愚かな拒絶

あまりのことに、何を言ったらいいのか分からなかったが、ともかく意見だけ載せておく。
http://mainichi.jp/select/today/news/20110205k0000m010075000c.html?inb=tw

高木義明文部科学相は4日、北朝鮮による韓国砲撃で停止された朝鮮学校の授業料無償化適用審査について、「当面は再開しない」との意向を明らかにした。審査停止に対する東京朝鮮学園の異議申し立てに回答した。

 審査を再開しない理由について文科相は「昨年11月23日の北朝鮮による砲撃は、我が国を含む北東アジア地域全体の平和と安全を損なうもので、不測の事態に備え万全の態勢を整えていく必要がある」と説明している。

 異議申し立ては行政不服審査法に基づいて1月17日に文科省に提出されており、同法で定められた停止理由の開示期限が6日に迫っていた。学校側へはファクスと郵送で通知したという。


真ん中の段で述べられている「理由」が、荒唐無稽というしかないものであることは、分かりきっている。
教育に政治を介入させ、明白な差別を国の政策の一部として行うことは、国際的にも国内的にも、軋轢や不信を、つまりは「不測の事態」の芽を蒔いて成長させることになりこそすれ、「平和と安全」のために寄与するところなど、何ひとつないだろう。


いや、たとえあったとしても、そういう政治的な理由によって、学生たちの(とりわけ少数者である人たちの)教育を受ける権利を侵害しないということが、最低限この社会を維持していくための基本線だったはずである。
私たちの国は、その最低限の線を、自らの手で、取り返しのつかない形で壊そうとしている。
しかも、論理になっていない、荒唐無稽な理由によって。


政治家の本音は、選挙を目前にしての、政権の人気とり、といったことだろう。
そのことは、私たちの社会が、こうした差別政策が「人気とり」として機能する社会であり、その程度の民主主義国家だということを意味する。
民主主義の政治が、差別的でもある多数者の欲望の充足ということしか意味しない社会だということであり、しかもその欲望は、過去と現在に自分たちが行使した暴力や差別の正当化(ということは、自分たちの想像上の権益の正当化)という内容を、底に隠している。


普遍的な教育の権利の保障などという理念は、とりわけ、旧植民地にルーツを持つ人々が民族教育を受ける権利の保障などは、この欲望の充足を危うくするものだからこそ、しりぞけられなければ、いや、断固として拒絶されねばならないのだろう。
この「断固たる」拒絶の姿勢こそ、この国の多くの有権者が見たいと欲している、為政者の醜い像なのである。