書評
『プロローグ』(文藝春秋)
小説という「ウソ」の臆面なさに対抗
小説(散文)は、詩歌(韻文)という本能により近いものを離れて生まれた人工アートである。この臆面もない「ウソ語り」に対しては、とくにポストモダン以降、様々なツッコミが入れられてきた。今世紀に入ってからの日本ほど、小説のウソ臭さと戦う前衛/実験小説が盛んに書かれ、楽しまれている国はないのではないか。その筆頭作家である円城塔の『プロローグ』は、まさに小説が生まれゆく“序章”を描く「自称『私小説』」。登場人物が使用言語を認識し習得する過程という、書き得ないことから書いた不可能小説だ。冒頭は「名前はまだない」と始まり、「自分を記述している言語もまだわからない」と、この語り手は言う。作中の随所に、漱石の『吾輩は猫である』あるいは日本近代文学の引喩があり、小説という非効率的な創作形態や、日本語という複雑きわまる言語が、いかに“無茶(むちゃ)な”ものであるかが、コンピュータのプログラミング理論に沿って解析され、再構築されていくのが痛快。その半面、「どんな漢字を使うのか知らずに物を書いていくことはできないでしょう」と言いつつ、その文章を漢字を駆使しながら書くという大胆な自家撞着(じかどうちゃく)にも陥ってみせ、小説という人工アートの胡乱(うろん)さを体現する。
この登場人物は通りがかりに本書の作者と出会い、作者に名を付け、『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』から選んで自らも「榎室(えむろ)」姓を名乗る。先ず作中人物が在り、彼の方が作者を語っているらしいが、作者の人称も「わたし」なものだから、二重(ダブル)一人称文体ともいうべきややこしさだ。さらに、途中から「わたし」は語っているんだか、語られているんだか、そもそもどの人物なのか、わからなくなってくる。急に二百ページ余り前を振り返り、そこの「わたし」こそが『プロローグ』の原稿整理をしていたと明かされたりする。
ともあれ、「わたし」の理想の小説とは、「定められた記号の集合と、その拡張方法を持つ」、「適度にマークアップされたテキストデータ」としての存在。「こうして書かれる小説は分散型のバージョン管理ソフトウェア(Git−Hub)によって管理され」、「もはや、多くの人間によって書かれることが」想定されている。万人参加型ウェブ事典「ウィキペディア」的なものか? 「そんなものは小説ではない」という人は、翻訳書を想起してほしい、と、「わたし」は言う。翻訳物は無限通りに書き換えられているではないか。例えば、猿の発する音声に人間言語の意味を見いだすのは、受け手のほうの主体性なのだ。
ある章では踏み込んで、小説の創作をプログラムの指示とそのアウトプットという考え方で捉える。つまり、「小説の内容は、依頼する側が何を指定するかだけに左右される」ということであり、「機械なんだから、同じことを命じられたら、同じものを生産する」ということだ。あるいは、独創性というものがあるとしても、それを「表現するのに必要となる人物は、既にどこかに存在しているのではないか」と疑ったりする。ここには、「オリジナリティ」とか「主体性」などという怪しげなものへのレーモン・ルーセル的な羞恥または抵抗が感じられる。本書の「わたし」(たち?)が目指しているのは、「勝手に登場人物なるものをでっちあげては」、「検索もできない」役立たずな小説ではなく、オブジェクト指向小説のようなものなのか。
「過去を平気で反復するのは恥を知らない者と歴史だけだ」と説いたのは、ミラン・クンデラだったか。世界中が何百年と取り組んでいる小説という大がかりな「ウソ」の図太さに対抗する、円城式メカニカル文学の慎みである。秀逸である。