以前、ちょっとした理由で関東近県の貯水ダムを見学してまわったことがある。ダムに行くと、たいていどこでも見学者向けの資料館が併設されており、ダムの仕組みや、ダムがいかに人々の暮らしに役立っているかを解説した展示が、これ見よがしにかかげられていた。

巨大土木としてのダムには心をときめかせつつ、どことなく違和感もぬぐえなかった。なぜなら、どの説明展示にも奇麗事しか書かれていないからだ。

それでも、ダムはまだマシな方だ。同じような展示スタイルは原子力発電所でも見られるが、こちらは問題がもっと深刻だ。原発を運営する側──電力会社は、口を揃えて「原発は安全で、コストが安く、クリーンなエネルギーです」とアピールしてきた。でも、ひとつも根拠のないお題目だったことを、福島第一原発が証明してしまった。


なんでこんなことになってしまったんだろう。

いまからおよそ30年前に、みずから原発労働者の中に身を投じた人物がいた。その人物、ドキュメンタリー作家として活躍していた堀江邦夫は、政府や電力会社、関係団体など原発推進側が過剰に安全性をアピールする一方で、それ以外の側からは頻繁に危険性を訴える情報が出てくることに、いらだちを感じていたという。そのいらだちの元を確かめるために、作家の身でありながらわざわざ原発の中に労働者として入り込んでいったのだ。

作家から原発労働者となった堀江は、1978年9月28日から1979年4月19日までのおよそ約半年のあいだ、美浜原発、福島第一原発、敦賀原発という3ヶ所を渡り歩いてきた。そこで見聞きしてきたことの記録が、「原発ジプシー」(1979年/現代書館)というタイトルで刊行された。
原発の内部では何がおこなわれているのか? 本当に原発はクリーンなのか? そうした疑問に対して、著者自身の実体験を元に書き記された「原発ジプシー」は、日本の原発事業が“それなりに”運営されていた当時でさえも、あまりにショッキングな内容でかなりの注目を浴びた。

現在では入手困難となった「原発ジプシー」だが、それを一部改稿、改題して発売されたのが、今回、講談社文庫として刊行された『原発労働記』だ。元本からは労働者仲間の詳細や、彼らが抱く心情といった部分を削除しているが、著者本人が体験した労働の実態については、ほとんどそのまま収録してあるという。
わたし自身「原発ジプシー」の噂は知りながら、なかなか入手できずにいたのだが、今回の復刊でようやく読むことができた。そこには、想像をしていた以上に劣悪な現場の実体が書かれており、愕然とさせられた。原発運営の杜撰さに、怒りを通り越して悲しくなった。


労働者は、メンテナンスのために分離加熱器や低圧タンクに入らされる。その中は窮屈で、息苦しく、おまけに放射線被曝の危険性もある。著者は「原発の設計には、定検作業が考慮に入れられているのか」との疑問を抱く。どう考えても、人間が中に入って作業することを前提に設計されていないのだ。ここは本当に人間が働く場所なのだろうか?

それでも、せめて労働以外の部分で人並みの待遇をしてもらえるならいい。けれど、美浜原発の朝礼で著者はこんな言葉を聞かされる。

「本館一階の食堂は電力(関電)さんの社員用であって、私たちが利用できるのは、昼の一二時半から三〇分間と決まっている。ところが、それが守られていないと電力さんから注意された。充分に気をつけてほしい」
孫請け以下の労働者は、偉い偉い電力様と食事を同席してはいけない、というわけだ。

作業中に浴びることを許される放射線量の上限は、たびたび変更(上方修正)される。本来なら、計画線量が上限を越えそうになった労働者は、その作業からはずすべきものだ。けれど、それでは作業効率がわるいので、計画線量の方を上げてしまうのだ。
どこかで聞いたような話だ。

就業時間中に病人やケガ人が出ても、当時の福島第一原発(東電)では滅多に救急車を呼ばなかったという。なぜなら、救急車を呼んでしまうと、事故があったことを新聞社に嗅ぎつけられるからだ。だから病人やケガ人は会社の車で病院へ運ばれる。
そもそも、労働者がケガをしたとしても、下請け会社がそれを上の電力会社に報告することは滅多にない。下請け会社が治療費を全額負担して、事故があった事実をもみ消してしまうのだ。
下手に労災なんか使うと「事故が公になり、東電に迷惑をかけることになる。そうなれば会社に仕事がまわってこなく」なる、というのがその理由だ。

原発って、誰のためにあるのだろう。仕事にあぶれた労働者のためか? でも、賃金は仲介業者にピンハネされて、驚くほどに安い。原発のある土地のためか? でも、美浜原発のそばにある村人は言う。
「この村の者(もん)のなかには、原発のおかげでこの道路ができたんだ、よかったって言う人もいますけど……、電気だって、みーんな遠くのほうに送られちゃってるし……。まあ、自動車のホコリくらいじゃないですか、わたしらが関電さんからもらったものは……」
ならば、送られてきた電力を使っている都市のためにあるのか? でも、原発はなくても電力は足りている、という試算もいまはたくさん出てきている。
さあ、そうなると、本当に原発を必要としているのは誰だろう。残る対象は……。

事故を隠蔽したり、被曝したり、仲介業者に給料ピンハネされたり、地震があったり、電力会社が威張り散らしていたり……、この本は30年も前の出来事を記録したものであるはずなのに、いま現在の原発労働の実態をレポートしているようにも読める。
つまりは、地続きなのだ。
原発とそれを取り巻くビジネスは、何年も前からずうっと同じ体質のまま運営されており、何も変わっていない。むしろ悪化してさえいる。その延長上に、あの福島第一原発の事故があるのだ。

原発労働に従事する前に、原発の故障に関する資料をもらいに科学技術庁へ行った著者が、「年々、原発は動かなくなっているんですねえ」とつぶやくと、担当官は鼻白んだ口調でこう言ったという。
「なにを言ってるんですか、あなたは。ちょっとしたトラブルでも、ちゃんとストップする──これこそが原発の安全性を証明してるんですよ!」
自分の仕事に誇りを持つのは結構なことだが、その根拠となっている安全性がぜーんぜん証明されなかったことを、2011年のわたしたちは知っている。
(とみさわ昭仁)