KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

今年も残り少なくなってきたあるもの

 9月も下旬になって、だいぶ気温も下がってきた。この夏は自炊といったらコメはあまり消費せず、麺類が多かったような気がする。スパゲティに蕎麦、そしてそうめんである。

 

 

 特にそうめんはこの夏、頻度が高かった。毎年箱でもらうのだがそれも残り少なくなってきた。”マイフェイバリットつゆ”は、よくスーパーでも売っているにんべんのつゆである。

 

 実家はなぜかしらないが、素麺は食べないので、よく食べるようになったのは一人暮らしをするようになってからである。なぜかうちの母が出すのは冷麦ばかりなのだ。そのような家は珍しいのではないだろうか。

 

 今年の夏は本当に暑かったので、そうめん率はそうとうなものであった。つけあわせで必ず食べるのが、よく冷やした野菜入りさつまあげである。まだもう少し気温が上がりそうなので、まだ登場する機会も何回かあるだろう。

 

 そして10月になって、食べ終わり箱を捨てるとき、今年もありがとうございましたと礼をいうのが慣例となっている。そして入れ替わるようにわがアパートの台所に登場するのが、生のうどんである。貧乏人の味方だ。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。