「個と公」もしくは「愛国」というHENTAI


そういえば昔、小林よしのりが「公と私」をすっぱり切断して暴論を展開していた。たしかに公私を形式的に分離するのが近代の原則ではあるが、私とは集団的なものでありえるし、個人は公的存在たりえる。小林のいっていた公ってのは、実は集団的な私にすぎないしな。


http://twitter.com/#!/tikani_nemuru_M/status/74071909687492609


ツイッターで発言したら説明を求められましたにゃー。以前からさくっとまとめようと思っていた事柄なので、メモもかねてこちらにあげますにゃん。


まず訂正から。
小林よしのりが「戦争論」などで言っていたのは「公と私」ではなく、「公と個」の関係でしたにゃ。
この「公と個」という設定を見るだけで、小林が公共性も個人主義もまったく理解できておらず、その主張する「公」とやらが実は肥大化した「私」であることは明らかだと僕には思えますにゃ。
先ほど引用した自分のツィートを訂正するとこんな感じになるかにゃ。

  • 小林よしのりが「公と私」をすっぱりと切断して、「個と公」という名目で小さな「私」と大きな「私」について述べていた。そして、小林は近代社会における公共性についてはまったく何も語っていなかった。小林などのいう「公」ってのは、実は集団的な「私」にすぎない


では以下に説明しますにゃ。

「オホヤケ」とは何か

「ヤケ」という言葉がありますにゃ。古代日本の血族を中心とした農業共同体における中核的施設を指し、それは共同体の首長に属するものとされたようですにゃ。このヤケというのは、小さなものから大きなものまで階層的で入れ子状に重なっており、大きなヤケをオホヤケ(=公)と言いましたにゃ。つまり、このオホヤケ概念には理念性があるわけではなく、単なる大小関係、包含関係にすぎにゃーものです。
そして、そのオホヤケの中でも最大のモノが「クニ」と呼ばれたわけですにゃ。
まず最初にここをおさえておいてくださいにゃー。

「家族」は公的な存在か?

自らの命を省みずに自分のガキを守ろうとする親、というのを想定してくださいにゃー。シチュエーションはお好みでどうぞ。
この親は確かに立派なもんだにゃ。僕も人の親として、できればそうありたいものですにゃん。
ただし
この親は立派ではあるが、この崇高な行為は公的なものといえるでしょうかにゃ?
家庭内の出来事は私的なことと近代国家の法体系ではなっているでしょうにゃ。
ドーキンスであれば「崇高であるかもしれないが、それは利己的な遺伝子の発露そのものだ」と言うかもしれませんにゃ。


近代の公私二元論において、家庭とは私的領域の典型ですにゃー。
親権とは私権であり、ガキの養育や教育の権利をもつ代償として、ガキの面倒をみる義務が親に課せられるのですにゃ。
したがって、自分のガキを命をかけて守る親は、私的な権利義務関係を見事に全うしたということになるわけですにゃ。立派だけど公的な行為ではにゃーのだ。だいたい、「いい親」と「社会的に立派な人」というのはぜんぜん違うものですからにゃー。

とある典型的な「公」論


  和辻によると、私たちにとって最も身近な私的存在は、男女二人の関係です。男女は心身の全体をもって互いにかかわり合い、二人の間では「私」が消滅しま す。このプライベートな関係が世間に公認されるのが、婚姻です。これによって、男女関係は夫婦関係となります。婚姻は、男女関係という私的なものを、公的 なものに変えるのです。次に夫婦という二人の共同体に子供が誕生すると、親子の関係となり、三人の共同体となります。さらに子供が生まれると、兄弟姉妹の 間には同胞共同体が生まれます。


夫 婦・親子・兄弟等による「家族」は、さらに「親族」という、より公的な人倫組織の一部に含まれます。親族の間では、それぞれの家族の事情は「私」的なもの となるからです。次に親族は「地縁共同体」(地域社会)へ、「地縁共同体」から「経済的組織」(企業・組合)へ、「経済的組織」から「文化共同体」(民 族・エスニック・グループ)へと、より高次の段階に包摂されます。どの組織も、前の段階の組織が持つ「私」を超えることによって実現されます。そして、よ り「公」的で開放的な性格を持ちます。しかし、同時に、後の段階に対しては、より「私」的で閉鎖的な性格を持っています。このように「公と私」は、階層的 で入れ子的な構造をもっていることを、和辻は明らかにしています。


こ うした「公と私」の階層構造において、「国家」とは、「私」を超克した「公」そのものであるところの人倫的組織であると考えられます。日本という国の中に おいては、国家は最大の公共社会であり、政府は公共的な意思を実現する機関です。そして、この日本国と日本国民統合を象徴するものとして、わが国には天皇 が存在します。それゆえ、天皇は日本における「公」を象徴する存在といえます。


http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion01b.htm


和辻を読んだことがにゃーので、引用元筆者の和辻解釈の妥当性についてはわかんにゃーです。
まあここでは、

  • 個人<夫婦<家族<地縁共同体<経済的組織<文化共同体<国家

という階層的な入れ子構造において、より包括的なものがより公的だと主張されていることが重要でしてにゃ。ここに理念的な領域設定はなく、あるのはただの大小関係・包含関係だけですにゃ。
つまり、ここでは個人や夫婦関係からは「子供を守る」は公的なことになるわけにゃんね。公的か私的かは視点によってコロコロと変わるわけだにゃ。そして、絶対的な公的性格というものは国家に帰するということになりますにゃー。
典型的な言説にゃんな。


で、このあたりは小林よしのりの言っていたこととだいぶ重なっていたはず*1

小林が語ったのは「オホヤケ」

読者諸賢はすでにわかっているだろうけど、先ほど引用した公についての議論は、古代日本における

  • 【 ヤケ<オホヤケ<クニ】

となんら変わるところがにゃーですね。
ある特定の行為は、視点次第で私的とも公的ともなりますにゃ。現実的には、より強いモノ・より大きいモノが公的とされることになりますにゃ。で、最終的な公的性格は国家に独占されることが最初から決まっているわけですにゃ。


そして、この私的と公的が単に大小関係だけできまるのっぺりとした連続性は、

  • 私的なるものの拡大

と解釈することもできるのですにゃ。「私的なるものは「国家」においてゼロとなる」と反論されるかもしれにゃーが、この「国家」観とは家族の擬制にゃんからな。テンノーというのは「日本という家族の家長」というのがこの国家観にゃんからね。臣民は天皇の赤子なのだにゃ。
つまり

  • 個人から国家までをなめらかにつなぐ【オホヤケ】の入れ子構造は、徹底した「私的なるもの」の論理によって貫かれている


そして、この「オホヤケ」の極限としての国家観からは、【愛する者のために命をかけろ】という本来であれば私的領域の論理をそのまま企業(経済的組織)が、あるいは国家が使いたい放題となりますにゃ。そして、【愛する者のために命を】最終的なオホヤケであるクニに捧げよ、というのがまさに小林の言っていたことにゃんな。
ま、【愛】ってのはそもそも私的領域における価値ですからにゃー。


というわけで、小林あたりが言っている「公」というのは、古代日本の「オホヤケ」であって、それは実のところ「拡張された私的なるもの」でしかないことは簡単だけど論証できたと考えますにゃ。

では公共性とは何か?

では近代の自由民主主義的個人主義における公共性とは何か? 個々人は公的な存在であるとまず認めることが出発点にゃんね。

  • 人種民族性別門地信条などにかかわらず、僕が公的な存在であるのと同様に、あなたも公的な存在であること


この考え方における私的領域とは「他者のいないところ」となりますにゃ。自分の部屋でどんなHENTAIオナニーをしようが勝手ということにゃんね。ただし他人にHENTAIオナニーを見せたり強要するな、と。

僕が公的な存在であるのと同様にあなたも公的な存在であるのだから、僕があなたを自分の好き勝手にすることはできませんにゃ。つまり

  • 公共とは他人のこと

となりますにゃ。お互いに公的存在なのだから自分勝手は通らない、というのを日本国憲法では「公共の福祉」といっているようですにゃー(一元的内在制約説)。


小林は「個と公」と言っているけど、自由民主主義においては「個が公」なのですにゃ。
自由民主主義の考え方をまったく理解していにゃーから、「個と公」という対立軸で何かを語った気になっちゃっているけど、実は小林のいっていたのは「私的なるもの」の入れ子構造あるいは拡張でしかなかったわけですにゃー。彼らは「私的なるもの」しか理解できていにゃーのだ。


小林に限らず、本来は私的領域の価値である【愛】を公的なるものへ要求するというのはとんだ倒錯にゃんね。【愛】の適用対象がおかしいんだから、これはもうHENTAI。近代における公共というものを理解しておらず、私的なるものを拡大して国家を語ろうとすると【愛国】などというHENTAIにおちいるわけだにゃ。
もちろん、HENTAIはHENTAIでちっともかまわにゃーのだが、他者に自分の性癖を押し付けるのは勘弁してほしいんだよにゃー。公共領域で必要とされるのは他者への尊重であって、愛なんざいらにゃーんだな。

補足1 愛について

愛って言うのはどうも他者性を否定するところがありましてにゃ。例えば恋愛・性愛においては、自分と相手との境界がとろけるような感覚がキモですにゃ。また、親子関係においても、ガキが小さいほど親子の間は融即的な関係があるし、それはガキにとって必要不可欠なことでもありますにゃ。
家族が愛で繋がっている、ということは、見方を変えればお互いにぐちゃぐちゃどろどろっていうことでしてにゃー。


このぐちゃどろってのが家族の良いところでもあるけど、最悪のところでもありましてにゃ。例えばガキにとっては必須であると同時に、虐待の基でもあるという・・・


また、愛には排他性がありますにゃ。もちろん、愛せない対象を愛する必要なんてさらさらにゃーわけだ。だからこそ、愛は私的な領域に留めるべきものになるんですけどにゃ。公的なモノが愛を求めるというのは、愛を強制することになるわけ。グロテスクだにゃー。

補足2 パトリオティズムについて

この駄文を書くきっかけになった説明要求は、計量社会学者の han_org こと金明秀氏*2からのものでしたにゃ。彼とは以前、ツイッター上でパトリオティズム(郷土主義)について話したことがありますにゃ。


han_org: nationalism と patriotism を対置させて、前者を否定し後者を肯定するのは、時代や洋の東西を問わずに人気のあるストーリー。だけど、実証研究に照らしていえば、そう簡単な話ではないんだなぁ。
2011-01-31 12:31:18


han_org:パトリオティズムナショナリズムがあるとき、前者はとにかく差別的な性質を持つことが明らかであるのに対して、ナショナリズムは必ずしもそうではない。一定の差別的な性質を示すこともあるが、無相関であったり、場合によっては負の相関を示すことすらある。
12:41:13


地下猫:これは興味深い。パトリオティズムというのは包括的な性質を持つからでしょうか?
12:50:58


地下猫:状況によるのでしょうね。カルデロンさん一家の事例では、パトリオティズムが一家を包含して隣人として遇し、ナショナリズムが一家を排斥にまわったようなイメージを持っています。
12:53:52


han_org: パトリオティズム的 なナショナリズムというのは即自的な側面が大きい。なにせ、原初的で自然発生的な愛着がベースだからね。それは、ある意味では美しいものだろう。多くの人 が称揚したがるのも理解できる。でも、そこにとどまったままでは、そこに付随する差別的な特性を見過ごすことになるだろう。
14:08:54


文章を書きつつ、上記のやり取りを思い出していましたにゃー*3
ここで han_orgは「私的なるものの拡張」としてパトリオティズムを捉え、僕は他者の尊重という公共性の萌芽を地域社会に見ていたのだと思いましたにゃー。
地域社会というのは、現実に「私的なるものの拡張」と「他者の尊重という公共性の萌芽」の綱引きの場であるように思えますにゃ。以前、id:sk-44表現の自由をめぐる議論をしていた際にも、僕は地域共同体重視の姿勢を出していたけれど、これは地域共同体における他者の尊重、あるいは「オホヤケ」への反抗への期待というところもあったのだといまさらながら思ったりしておりますにゃー。

*1:すまぬ、手元に小林の著書がない。小林の著書から引用して批判してくださる方、大歓迎

*2:本名なので敬称付。ブログ http://han.org/blog/

*3:参考;http://togetter.com/li/95479