在しており、露呈するのか? いずれにしても、わたし=人間がロボットを使役する関係および、その光景そのものが気色が悪い、とエイミーとともに掃除をしたあとで気づいたわたしは胡乱だった、そもそも<ロボット>という言葉の定義自体にその気色悪さが含まれているのだとしても同じことだった。

 

 その日はわたしの仕事(勤めに出る労働)は休みでカズヒコとチャーちゃんは学校で、わたしは外出しなかったのでヤクルトさんがいつものを届けに来てくれた以外は子どもたちの帰りまで誰とも口を利かなかったが、わたしはエイミーとともに掃除をした、それでいい、それくらいがいいという一日がわたしにはあるし、けっこうみんなにも――ここでいう<みんな>が誰かは深く思索を降ろしたわけではない――あるんじゃないかと思ってもいる。
 エイミーという名には、わたしの好きな『エイミー、エイミー、エイミー! こじらせシングルライフの抜け出し方』という映画の主人公で主演俳優(エイミー・シューマー)の名も含意されているし、時々無性に聴きたくなるエイミー・ワインハウスの名も含意されている。
「彼らはわたしをリハブに行かせようとした。」
 と歌ったエイミー・ワインハウス。

 

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シリーズ「日々のレッスン」について

日々のレッスン」は、フィクションと日記のあわいにあるテキストとして、不定期連載していくシリーズです(できれば日記のように、デイリーに近いかたちで続けていけたら、と考えています)。また、それにApple Musicから選曲した<野鳥音楽>プレイリストを添えた「日々のレッスン ft. Bird Songs in Apple Music」を、月1、2回のペースで更新しています。

 

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ポッドキャスト第2弾、ivory booksさんとの対談「読む探鳥会―あるいは、本で愉しむ野鳥や生きものたちの世界」配信中です。

イラストレーションはivory books店主・中村美帆子さん(Instagramより)

 

spotifyanchor-web.app.link

 

訥々と語られながら、しかし誰かの琴線に触れるようなお喋りを。

 

 前回、第1回のポッドキャスト配信の際にこのことを書いたかどうかさえ忘れてしまいましたが、わたしがポッドキャストを始めたい、と思った理由のひとつ――それも、結構大きい比重の理由のひとつは、

・「プロフェッショナルではない人(あるいは「原稿読み」や「喋り」が決してうまくない人)の音読や、喋りが聴きたい。

 というものでした。以前、Amazonのオーディオブック「Audible」と、出版社/コンテンツ・メーカー、黒鳥社のポッドキャスト「blkswn radio」内の朗読コンテンツ「音読ブラックスワン」について書いたときに一度触れたのですが(これは覚えています)、オーディオブックのような書籍の朗読に関して、はっきりと個人的な好みではあるのですが、プロフェッショナルのナレーターの明朗快活な「本読み」よりも、そうではない、普段は編集者をされている、黒鳥社の若林恵さんの音読の方が、わたしには聴き易かった(=聴き疲れしにくかった)のです。

 

【レビュー】“朗読を聴く”という選択肢:Amazon Audibleと黒鳥社「音読ブラックスワン」。 - ソトブログ

 

 ――そういう経験から、滑らかな話し上手なポッドキャストよりも、訥々と語られながら、しかし誰かの(例えばわたしの)琴線に触れるようなお喋りや朗読を聴きたい。そういうものがない(少ない)なら、自分でやってみたい。自分で聴きたい。
 そんな酔狂な動機で始めたポッドキャスト「ア・ピース・オブ・読書」に、快くも付き合って下さる方々がいて、第1回から相方を務めてくれたスギーリトルバード氏、そしてその後、わたしの試行錯誤という名の迷走から、2回目をスムースに配信できずに約2ヶ月が経過するなか、今回、第2、3回のゲストとして登場していただくことになったのが、「ivory books(アイボリーブックス)」の店主・中村美帆子さん。

 

 

 ivory booksさん。和歌山県白浜町という関西随一のリゾートに立地しながら、暮らしや食、美術や絵本など、日々の生活に根ざした様々なジャンルを横断しつつ、新刊・古書を織り交ぜて構成された書棚たち。それらがかつて銀行だったという小さなビルディングの、美しい白壁の一室にたたずんでいる、そんな素敵な書店さんです。

 ジョージア・オキーフの画集やダイアン・アーバスの写真集、『ちびくろ・さんぼ』に加古里子といった絵本、虫や生きものたち:秋山あゆ子のコミック『虫けら様』や蟲ソムリエ・佐伯真二郎による『おいしい昆虫記』、旅や暮らし、食べること:屋久島発の雑誌「サウンターマガジン」から盛岡発のロングセラー、くどうれいん『わたしを空腹にしないほうがいい』まで――が違和感なく、本たち自身が居心地良さそうに肩を寄せあっているこんな本屋さんなんて、なかなかないんじゃないかと思います。

 

※ivory booksさんについては以下の記事でも紹介しています。

 

ポッドキャスト第2・3回は「読む探鳥会―あるいは、本で愉しむ野鳥や生きものたちの世界」。

 

 ここ、ivory booksさんにお邪魔してアマチュア小説家/野鳥文学愛好家(日本野鳥の会会員)であるわたし、津森ソトと、中村美帆子さんの二人でお話したテーマは、題して「読む探鳥会―あるいは、本で愉しむ野鳥や生きものたちの世界」。美帆子さんもわたしも鳥好き、生きもの好きで意気投合したことをきっかけに、

人間は、物語は、本は、人間のことばかり書きすぎ? いやいや、鳥たちや生きものたちを描いた本はたくさんあります。ほらほら!

 ――そんなふうに徒然なるままに本や映画を紹介し語り合った約2時間。1時間弱ずつ、2回に分けて配信していますので、秋の夜長、冬の朝のテーブルや暖かい布団のなかで、ゆっくり聴いていただければ幸いです。

 

 配信はポッドキャストはAnchorSpotifyApple PodcastGoogle Podcastで。YouTubeでもポッドキャストと同じく音声のみでアップしていますので、お好みのプラットフォームから、お聴きください。

 

「読む探鳥会―あるいは、本で愉しむ野鳥や生きものたちの世界【前編】」ア・ピース・オブ・読書 Vol.002 - YouTube

 

プレイリスト「読んで聴く探鳥会 Vol.001」

※以下、選曲は全て、「演者/曲名」で表記しています。
※下記プレイリスト名のリンクより、Apple Musicで聴くことができます(Apple Musicのメンバーシップが必要です)。

読んで聴く探鳥会 Vol.001」(選曲:ソト

M01. 角銅真実/夜だか
M02. Bob Dorough/Three is a Magic Number
M03. Sheila Jordan/Baltimore Oriole
M04. Sevana/Lowe Mi
M05. The Big Moon/Your Light
M06. ELIZA/A Tear for the Dreadful
M07. America/I Need You
M08. Elise Trouw/Line of Sight (Loop Versin) [Live]
M09. Birdspotter/Long Seasons
M10. Alex G/Early Morning Waiting
M11. ホフディラン/病に臥して
M12. Fiona Apple/Across the Universe (Radio Edit)
M13. Harry Styles/As it Was
M14. 原田郁子/かじき釣り

Sevana - Lowe Mi - YouTube

 

 今回のポッドキャスト配信に合わせて、「読む探鳥会」をモチーフにApple Musicでプレイリスト「読んで聴く探鳥会 Vol.001」を選曲してみました。イベントごとや記念日、こんな配信や記事にかこつけて、それを音楽に託すプレイリスト作り、実は個人的に結構、おすすめです。そんな記事もこの「ソトブログ」でたくさん書いてきましたが、こういうカルチャーが、もっともっと拡がればいいのに、と思う今日この頃です。

 

 

【以前の記事から:読書の愉しみを拡げるポッドキャスト、「ア・ピース・オブ・読書」第1回について。】

ポッドキャスト、始めました。読書/本読みの愉しさに色んな角度から光を当てるラジオ「ア・ピース・オブ・読書」配信中です。 - ソトブログ

地元の低山に登り、カフェで映画談義――。日常を描いた小説集『踊る回る鳥みたいに』、リアル店舗展開中です。【書店以外編】

「そういう声に、みんなもっと従うべきなんですよ」
 とわたしはいった。聞いていたハジメちゃんとしおりさんがどういう反応をするか、わたしは会話の先を想像しないわけではないが、当たったことはない。ハジメちゃんは、
「でも結局はそれ、自分なんでしょ?」
 といった。「侑ちゃんは人に興味があるように見えて、本当は自分にだけ興味があるんだよね」
「そうだっけ。それって、」
「悪口じゃないよ。そういうところがわたしは楽だったんだよ」
「わたしはでも、いつもそんな感じだよ」としおりさんはいった。「絶えず自分の心や身体と対話してる」
「ああー、お姉ちゃん」とハジメちゃんはいった。どういうニュアンスの詠嘆なのか、姉妹ってそうだよな、と思った。お姉ちゃん(ハジメちゃんにとってのしおりさん)に対する予断がじゅうぶんにあり、お姉ちゃんがどういおうと、自分にとってのお姉ちゃんの範疇で処理できてしまう。それが本当のお姉ちゃんかどうかわからない。わたしと妹の関係もそうだよな、と思う。
 しおりさんのマッサージのあと、いつものカフェでお茶していたらハジメちゃんがひとりで入ってきて、誰かと待ち合わせというのではなくハジメちゃんもただお茶しに来たようで、わたしたちのテーブルに座った。
「あれ、ハジメもここの餡蜜好きだったの?」
「餡蜜? わたしそれ食べたことない」
「うそー。ここへ来て餡蜜頼まなかったことないですよね?」
「ねぇ」
「そんなに?」
「そんなに」


津森ソト『踊る回る鳥みたいに』(Soto Refireshment Books、2022年)より

 

Kindle Direct Publishingで出版した拙著を、リアルで売りたい、その理由。

 

 わたしの実家である佐賀県、そして現在暮らしている和歌山県――明記はしていないものの両者をモデルにした地方都市で暮らす、30代の女性の日常を描いた小説集『踊る回る鳥みたいに』。
 本書は、Amazonの、書籍をオンデマンド出版できるサーヴィス「Kindle Direct Publishing(KDP)」利用して、出版したものです。それを、AmazonやSTORESといったECサイトだけでなく、現実の場所、リアルな店舗で手に取っていただけたら――。

 そんなふうに思い至ったのは、上述の通り本書がわたし自身が暮らす街の、わたし自身の日常に根ざした物語であること、30代後半から40代半ばの現在までにわたしの生活実感を多分に反映して書いたものであること:だとしたら、オンラインという方法だけではなく、受け手(読者)をより身近に感じられる方法で販売するべきではないか、いや、「べき」というより、
「そうしたいのだ。」と願ったからです。

 

野鳥/映画/登山/アロマテラピー/そして日常――そんな小説集『踊る回る鳥みたいに』、リアル店舗展開中です。【書店編】 - ソトブログ

 

 先には上記の記事の通り、本書をお取り扱い下さっているリアル「書店」さん、3つの店舗を紹介させていただきましたが、今回は、書店以外のお店、喫茶(カフェ)とアウトドアショップ、という、毛色の異なる2つのお店です。

 

<紀南>上富田町「喫茶山猫」

【喫茶山猫】Instagram:https://www.instagram.com/yamanecocco/

 

 和歌山県紀南の最大都市(といっても人口7万弱ですが)、田辺市のお隣、上富田町にある喫茶/カフェ。田辺市に隣接した上富田町の高台、「南紀の台」の住宅街に、隠れ家のように佇む、けれどグリーンの外壁と、猫のイラストのサイン灯がひときわ存在感を放つ「喫茶山猫」さん。店主は紀南、いえ県内でも随一のベースレス・ポップ・トリオ、「メトロロ」(公式Instagram)のソングライター/シンガー/ギタリストでもあるアニさん。

 十数年前にわたしがイベントでDJなどをやらせていただいていた際に、ご一緒する機会があった頃からの旧知ではあるのですが、当時から、歳だけは少し年長のわたしから見ても仰ぎ見る存在というか、とりわけ物語的/幻想的/神話的ともいえる歌詞世界には、日常の延長の地べた、半径2、3メートルのことばでしか文章を綴ることのできないわたしにとっては――、憧憬に近い気持ちを抱き続けてきた方です。

 そんなアニさんが、今年(2022年)2月にオープンされたという素敵な喫茶店が、「喫茶山猫」です。おいしい日替わりランチにコーヒー、手作りケーキ。そしてアニさんの蔵書による本棚、オンライン書店『瑞花堂書店』さん選書による本や、様々な作家の方の雑貨の販売など。それら全てが、違和感なく調和することで、「喫茶山猫」という小宇宙・空間の居心地のよさを作り出している、そんなお店です。
 わたしの本が、そんなミクロコスモスの邪魔にならなければと思いつつも、こちらでは未知の方に手に取ってご購入下さる機会がすでに何度かあり、たいへん有難く思っています。

 

店舗情報:喫茶山猫Instagram
和歌山県上富田町南紀の台5-39
Open:9:00-17:00(日曜定休)
※その他店休日、イベント開催等詳細は喫茶山猫さんのInstagramをご確認下さい。

 

<紀南>田辺市「STOCK OUTDOOR(ストック アウトドア)」

【STOCK OUTDOOR】Webショップ:https://stockoutdoor.theshop.jp/

 

 数年前から日本野鳥の会に所属し、野鳥観察を始めとしたアウトドアに親しんでいたつもりの不肖・わたしですが、田辺市、あるいは紀南のアウトドア・アクティビティの拠点/発信基地ともいえる存在のこの「STOCK OUTDOOR」さんを昨年(2021年)まで知らなかったのは、無知蒙昧の謗りを受けても仕方がない、――それくらいのスポットだと感じています。

 話を急ぎすぎました。店主は新田浩司さん。豊富な知識と、ネイチャーガイドの資格等も持たれ、様々なアウトドア・イベントの企画や地元情報誌への寄稿など、八面六臂の活躍をされながら、柔らかな物腰と優しい語り口で、訪れるお客さん、地元アウトドアラーからも愛される存在。わたしの初歩的な質問にも、いつも丁寧に答えて下さいます。今年の春、拙著『踊る回る鳥みたいに』の宣伝フライヤーを作成したときにも、快く置いて下さり、それからわたしがいくつかの店舗で本を扱っていただけるようになって、

「やっぱり、山のこと、鳥のこと、自然のことを書いているこの本を、ストックさんにも置いて欲しい!」

 と思いお声がけしたときにも、引き受けて下さいました。一見おっとりした語り口、風貌からは想像できないくらい、野心的な試みを続けられている新田さん/「STOCK OUTDOOR」さん。そんなお店に本書を扱って下さっていること、本当に僭越ながら、感謝。こちらでも本書が、<新田的ストック世界>にどれくらい馴染んでいるか心許ないのですが、「アウトドア好き、山好きや鳥好きで、しかも小説が好き」と言う方がいらっしゃいましたら、ぜひ、こちらで手に取っていただけたら嬉しく思います。

 

店舗情報:STOCK OUTDOOR(ストック アウトドア)WebショップInstagram
和歌山県田辺市下万呂577-1 サンフェストプラザ1F
Open:11:00 -19:00(火曜定休)
※その他店休日、イベント開催等STOCK OUTDOORのWebショップ、Instagram等をご確認下さい。

 

和歌山・紀南にお越しの際はぜひ、上記のお店へ!

 

 リアル店舗での販売は、すべて、<野鳥文学>の目線で文学作品を紹介するミニ・エッセイ「<野鳥文学>の世界へようこそ」とその表紙代わりの野鳥写真ポストカードを付録として、850円(税込)で販売しています。どうぞよろしくお願いします。
 また、同ヴァージョンはわたし自身のオリジナル・ストア「Soto Refreshment Books」(STORES)でも通販していますが、こちらは850円+送料150円となります。和歌山にお越しの際はぜひ、リアル店舗で実物を見て、お買い上げいただきますようお願いします。どちらも個性的で素敵な書店さんばかりです。

 

Amazonでの販売はこちら(ペーパーバック書籍:750円、電子書籍:250円)。電子書籍版はKindle Unlimited対象タイトルです。

 

【以前の記事から:書店での取り扱いはこちら。】

野鳥/映画/登山/アロマテラピー/そして日常――そんな小説集『踊る回る鳥みたいに』、リアル店舗展開中です。【書店編】 - ソトブログ

 

日々のレッスン #011――ハロー世界。わたしはいつも空腹で、だからおいしく食べられることが本当に嬉しい。

写真はエゾビタキ(2022.10、和歌山県某所)

 

「メジロ。/夕方、書斎のソファーに(いつものように)よこになっていると、メジロ一羽、ムラサキシキブの枝の脂身に来て、つつく。」(庄野潤三『鳥の水浴び』)。こんな書き出しで始まる、日常を切り取った老境の長編小説。こんなふうに生きたい。何もしたくない一日がある。何もしたくないが一ヶ月続くことがある。でも朝起きては朝食を食べて仕事へ行き、わたしは帰って来るということは繰り返している。「何もしたくない」はそれからのことで、今書いているようなこれ、「日課にしたい」と思って書いているこのこれ、この文章さえも書きたいと思えなくなる。

 

 そんなときに、えいやっ、という気持ちで寄った書店ででも、心地よい時間を過ごすことができて、欲しかったと思う本を手に取ることができた、そんな時間と場所は本当に貴重でありがたく、そんな空間を生み出して、というか開いて経営している人たちには感謝しかないが、本当のほんとうはそんなスペース(場所/空間/宇宙)はカネや経済とは関係なく、いつの時代もずっとインナーにアウターに存在してきた、読みたいと思っていた本が思っていた以上のものだったとき、わたしはそのことを信じたい、というよりも信じられる気持ちになっていて、それだけで少し救われる。救われるのはわたしなのか、わたしの過ごす時間なのか、時間そのものなのか、ということは世界なのか。ハロー世界。わたしはいつも空腹で、だからおいしく食べられることが本当に嬉しい。

 

 あなたは今日何を食べましたか? どんな味がして、どんな気持ちになりましたか? 生きている限り必ずお腹がすいてしまうということを、なんだかとっても不思議で可笑しく思います。


くどうれいん『わたしを空腹にしないほうがいい 改訂版』(BOOKNERD、2018年)より。

booknerd.stores.jp

 

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