大地震から2日間、日経・仙台支局長の体験記
地震が発生した11日午後2時46分、東京都千代田区の日本経済新聞社の本社ビル25階にいた。社内会議出席のため仙台を離れ、出張中だったのだ。仕事中、ニュース速報で事態の深刻さを知り、すぐに仙台に戻ることにした。社内に備蓄していた乾パンなど段ボール入りの非常食セットを抱えて25階から1階まで歩いて降りた。東北新幹線は全線ストップ、空路もマヒが予想されたため、緊急手配した車に同僚の盛岡支局長と2人で乗った。午後4時だった。
首都高速道路や東北自動車道はすでに閉鎖されていたため、一般道で北に向かった。車窓から見る都内の風景は異常だった。地下鉄が止まったためたくさんの人が歩道にあふれていた。まるで映画の1シーンを見るようだった。
東京から仙台までの道のりは約350キロメートル。仙台に向かうには国道4号を北上するのが一般的だが、予想される渋滞を避けるルートを地図で探しながらとにかく北に向かった。それでも道路はどこも大渋滞。ラジオは地震の大きさ、被害の大きさを刻一刻と伝えるが交通に関する情報は皆無だった。仙台まで果たして車で戻れるのか。情報収集を兼ね、日経さいたま支局に寄った。午後8時になっていた。ネットで調べたところ、東北道はもちろん、常磐自動車道、関越自動車道も通行止めだった。一般道で行くしかない。コンビニエンスストアで軽食や飲み物を買い込み、出発した。
国道4号を避けつつ北上する。栃木県の北あたりから停電のため周りは真っ暗になった。信号も消えている。道路状況はどんどん悪くなる。アスファルトの隆起があり、通行止めの表示が増える。せっかく見つけた抜け道が使えず、Uターンを何回したことか。交差した東北道に車が1台もない様子は不気味だった。
栃木県を抜け、福島県に入ると雪が舞い始めた。国道4号を避けながら来たが、白河周辺はどうしても4号に行き着いてしまう。あきらめて合流したところ、案の定大渋滞だった。大型トラックの車列はほとんど動かない。真っ暗闇の中、車がたくさん集まっているところがあった。道の駅だった。もう一度、抜け道を探し出し、北上を始める。福島県内では電気が通じているところもあった。コンビニの明かりが頼もしい。しかし、おにぎりや弁当、サンドイッチなどの棚は空っぽ。都内でもっと買ってくればよかったと後悔する。
しばらくうとうとし、気がついたら宮城県蔵王町だった。夜は明けていた。運転手さんが無事に運転してくれた。窓越しに街並みを見ると、蔵王町でひびが入った建物をいくつか見た。しばらく走り仙台市内に入った。車も人もまばら。信号が消えている。見慣れた街のはずなのに、知らないところに来たような感じだ。宮城県庁近くの仙台支局に着いたのは12日午前7時、東京・大手町の本社を出てから15時間がたっていた。
たどりついた仙台支局は停電のため暗く、寒かった。支局で徹夜をした同僚記者が出迎えてくれた。テレビがつかないため「ここにいても全体像がわからないんですよ」。ラジオの音が響いていた。他の記者は県庁内の記者クラブで夜を過ごした。携帯電話はつながらず、使えるのは非常用の固定電話だけという。
まず、支局近くの自宅マンションを見に行った。オートロックのドアは開けっ放しで、エレベーターは止まっている。非常階段に窓はなく真っ暗。ポケットサイズの懐中電灯の明かりを頼りに6階まで上がった。
部屋に入って驚いた。窓際に寄せていた食卓が部屋の真ん中近くまで移動していた。台所にはガラス片が散乱していた。電子レンジの中に据え付けられていたガラス製の皿が吹っ飛んでいたのだ。食器や食材も床にちらかっていた。冷蔵庫や洗濯機も数十センチメートルずれていた。掛け布団と毛布1組を自転車に積んで支局に戻った。
支局の隣にあるコンビニはすぐに閉まってしまった。道路を挟んで向かいにあるコンビニに大行列ができた。車は相変わらず少ない。信号の消えた大通りを人が自由に渡っている。
仙台駅まで自転車で走ってみた。駅は閉鎖中。仙台は「仙台に1000台」と言われるほどタクシーの多いことで有名で、駅前はいつもタクシーであふれていた。だが、その姿がほとんど見られない。ようやく1台見つけて運転手に聞いてみた。「自分たちのことで精いっぱいなのだろう」。確かに仕事どころではない。
駅前から続くアーケード街も静かだ。その中で数十メートルの行列を見つけた。ドラッグストアで店を開けているところがあった。店は真っ暗。路面に商品を並べていた。街中で時折、レジ袋に食品などを入れて歩いている人を見かける。どこで手に入れたのか気になる。
支局から徒歩5分の県庁には多くの市民が集まっている。電気が通り、水もある。毛布があり、食事の提供がある。何よりトイレが使えることがありがたい。廊下には毛布にくるまった人たちが座り込んでいる。犬もいる。県庁内の駐車場には自衛隊の車両が集結し、仮設の救護テントもできた。食事の配給が始まると大行列ができる。テレビで見たことのある被災地の光景が目の前で繰り広げられている。
幸いなことに、県庁周辺の限られた地域の電気が12日午後7時ごろに復旧した。支局の照明もついた。支局には東京と大阪の社会部記者が続々と集まってきた。仙台支局記者の家族3人も支局の住人に加わった。避難していた集会所の近くのマンションから火の手が上がったのだという。寝袋や毛布にくるまり、10人以上が支局で2日目の夜を過ごした。
(仙台支局長 橘高 聡)