9・11以降の、“テロとの戦い”は転機を迎えていた。先進諸国は徹底的な管理体制に移行してテロを一掃したが、後進諸国では内戦や大規模虐殺が急激に増加していた。米軍大尉クラヴィス・シェパードは、その混乱の陰に常に存在が囁かれる謎の男、ジョン・ポールを追ってチェコへと向かう…彼の目的とはいったいなにか?大量殺戮を引き起こす“虐殺の器官”とは?ゼロ年代最高のフィクション、ついに文庫化。
出版社:早川書房(ハヤカワ文庫JA)
レベルの高い作品である。
正直、これがデビュー作とは、到底信じられないくらいだ。リアルタイムで立ち会ったら、これはひとつの事件だと思ったかもしれない。
『虐殺器官』はそう思わせる作品である。
まず第一部の、「ぼく」ことシェパードが暗殺のミッションを受け、敵地に侵入するシーンからしてすばらしい。
そこにある軍事行動に関する圧倒的なディテールには驚いてしまうし、筆致の力強さもすばらしい。
ナノコーティングなどのSF描写やアイデアは優れているし、そこかしこに散りばめられた、(やや衒学的なものの)知性を感じさせる哲学的思弁にもドキドキしてしまう。
どれを取り上げても、一級品の出来栄えだ。本当にこれがデビュー作とは思えない。
ストーリーは911以降のアメリカが舞台だ。
アメリカはテロとの戦いを続けており、覇権国家の義務として、内戦が頻発する国に内政干渉を行なっている。
世界的には個人情報の管理が徹底的に行なわれており、生体認証はほぼ必須のような状態になっている。調べようと思えば、その人が何を買ったかも調べられるようになっている。
また、資本主義化も徹底的に進んでいる。
国家的な軍事活動でさえ、全面的に民間に委託している面もあり、生々しいはずの戦争はビジネスとしてしか語られない。
また貧困国家はその窮状を訴えるために、資本主義の原則に則り、先進国へ宣伝に赴き、効果的なPR活動も行なっている。
そういったシチュエーションのいくつかは、まったく目新しいわけではない。
だが凡百の作品なんかよりよっぽどディテールが綿密で、食い入るように読み進められる。
それに、それらすべての設定は現実的に起こりそうに思えるため(ひょっとしたらすでにいくつかは、実際に行なわれているのだろうか)、強烈なリアリティが感じられる。
そんな風に現代社会の問題点を、エンタメの文脈で、徹底的にあぶり出している点が見事だ。
おもしろいくせに、読んでいて考え込まずにいられない。
そして、そんな社会では、「わたし」というものでさえ、あいまいだ。
主人公は暗殺を行なうために、躊躇なく人を殺せるよう、意識をコントロールすべく、カウンセリングを受けることになっている。
そうなると、どこまでが自分の感情かすらわからなくなってくる。
シェパードは暗殺を仕事とするが、そのときに感じる殺意でさえ、自分のものか、どうかわからない。
自分の意識は、仮想の意識と溶け合ってしまい、自我の境界はとことんあいまいになっている。
シェパードには母を殺したかもしれない、というトラウマがある。それはシェパードをいまでも深く傷つけている嫌な記憶だ。
だがそんな感情でさえ、あいまいなもののよう見えてきてしまう。恐ろしい状況だ。
押井守を何歩も推し進めたようなその設定は、ヴァーチャル化が進んだ現状をよく捉えている。
その説得力の強さに、読んでいてドキドキしてしまった。
物語のキーでもある、虐殺を引き起こす言語の設定もおもしろい。
作者はこの突飛な設定を補強するために、歴史、文学、音楽、チョムスキーやウィトゲンシュタインなどの哲学を総動員してハッタリをかましている。
よくもまあ、ここまでとんでもない大嘘をつけるものだ、と感心してしまう。
それにそのハッタリがおもしろい点にも心奪われてしまう。
本当にこの作者の頭の中は、どうなっているのだろうかと思わずにいられない。
とにかく、これほどのスケールの話を、ここまで知的に、アクションを交えるなどして、おもしろおかしく、細やかに語り進める手腕には本当に驚くばかりである。
個人的に趣味ではないポイントもいくつかはあるけれど、ビックリするほどハイレベルな作品だ。
それだけに本作を含め、わずかな作品しか残さず、著者が亡くなってしまったことが残念でならない。
何かまとまりを欠いてしまった。
ただ、『虐殺器官』は強烈なハッタリに満ちた、一級のエンタテイメント作品である、という点だけは力を込めて述べたい、と思う。
評価:★★★★★(満点は★★★★★)