見もの・読みもの日記

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奇跡の文庫/古事記1300年 大須観音展(名古屋市博物館)

2013-01-22 23:31:03 | 行ったもの(美術館・見仏)
名古屋市博物館 特別展『古事記1300年 大須観音展』(2012年12月1日~2013年1月14日)

 最終日(1/14)に参観。玄関前に、ずいぶん人が多いと思ったら、地下の講堂で成人式のイベントが始まるところだった。まあそうだよな、と納得して中に入ったが、展示会場も意外と人が多かった。少なくとも前半は、ひたすら文書資料が続く地味な展示なのに、やっぱり地元の力なのかな。よいことだ。

 展覧会趣旨に云う。――節分や門前町のにぎわいで多くの市民に親しまれている名古屋市中区の大須観音。この大須観音が国宝『古事記』を初めとする古典籍の宝庫「大須文庫」を持つことは、意外と知られていないのではないでしょうか。

 うむ、知らなかった。古事記の最古写本が「真福寺本」であることは、どこかで習ったけど、その真福寺がどこにあるのかは、考えたことがなかった。以前、愛知県岡崎市の真福寺に行くことになって、「真福寺本古事記の?」とわくわくしていたら、全く勘違いだったことがある。実は、「その真福寺」は岐阜県羽島市桑原町大須にあって、現在も「元祖 大須観音」を名乗っている。名古屋の大須観音は、正式名称を北野山真福寺宝生院といい、400年前の慶長17年(1612)、現在地へ移転してきたのだという。

 展示の冒頭「大須観音のはじまり」は、鎌倉時代末期、能信上人による創建と精力的な聖教収集活動が紹介される。能信は武蔵国高幡不動堂の儀海から真言密教の法流を伝授され、高幡からさまざまな聖教を写し持ってきた。西東京人として、こんなところで高幡不動の名前を聞くのは、ちょっと意外。真言密教ってアーカイブズとの親和性が高いんだなあ…。

 東大寺東南院と所縁が深かった二世・信瑜、"貴種"(法親王)三世・任瑜らの努力によって、大須観音(宝生院)には、仏書だけでなく、漢籍、神道書、東大寺文書、さらに往生伝や禅書、仏画など、多様な資料が蓄積されていく。展示には、聞き覚えのある古典籍がキラ星のごとく並んでいた。『日本霊異記』『遊仙窟』『本朝文粋』『将門記』『和名類聚抄』など。奈良時代写の『漢書食貨志』(国宝)も。

 こうして、中世日本の「知」の拠点がつくられていく過程の一例を見ていると、吉見俊哉氏が『大学とは何か』で描いた、写本を求めて旅する中世ヨーロッパの学者たちと本質的には変わらないのかも、と感じられた。

 大須文庫には、貴重な宋刊本(漢籍)もあるが、圧倒的多数は写本である。そして、マイクロフィルムとかデジタルメディアとか、保存・複製技術はいろいろあるけど、やっぱり「写本」最強だろう、と思った。書写者の「念」が、文庫を守っているような気がするのだ。オカルトっぽいけど。そうでなければ、木曽川と長良川の中洲に誕生し、名古屋の稠密な市街地に営まれながら、水難にも火難にも遭わず、今日に伝わってきた奇跡が説明できない。特に、昭和20年の空襲で大須観音の伽藍が街もろとも焼失したときも、耐火建築の文庫だけが残ったという話には、天明の大火で焼け残った京都・冷泉家の御文庫(土蔵)を思い出した。

 注目の『古事記』は第2室にあった。私は、大須本(真福寺本)古事記が最古写本(応安4-5/1371-72年写)と判明するまでの経緯を、今回の展示で初めて詳しく理解した。書写年を発見したのは、尾張藩士・稲葉通邦(1744-1801)である。通邦は、糊綴じの部分に、書写者と思われる賢瑜という人物の名前と年齢のメモ書きを発見する。そして、のちに別の資料の奥書に、賢瑜の年齢と書写年が記されているのを発見し、大須本古事記の書写年を特定したのである。残された通邦の上申書によれば、これが1797-8年頃のことらしい。私は稲葉通邦の名前も、今回初めて知ったのだが、その文化的功績は、『古事記伝』著者の本居宣長以上に称えられてしかるべきじゃないか、と本気で思う。

 通邦は大須本古事記の出版を考えていたが、果たせずに急死してしまう。無念だったろうなあ…。会場で、宣長(1730-1801)の『古事記伝』出版が、1790-1822年という年表を見ながら、宣長は大須本を知らなかったんだろうか?と思ったが、展示図録の解説によれば、1786-7年頃、大須本の写本を取り寄せ(←たぶん通邦から)校合作業を行なった記録があるという。なるほど、ちゃんと『古事記伝』出版前に見ているんだな。ただし、同写本が「日本最古」と確定するのは、明治以降のことだ。なお、大須本古事記は、鴨院文庫(藤原摂関家伝領の文庫)→東大寺東南院を経て、伝わったものと考えられている。

 江戸時代には、『続群書類従』編纂のため、塙保己一が調査に訪れたり、尾張藩寺社奉行所による蔵書整理が行なわれた。昭和初期には、黒板勝美による目録整備がなされた。そして、現在も名古屋大学文学研究科と名古屋市博物館を中心に、調査・整理作業が続けられており、「平成の新発見」が相次いでいるという。

 こういうフィールドワークは、ロバート・キャンベル先生ふうに言えば「研究以前の作業」と見なされる面もあると思う(※東大ホームカミングデイでの講演)。しかし私は、需要な「作業」だと思う。ああ、私が生涯かけて仕事にしたかったのは、こういう作業だったかもしれない、と思った。

 次回はぜひ、庶民の信仰の街・大須観音にも行ってみよう。

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