報道に求めたい事

ニュージーランドで被災し体に傷を負った方に対するインタビューを見た。
直接テレビで放送されているのを見たのではなく、深刻な負傷をして間もない若者に対し、不適切と考えられるような質問を投げかけたと謂う事でネット上にその模様が掲載され話題となっていた事でこの件を知った。
この件を切っ掛けに、色々と考えることがあったので思うままに書いてみました。
■喪失と受容
突然の被災により身内を喪った、病気で親を喪った、自身が回復不可能のケガを負った、子供が一生背負うような問題を抱えて生まれてきた。このような事態に遭遇した場合、ヒトはその現実を直ぐには受け入れることが困難であると考えられます。(勿論、個人差はありますが)はじめは何が起こったか理解でき無い、頭の中が真っ白になってしまう、そう謂う事が当たり前のようにおこります。このような状況は一時的な事であり、たいていは悲嘆のプロセスとも呼ばれる段階を経て、そのような『喪失体験』を乗り越え次の一歩を踏み出すことになります。喪失体験を現実のものと認められるようになるには、個人差はあるものの、大抵は、そうした段階を経て行われるものです。表面上は平静を保っているようでも、喪失体験に遭遇して間もない相手に対し、いきなり現実を突きつけると謂う行為は避けるべきものであると私は考えます。このような状態にあると予測される相手に対する不適切な発言は、暴力と呼ばれても仕方の無いようなものだと私には思えるのです。

■必要な行為なのか
本人にとっては辛いかも知れないが、それは社会が要求している事、現実を伝えるジャーナリズムには必要な事なのだ、と謂われたらどうだろう。一見尤もらしい反論にも見えるが、本当にそれがジャーナリズムの本分なのだろうか?
なるほど、事実をありのままに伝える事は大切な事かも知れない、しかしそれは、個人に対し、自分を犠牲にした全体への奉仕を強要しているだけじゃあないか?辛くても、皆の期待に応えなきゃらならないのか?いや、それは本当に皆の期待であるのだろうか?そもそも被災直後の被災者への取材は必要なモノなのだろうか?被災直後のインタビューにより得られた感想は、事実を反映しているモノなのか、本音を述べたモノなのだろうか。そんな保証は全くないばかりか、喪失体験直後の被害者の状態を考えれば大いに疑問である。
被害の実態を社会に発信する責任は個人が負うようなモノではない、どらねこはそう考える。

■質問されればこたえるさ
いやだったら、質問に答えなければいい・・・、そんな意見もありそうだ。だけど、ちょっと待って欲しい、質問される事自体が嫌だとしてもおかしくはないよね。質疑応答を受諾したとしても、されたくない類の質問だってあると思う。質問をする側は最低限、その程度のことは弁えて質問をして欲しいと思う。以前、テレビの報道で被害者家族に対し、犯人に対しどんな気持ちを持ってますか、今のお気持ちは、などとマイクを突きつけている姿をみた記憶があるのだけれど、こんな質問など不要だと思う。可愛そうな家族に犯人への憎しみを吐露してもらって、世間の犯人憎しの感情を煽ろうというような意図が透けて見えて気持ち悪くなる。そうして、容疑者の段階で名前が晒され、犯人扱いされるんだ。冤罪のいくつかはそうした構図から生み出された可能性もあるんじゃないか?
だったらオマエが質問される立場になったとき、断れば良いじゃあないか?そんな意見もあるだろう。もし、自分がその立場になったらどうだろうか?不本意ながらも質問に答えることを現実的に選択してしまいそうだ。取材に応じないことで、憶測で語られてしまうのではないか?被災であれば、自分がちょっと我慢してインタビューに答える事でマスメディアのチカラにより多くの視聴者から共感ををもらい、被災地の援助が期待できるかも知れない・・・被害者の責務ではないか?と。(取材に応じない場合の不利益)
だからこそ、取材する側は慎重になってもらいたい、そう思っている。

■人権と報道
ここまで考えてきて、人権と報道の問題と切り離せないことに気がついた。これはまさしく、人権問題につながってくるとおもう。
被災でも事故でも事件でも被害にあった人間が、過剰に取材される必要などあるのだろうか?それは視聴者が要望するから為されるのだろうか。だとすれば、今後自分は報道番組などで、被害者やその家族が不要な質問攻めにあっている場面を見たら直ぐにテレビを消すことにしよう。そうしようと思う。被害者の心情などに興味がないといったらウソになる・・・ウソになるけど、自分だったらそんな取材は受けたくないから、見ないようにする。要望があるから不必要な取材が行われるのであれば、少なくとも自分は要求しないようにしよう。そうして、そんなシーンを過剰に放送された場合には抗議のコトバを挙げようと思う。この記事はそんな気持ちで書こうと考えたモノだ。
人権を蔑ろにした過剰な報道が続けば報道に対する規制に賛成の声が上がって来てもおかしくない。でも、それって、国民の知る権利、言論や表現の自由を侵害するモノにも成りかねない重大な事態だと思う。
報道の暴走を止めよとばかりに規制法案に賛成の機運が高まることは、逆に国民の知る権利を侵害する事にも成りかねない。人権を大切に考える報道こそ、私たちの基本的人権を尊重してもらうために大切な事だと私は思います。



随分と話を大きくして述べてしまいましたが、マスメディア内部からこの件を批判する姿勢が表明されなかった(ようにみえる)事から此処まで考えてしまいました。