病が生むジレンマ。『ギフト 僕がきみに残せるもの』に映るのはALS患者ではなく一人の人間だ

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こういう音楽が好きなんですよ、Skrillexとかmarshmelloとか。かっこいいですよね

一般社団法人WITH ALS代表の武藤将胤はそう語った。彼の背後にはスクリーンがあり、流れている音楽に合わせてさまざまな映像が映しだされている。彼は会話をしながら、時折曲をセレクトしたり映像を切り替えたりしていた。好きな音楽について話しているあいだにも、DJとVJを同時進行でプレイしている。

上の文を読んであなたはどんな様子を想像しただろう? クリエイティブな音楽好きの青年が自分の好きなアーティストについて語っている姿や、DJとVJを同時に行なうなんてすごい、といった印象を思い浮かべるかもしれない。EDM好きが日常的に盛りあがっているような会話の一句と遜色はない。

彼は筋萎縮性側索硬化症、通称ALSを発症している。ALSは発症とともに全身の筋肉が徐々に衰えていく難病だ。武藤の場合、DJをするための機材を動かしたり、VJの映像制作で手を動かすことは筋力的に不可能である。その代わりに眼鏡ブランドJINSの「JINS MEME」とアプリケーションを使ってDJ/VJの活動をしている。「JINS MEME」は、ALS患者の筋力が衰えても比較的自由に動かすことのできるといわれている「眼球運動」を利用し、レンズを介して目線や瞬きによってさまざまな機械の操作をするものだ。武藤がこの眼鏡を利用する理由は「誰もが知っているふつうの眼鏡メーカー」だからだという。

Video: JINS MEME/YouTube

「JINS MEME」を着用して音楽をセレクトしたり映像を切り替える武藤は、方法は違えど創作活動に没頭するクリエイターにほかならず、彼の作品に内包される気持ちやコンテクストには「ALS」患者であること以前に、彼の創造性が色濃く見えてくる。そんな彼のパフォーマンスを見たのは、現代のALS患者の実態に迫ったドキュメンタリー映画『ギフト 僕がきみに残せるもの』の試写イベントでの一幕だった。

先入観から生まれる病への過剰な理解が生むもの

映画『ギフト 僕がきみに残せるもの』は、NFLの元プレイヤーでALS患者のスティーブ・グリーソンを追ったドキュメンタリーだ。彼がALSを診断されてまもなく、妻の妊娠が発覚する。生まれてくる子どもと肉声での会話ができなくなる前に撮りためた彼のメッセージビデオを、編集し映画化したのがこの作品だ。彼は筋肉の衰えによって自分で言葉を発することができなくなってからも、視線を使ったコミュニケーションツールで家族と会話をしている。本作品でもグリーソンを手助けするためにテクノロジーが登場するということだ。

Video: © 2016 Dear Rivers, LLC/YouTube

『ギフト 僕がきみに残せるもの』の中盤、グリーソンはこのようなメッセージを残している。

僕は信じている ALSで失ったものはほとんどテクノロジーで取り戻せる

テクノロジーはグリーソンや武藤の言葉を自動的に正しく反映させる。彼らがやりたくてもできないことを機械的にアシストしているのだ。

冒頭の武藤の言葉も、インターネット上の文字に起こせば筆者の文章と形式は何も変わらない。彼の言葉や思考がテクノロジーによって「当たり前」に私たちに届いているということは、別の言い方をすれば本来「当たり前」に届くはずの言葉や表現が、病にまつわるあらゆる文脈によって変形してしまっているということでもある。

コミュニケーションの身体的な壁を乗り越えるために、患者たちはインターネットやデバイスを使って私たちにメッセージを届けようとする。それは武藤のようにDJやVJといった音楽や映像かもしれないし、グリーソンのようにビデオメッセージを編集した映画かもしれない。誰かにメッセージを伝えるための方法は、人それぞれ無限のパターンがある。

病が生むジレンマ。『ギフト 僕がきみに残せるもの』に映るのはALS患者ではなく一人の人間だ

だが、彼らのメッセージは受け手である私たちに本当に正しく伝わっているのだろうか? テクノロジーが彼らの身体を「誠実に」補完したとしても、それを私たちが正しく受けとっているかは疑わしい。よくある「病の壁を乗り越える」といったメッセージは、その多くがメディアをはさんで「かわいそうさ」「不可能さ」「苦難」が前提となって受け手に届けられる。だが、もっともリアリティのあるメッセージは本人が語る考えや言葉だ。それを味付けしたり濃度を高くしたりせず受け手に伝えるためには、本人が直接メッセージを伝えるのが最も適切な方法だろう。彼/彼女自身のメッセージ伝達を補完をするという目的で、テクノロジーは有効に作用する。

問題は受け手だ。ALSは「全身の筋肉が衰えていく病」といったが、この病が「全身の筋肉が衰えていく以外には、感覚や思考は平常である」ということを認識している人はどれくらいいるのだろうか? 言いかえれば、「患者であることを理解すること」と「患者をかわいそうに思うこと」を混同している人がいるということだ。この2つの認識には、近いようでまったく異なる文脈が含まれている。

『ギフト 僕がきみに残せるもの』ではこんなシーンがある。食事中、ALSが進行したグリーソンに対して彼の父親が「味は感じるのか?」と何気なく問い、失笑を買うというものだ。グリーソン親子はALS発症以前から親子関係が芳しくなく、その関係性も本作品ではまじまじと映されている。父親の誤解は、徐々に身体の自由が奪われていくALSへの先入観から生まれた想像の産物だ。そこには「身体の不自由さ」への過度な配慮が含まれており、息子をいたわって聞いたつもりが逆に彼を失望させる結果を招いている。

また『宇宙兄弟』の公式ブログではALS患者の酒井ひとみが自身の病について連載しているが、このような例もある。彼女は呼吸器をつけた状態で声が出なくなったときに、見舞いに来た人に「話が通じているか」目の前で確認されたり、口パクで「頑張れ」と言われる体験をしたそうだ。こちらも、先ほどの「味覚への誤解」と同様、病への過度な配慮が誤解となって彼女の耳に「しっかりと」届いてしまっている。これらの行動を起こした人物に悪気はないのだろうが、先入観から生まれる過度な認知無知による偏見と何も変わらない。

アイス・バケツ・チャレンジとはなんだったのか?

2年前にSNSで大流行した指名制の啓蒙動画「アイス・バケツ・チャレンジ」が、ALSと関係していたことをどのくらいの人が認知していただろう? そして、今もそのことを覚えている人はどのくらい残っているのだろうか。

Video: ALS Liga - Ligue SLA/YouTube

アイス・バケツ・チャレンジをめぐっては、当時賛成派と否定派でさまざまな議論が巻き起こった。なかには氷水をかぶることで命を落とす事件や、寄付をめぐる詐欺が起きたりもした。そういったネガティブな面があるいっぽうで、寄付金による研究が功を奏し、ALSに関係のある遺伝子が発見された報告もある。アイス・バケツ・チャレンジがもたらした世界への影響は、単なるお祭り騒ぎというわけでもなかったのだ。だが、そもそもALSに関連したアクションだということもわからないままバケツいっぱいの氷水を頭からかぶる動画を撮り、FacebookやInstagramにアップしている人も少なくなかっただろう。

『ギフト 僕がきみに残せるもの』は、アイス・バケツ・チャレンジの影響力やALSへの自己認識について、じっくり考え直す機会をもたらすだろう。アイス・バケツ・チャレンジは「オワコン」かもしれないが、ALS患者は今もこの世界に生きており、メッセージを発信し続けている。SNSで皆が熱狂していた時期はすでに遠い過去だが、この流行に対して懐疑的な気持ちがいまだに拭いきれていない人は多いだろう。この映画では、アイス・バケツ・チャレンジによってALSを知ってもらいたいと考えていた人々のスタート地点を垣間見ることができる。このことは少なくともアイス・バケツ・チャレンジを正義のアクションとして行なっていた人にとっては救いとなるのではないだろうか。さらに、文脈を無視した行動は意義が欠落していることや、動画がバズることが必ずしも有効ではないということを確かめることができる。意味もわからず氷水をかぶったり友人を指名する動画をスマートフォンで撮っていたSNSユーザーにとって、クールダウンした状態で当時の流行を再考するチャンスになるのだ。アイス・バケツ・チャレンジに対する答えは三者三様かもしれない。「あの活動は正しかった」でも「無意義なただのバズりだった」でも、他人事ではなく自分の経験としてアイス・バケツ・チャレンジ/ALSを見つめ直すことが、患者へや病への真の理解を導き出す。

病を持っても変わらない「ふつう」さ

ALS患者がぶつかる「認識とコミュニケーションの壁」は、テクノロジーによる補完にくわえて受け手が病を正しく認識することで乗り越えることができる。多くのメディアで語られるように、ALSを発症した彼ら/彼女らが皆一様に「苦しくても明るい心を持って乗り越えていく」人間性になるというわけではないのだ。ある一面でそのような強い心を持っていても、別の一面では葛藤や不安や誤解へのおそれを抱いているし、病とは関係なく好きなものや嫌いなもの、将来の夢や人生設計がある。その点は健康体の人々と何も変わらないのである。おそれるべきは病名が烙印となってしまい、本人のメッセージが受け手に伝わるまでに歪んでしまうこと、さらに受け手側がそれに気づかないことだ。私たちは、「病になってしまったこと」に対する配慮より「彼/彼女にとって病だけが人生ではない」ということについて考える必要がある。

『ギフト 僕がきみに残せるもの』のグリーソンは、ALS患者という一面だけでなく元NFLスター選手、夫、父親、財団のリーダーというさまざまな面から切り取られている。それは青年男性が経験するライフイベントそのものであり、病人としての部分だけを切り取る行為への強いアンチテーゼが伝わってくる。武藤の場合もVJ/DJや夫、プロデューサーといった面があるし、酒井にも母親、妻、そしてブロガーという面がある。ALSによる身体の不自由さは、今後テクノロジーの進化によって少しずつ埋められていくだろう。だからこそ受け手である人々は身をもって知ることができなくとも、その病に対する認識をアップデートさせていく必要があるのだ。この映画が私たちにもたらすメッセージの意義は計り知れない。

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ギフト 僕がきみに残せるもの
期間:8月19日(土)〜
場所:ヒューマントラストシネマ有楽町&渋谷ほかにて全国順次ロードショー
URL:ギフト 僕がきみに残せるもの