オーストリア海軍の歴史 その1

 20年ほど前にウィーンのベルヴェレーデ宮殿の裏手にあるオーストリア軍事史博物館http://www.hgm.or.at/を訪れたことがある。角川トラベル・ハンドブック「ウィーン」の取材のため第一次世界大戦のきっかけとなった「サラエヴォ事件」の展示を見に行ったのだ。
そのとき、第五展示室にあったSeemacht Österreich (オーストリア海軍)の展示を見て驚いた。ヴェネチアや現在のスロヴェニアクロアチアを領していたオーストリアが海軍を擁していたことは知っていたが、その展示は日本海海戦以前では数少ない一方的大勝利を収めた大海戦の戦果を誇るものだった。
 普墺戦争中、オーストリア対プロシャとその同盟国イタリアとの戦いの最中の1866年7月20日に、現在のアドリア海上のクロアチア領リッサ島(現Vis島)沖合で大海戦が繰り広げられ、オーストリアが完璧な勝利を収めたのだが、その海戦に関する膨大な展示物が並んでいたのだ。
 潜水艇や魚雷なども繰り出し、装甲蒸気艦同士が戦った世界最初の海戦でもあった。ちなみに、魚雷は「サウンド・オブ・ミュージック」に登場するトラップ海軍大佐の最初の奥さんアガサのイギリス人のお祖父さんホワイトヘッドが発明したものだ。
リッサの海戦の前評判では、12の装甲蒸気艦を含む26隻の艦船(計68,000トン)を持つ近代的なイタリア王国海軍の方が7隻の装甲蒸気艦を含む26隻の艦船(計50,000トン)のオーストリア・ハンガリー帝国海軍に対して有利な戦いを行うものと言われていた。
 しかし、ヴィルヘルム・テゲトフ提督の指揮するオーストリア艦隊は、イタリア海軍の前衛をやり過ごした後、本隊の前で突如“テゲトフ・ターン”を行って全艦が突撃し船首の衝角で相手艦の側壁を打ち破るといった勇猛な戦いを行い、イタリア側の指揮系統の大混乱もあって大勝利を収めた。
 この海戦で、イタリア艦隊の2隻の装甲蒸気艦が撃沈されたが、オーストリア側は沈没なし、イタリア海軍の戦死者は620名、負傷者40名に対して、オーストリア海軍の損害は、戦死者38名、負傷者138名であった。
 なお、この海戦に参加したオーストリア艦隊水兵の2/3近くはクロアチアの出身で、当時オーストリア領(1797〜1866年)だったヴェネツィア出身の海軍軍人もイタリア側でなく、オーストリア側で戦った方が多かったそうだ。
このリッサの海戦に関するホームページを挙げておこう
Wikipedia Battle of Lissa (1866) http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Lissa_ 
K.u.K. KRIEGSMARINE http://www.kuk-kriegsmarine.at/オーストリア海軍に関するサイト)
The Battle of Vis http://www.geocities.com/tegetthoff66/battle.html
The Naval Battle of Lissa 1866 Image Collection http://www.uow.edu.au/%7Emorgan/lissab.htm (画像集)
オーストリア散策」http://www.onyx.dti.ne.jp/~sissi/index.html の
 「ボロ艦隊で勝ったオーストリア海軍」http://www.onyx.dti.ne.jp/~sissi/episode-81.htm
「戦術の世界史」http://www.k2.dion.ne.jp/~tactic/index.html
 「リッサ海戦」http://www.k2.dion.ne.jp/~tactic/lisa.html 

三千年の海戦史

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