江川紹子氏による<森達也氏・オウム真理教新實智光氏(月刊誌『創』)批判>

2008-08-08 | オウム真理教事件

『江川紹子ジャーナル』より・・・・・
ある犯罪被害者批判について 2008年08月08日
 月刊誌『創』で、森達也という人が、オウム真理教の新實智光の手紙を無批判に紹介し、鳩山前法務大臣を「死に神」呼ばわりした朝日新聞「素粒子」に抗議をした被害者たちを非難している。
 新實は、(1)1989年2月に起きているオウムの最初の殺人事件で、教団を脱会しようとしていた男性の首をひねって殺害したのを始め、(2)1歳2ヶ月の赤ちゃんを含めた坂本弁護士一家殺害 (3)元信者に対する殺害 (4)スパイと疑われた信者に対する凄惨なリンチの末に殺害(5)スパイと思い込んだ信者でもない人にVXをかけて殺害――など、数々の殺人事件に実行犯など重要な役割で関わり、(6)松本サリン事件では下見や現場での指示を行い、(7)地下鉄サリン事件には実行犯を補佐する運転手役となり、(8)二人の人にVXをかけて意識不明の重傷を負わせたりした。さらに(9)逃げ出した信者を捕まえて監禁するなどの起訴された犯罪以外に、様々な事件に関わってきた。1994年9月に私の自宅にホスゲンガスを注入したのも、この新實である。松本智津夫の手先として、オウムの血塗られた歴史を作ってきた存在、と言える。
 その新實が、森氏に先般の死刑執行について書いた手紙を送ってきたそうだ。
 執行当日の拘置所の様子や舎房で見た宮崎勤の様子などをつづった後、新實は今回の執行について「疑問を抱かざるを得ません」と批判。そのうえで、次のように書いている。
<国家が生命を軽視していくのと比例して、秋葉原の事件のごとく、他人を巻き込みながらの自殺が増えていくのではないか?と危惧しています。日本の常識は世界の非常識と言われていますが、国連でモラトリアムが決議された中で、逆に日本だけは執行を増加させています。不思議な国、日本はどこに行ってしまうのでしょう>
 まるで、犯罪とは無縁の第三者の論評だ。とはいえ、その内容は、死刑廃止論者の典型的な言説を切り貼りしたようで、独自性は感じられない。
 それに続けて新實は、マハトマ・ガンジーの言葉としてこんな言葉を引用している。
<弱い者ほど、決して相手をゆるすことができない。ゆるすということは強さの証だから>
 いったい、新實はこのように「ゆるし」を語れる立場なのだろうか。
 前述のように、新實は多くの人の命を奪い、傷つけ、今なおたくさんの人々を苦しめている彼は、被害者に対して、ただの一度も謝罪をしていない。自らの行為を悔いてもいない。宮崎の場合も、被害者への謝罪は一切ない、と報じられている。そういう人が、過去の偉人の言葉を勝手に借用し、加害者を「ゆるすことができない」被害者や多くの人たちを「弱い者」とさげすんでいるのだ。
 本当だったら、新實は(宮崎もそうだが)、自分のなした罪と向き合い、被害者の前に這いつくばって謝罪をすべき立場ではないのか。その彼が、頭を垂れるのではなく、逆に被害者を見下ろし諭す言葉を吐いている。いい加減にして欲しい。
 オウムの凶悪事件の実行犯たちには、自分の犯した罪の大きさを実感して、精神に一時変調を来した者もいる。けれど新實は、裁判の間も、自らを省みることすら拒否し、読みかじった本の言葉を引用したりして、常にオウムや自分を批判する人たちを見下す傲慢な態度をとり続けてきた。その傲岸不遜さはまったく変わっていない。
 それどころか、自分が言うことを肯定的に受け止め、メディアを通じて社会に宣伝までしてくれる”識者”の支援を得て、彼はますます増長しているのではないだろうか。
 『創』に掲載された文章は、248行の原稿のうち100行、実に4割が新實の手紙の引用で占められている。しかも、新實自身の体験だけでなく、オリジナリティの感じられない論評部分やガンジーの引用まで載せているところを見ると、そのあたりは筆者が言いたいことを新實が代弁してくれている、ということなのだろう。
 冒頭から新實の手紙を長々と引用したうえで、筆者はまずは鳩山前法務相を、続いて朝日新聞に抗議をした「全国犯罪被害者の会」「地下鉄サリン事件被害者の会」(高橋 シズヱ 代表世話人)を非難する。(筆者は、なぜか地下鉄サリン事件の高橋さんの名前を出しておきながら、全国犯罪被害者の会の岡村勲代表幹事の名前は出していない。地下鉄サリン事件以降、オウムに”寄り添って”きた筆者は、オウム批判を続けてきた高橋さんを、格別意識しているのだろうか)
<「素粒子」の文章からは、拘置所職員や犯罪被害者に対する侮蔑や批判などのニュアンスは読み取れない><遺族の会の抗議はあまりに筋違いだ>
 筆者の自分の「読み取」りは、立場を超えて絶対正しいという自信があるらしい。
 被害者の中には、死刑を求めたことで「人殺し」などと罵倒されたり、死刑廃止論者の本を突きつけられた人もいる。そういう人が、「死に神発言」を痛みに感じ、「自分たちのことも非難されている」と受け取るのは、間違った感じ方であり、抗議などという「筋違い」はやめて、黙って耐えていればいい、というのだろう。
 さらに筆者は、被害者についてこう書いている。
<もちろん被害者遺族の辛さを、僕らはできる限りは想像しなければならない。その苦しみや怒りを少しでも和らげるために、この社会はさまざまな方策を考えねばならない。でもそれと加害者への報復や憎悪を全面肯定することは、ぜったいに別の位相のはずだ>
 「ぜったい」なのだそうだ。事実を見つめることも、自らを省みることもせず、言いたい時に好き勝手を言うだけの加害者を、せめて命で償わせたいと被害者が願うことは、「ぜったい」に許されない、ということらしい。
 この森という人は、被害者の置かれている状況について、あまりに想像力が欠けている。というより、実は被害者には(死刑に反対してくれる人以外)興味がないのだろう。さもなければ、見たくない現実は徹底的に無視する主義なのか……。そういったことは、彼がオウムについて作った映画でも感じたことなので、今さら驚かない。
 それにしても!
 ここで「筋違い」を批判された被害者の中で唯一名指しされた高橋 シズヱ さんは、夫の一正さんを、新實が運んできたサリンと実行犯によって殺されている。現実と向き合うでもなく、自らの罪を悔いるでもない殺人者の言い分を肯定しつつ、その被害者を非難する。
 この感性が、やはり私には、どうしても理解できない。


11 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (kenneth)
2008-08-09 23:42:47
 オウム真理教による一連の事件の中で、ジャーナリストとして伸し上がり、そんな自身の立場について何の迷いも窺えない様に見える江川紹子。そこにある違和感を、私はこの人から拭う事が出来ません。
 その余りの〝普通の人〟ぶりにも、〝一般的な市民〟に対し、斬新で有意な視点を提供出来るジャーナリストとしての可能性が微塵も感じられないのです。そして、この人にはオウム真理教「松本サリン事件」の被害者の一人である河野義行さんの様な高潔さも感じられません。そして、やはり、命の重さの本当の意味についても分かってはいないと思います。
 それに、一番怖い事は、この事件における犯人達への死刑執行が、将来、遺族達の苦しみを、更に深めてしまう可能性も全く無い訳ではないという事に気づいていないと感じさせる点です。犯人達の生存が、将来、この事件の姿を更に鮮明にし、社会がそこから何かを学ぶ事も、この事件の犠牲者の救済に大きく関わって来ると私は考えます。
Unknown (akira)
2008-08-10 00:13:23
立秋を過ぎたというのに暑い日が続きますね。お変わりありませんか?

この記事を昨日某所(ある弁護士さんの巨大blog)で拝見しまして、脊髄反射しそうになりながらも、急ぎの仕事に助けられて傍観する事ができました。blogのコメント欄は、江川氏に同調する意見が殆どでした。(ほっ)

旧オウム真理教一連の事件では、江川氏はあくまでも被害者の一人だと考えています。記事の中には被害者としての感情的な反応と思われる部分もあるように感じます。
このエッセイの元となった「創」は読んでいないので、あくまでも私の印象に過ぎませんが。

この文章の中で引用されている新實被告の手紙は多分・・・。
http://moriweb.web.fc2.com/mori_t/k_column.html

森さんのHPのコラム No.79(2008.7.8.) に掲載されている手紙かと。
Unknown (こと)
2008-08-10 09:10:10
江川氏の言う”せめて命で償わせたいと被害者が願うこと”は理解できるけど、
同時に死刑の愚かしさを主張することも認める必要があると思いますけど、
江川氏の文章からは、それさえも許さないという感じがして嫌でした。

犯罪被害者の会の幹事を辞任した人が、
”『復讐権』を認めた社会は、人間の文明を滅ぼすと考えています。被害者の『復讐したい』という情念を社会に伝え体という思いを否定しがたいものがあります。しかし、国家が被害者に代わって復讐することを刑罰として捉え刑事司法の改革を世論として確立する働きかけをすることは、私にはできません”
”私は、被害者の権利確立は、加害者の刑罰に係らず進めたいと考えています”
と書いておられたけど、
江川氏の考えは、まさしく復讐権を認め、それに反対する者を叩こうとする非常に低レベルな発想だと思います。
お久しぶりです。 (清爾)
2008-08-10 13:50:52
 ゆうこさん。暑いですけど、お元気ですか。いつもHPとブログ、拝見しています。良い記事をありがとう、です。
 ゆうこさんはご存知とは思いますが、この際一緒に考えてみたいと思ったものですから、ご案内します。
http://www.aya.or.jp/~r777/shibuya/TS1229.htm
 僕は光市事件事件の遺族M氏にも、このエントリーの江川氏にも賛同しかねます。被害者感情は、切り離して考えるべきだと思っています。そのために司法という場があるのだと。特に、江川氏は、ジャーナリストとして全く評価できません。
Re: (ゆうこ)
2008-08-12 10:49:54
kenneth様
 全く同感です。江川氏を私は認めていません。本日、河野さんの新聞記事があり、早速エントリしました。kennethさんのお考えに合致していますね。
http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/1306089fa9da283a6a48eb9f5e07f27a
Re: (ゆうこ)
2008-08-12 10:56:14
akiraさん。
 シーラの会、お疲れ様でした。尊い御業、ほんとに、よくなさいましたね。
>森さんのHPのコラム
 教えてくださって有難うございました。
Re: (ゆうこ)
2008-08-12 11:04:42
こと様。
 ようこそ。清爾さんがご案内くださったページに書いてあることですね。心に響きました。江川氏はジャーナリストである前に、人間としても劣っているように、私は感じてきました。「新實」「宮崎」と呼び捨てですね。
Re:お久しぶりです。 (ゆうこ)
2008-08-12 11:09:26
清爾様
 ほんとに、暑いですね。HPのご案内、ありがとうございました。いつも見てくださって、有難う。
 本日とっても良い記事があったので、エントリしました。読んでね。
http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/1306089fa9da283a6a48eb9f5e07f27a
改めて、森氏による記事を見て (kenneth)
2008-08-12 22:09:17
 改めて、月刊『創』の森達也さんの執筆による記事を見てみました。確かに、それを目にすると、オウム真理教による一連の事件の被害に遭った方々は、ただただ歯がゆい思いになるかも知れないとは感じました。森さんも、あと、もう一言、そのあたりへの気遣いを見せた方が良かったかも知れません。(全く気遣いのない記事であるとは思いませんでした)
 しかしやはり、森さんがこの記事で語っていた通り、〝報復、復讐〟の実行は、人間に許された行為ではないと思います。〝死をもっての償い〟という考え方も、自死ならばまだしも、強制されての死では、果たしてどれほどの意味が見出せるのだろうかと疑問に感じます。それに、刑罰といえども、基本的に、人が人を殺す事が果たして許されるのか、どうか。(正当防衛は別として)
 森さんの文章は、少々ナルシスティックに見えてしまう事もありますが、語ろうとしている事には賛同する部分がそれなりにあると感じています。
Re:改めて、森氏による記事を見て (ゆうこ)
2008-08-13 08:27:00
kennethさん。
 コメント、ありがとう。

>気遣いを見せた方が良かったかも知れません。(全く気遣いのない記事であるとは思いませんでした)

 死刑廃止を目指す人たちの言動から、私も、「気遣いを見せた方が良かったかも」と感じることがしばしばありました。死刑の問題を考え、書物を読んだり、人々の言動を見聞きしてきましたが、そういう私の目からは、森さんも、ありふれた一人に過ぎません。駆け出しのモノ書きの書いたものを「若書き」とか言いますが、如何にもそんな感じを受けたものです。これから成熟に向かうのでしょう。「処女作に向かって成熟する」という言葉も、森さんを見ていて実感します。初期のものの方が良かったようにも感じるのです。何人もの人が森氏の『死刑』の書評をしていまして概ね好評ですが、私は読んでいないのです。ありふれた本に過ぎないだろうと思うからです(他の人のでも、この種の本で感動したことは、滅多にないのです)。
 拙HPからで恐縮ですが、
“『死刑』の最後の記述は、「どんな人間でも出会った者を、僕は死なせたくない」というものだ。http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/mori-shikei.htm ”
 とあります。甘くてどうにもならないなぁ、と感じたものです。光市事件の被告人に面会したときの感想でも、そのように言っていましたね。

>森さんの文章は、少々ナルシスティックに見えてしまう事もありますが、語ろうとしている事には賛同する部分がそれなりにあると感じています。

 死刑の問題は、甘くなってはいけない、寧ろ冷徹なくらいの姿勢で臨むほうが好ましい(=河野義行さんの理性・高潔・愛のように)と考えています。とりわけ「廃止」を指向している場合、人の賛同を得るためには、徹底して情緒を排し、客観して考えなければ、と思っています。

 いつも示唆に富んだコメント、感謝です。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。