ペットボトルを置いて

■12.4排外主義デモに抗議した「黒い彗星」の不当逮捕にかんする声明(6日に釈放) 
http://livingtogether.blog91.fc2.com/blog-entry-83.html#cm
YouTube - 12.4 黒い彗星@渋谷
http://www.youtube.com/watch?v=qvdXPdxFjt8

 12月4日については、彼とは別のカウンター行動を行っていたのだが、自分達は警察に阻まれてうまくいかなかった。このような不当逮捕があったことは後で知った。
 想像力の問題である。
 幾度と無く街頭にヘイト・スピーチを撒き散らし、外国人を威圧し、昨年には小学校さえ襲撃した排外主義の集団に、一人の韓国籍の青年が抗議を行った。彼は、バナーを持ち、在特会のデモの前に立とうとした。たちまち複数の人間が彼に襲いかかり、その後、彼は集団リンチにあった。
 映像には、排外主義の暴力がはっきりと映し出されている。それは彼を病院送りにさせるほどのものだった。映像には、警察も映っている。警察は何をしたか?排外主義の暴力を放置し、バナーを広げて抗議しようとした韓国籍の青年のほうを逮捕したのである。
 少しの想像力があれば、こんなことはあるはずがない、あってはならない、と思うはずだ。しかし、そのありえないことが起きたのだ。まさに「さかさまの世界」である。青年は集団で襲いかられ、リンチされるにあたって、本能的な防衛行動に出たかもしれない。しかし、はっきり言おう。だからどうしたというのだ?この圧倒的な排外主義の暴力を見て、なお青年がその中でどのような抵抗の仕方がありえたか、が中心的問題だと考えるべきなのだろうか。そんなわけはない。少しの想像力があれば分かるはずだ。
 さらにいえば、警察は彼を逮捕してから病院へ搬送するにあたって、数時間にわたって放置しているのである。あたかもこの国が治安維持法の時代に戻ったかのようだ。ちなみに、許可証が無いというだけで入管によって劣悪な環境に収容されている外国人たちは、医者にかかることさえできないこともある。在特会の排外主義暴力は、こうした日本国家の排外主義政策によっても正当性を与えられているのだ。
 さかさまの逮捕を引き起こした第一の責任は、もちろん警察に帰せられなければならない。だが二番目は?それはもちろん日本にある。もっといえば、日本の市民社会にあるのだ。在特会の排外主義を放置し、「やがて自滅する」「彼らも疎外された人々なのだ」などと理由をつけ、直接に対峙することを避けてきた市民社会の側に。仮に上記の解釈が正しかったとしても、排外主義の集団は、まず街頭の市民によって包囲されなければいけないし、排外主義や差別的な言論は、市民社会が自ら追放しなければならない。

 もう一度映像を見てみよう。この映像で、一番見るべきポイントはどこだろうか?排外主義の暴力が行われていることだろうか?青年の抗議行動はバナーを持ちデモの前に立つことであって、けして暴力的に襲い掛かることだったわけではないことの確認だろうか?確かにそれも重要かもしれない。しかし、一番見なければいけないのは、彼がペットボトルを道端に置き、ゆっくりとデモのほうに向かうその瞬間ではないだろうか?
 
 今こそ、我々がペットボトルを置くときが来たのではないだろうか?
 
デモの前に躍り出る必要は無いし、バナーも持つ必要は無い。ただ、奴らのデモを見かけたら、排外主義に反対、外国人差別に反対と、街頭から一言でもかけるべきなのではないだろうか?反対車線からでもいい。にらまれたらそのまま逃げ出してもいい。とにかく、排外主義と差別は市民社会には必要ないということをはっきりと表明するのだ。「黒い彗星」を英雄視するのではなく、逮捕に抗議しつつも彼の行動に対してもやんわりと「たしなめる」のではなく、皆が最初から「黒い彗星」であったかのように行動する。それこそが、さかさまの逮捕を告発し、彼と連帯する唯一の方法ではないだろうか。