ミラー・インサイド・ミー『ブラック・スワン』

公開されるやいなや大絶賛の嵐を巻き起こしている本作。ボクも初日にかけつけてまいりました。世界で最も有名なバレエ『白鳥の湖』の主役の座を射止めた主人公ニナ(asナタリー・ポートマン)。彼女の抱く狂気についての物語。

映画のなかで印象的なのは「鏡」の存在だった。何を踊ってもジョン・ヘダーの足元にも及ばないボクには到底わからない感覚なんだろうけど、バレエに限らずダンサーを志す者にとって、自分を高めてくれるモノが「鏡」なんだろう。映画には物体としての鏡だけでなく、主人公ニナの「鏡像」としてのキャラクターが登場する。なりたい自分/なりたくない自分/なるかもしれない自分、すべての女性たちが主人公ニナには「鏡」として見えているわけだ。彼女が見てしまったその狂気をストレート且つ飾らずに映像化していて、そのシーンには恐怖を覚える。だってなんかスゲエんだよ!

その、なんかスゲエ狂気ゆえに葛藤してしまう彼女は、「どれが本当の自分なんだろう?」「私は一体何をしているんだろう?」という不安に襲われるのだけど、その不安の「源泉」って「物語の偉大さ」なんじゃないかと思う。『白鳥の湖』というバレエ作品は、何もプロのバレエダンサーに限らず、いわゆるお遊戯なんかでも上演されてきた作品だから、当然彼女のためだけにつくられたモノとは言えない。だからこそ、彼女には『白鳥の湖』に携わってきた多くの先人たちの歴史/物語が、偉大な重圧となっての伸し掛かっていたんだろう。しかし、だ。この映画において彼女が『白鳥の湖』という作品をどうやって自分のモノにするのか?どうやって主役の座を射止めるのか?その方法とは驚くことに先人から「盗む」ことだったのだ。

この映画を語るうえで避けて通れない作品は昨年8月に亡くなってしまった今敏監督の『PERFECT BLUE』であるけれど、『ブラック・スワン』には「先人から盗むこと」がそっくりそのまま物語でも描かれていて、その行動がすべての物語のキッカケとなっている。さらに、それまで感じていたただならぬ恐怖の正体とは「畏怖」だったのだと感じた場面が、口紅を盗んだことをベス(asウィノナ・ライダー)に伝える場面で、あそこで見るニナの幻覚は「私には何もない!私はからっぽなの!」というものだったけれど、ボクはこれアロノフスキー監督自身の声だと受け取る。町山智浩さんが「今敏監督へ捧げる、という一文さえあれば完璧な映画だった」とキラキラにてまさに完璧な映画紹介をされていたけれど、ボクはアロノフスキー監督が「影響は受けていない」とウソをつくことで、劇中でニナの取った行動とアロノフスキー監督の作品完成までの「狂気」がどこか重なっているように思えて、これはすごい!と感動してしまうのだった。が、当たり前だけど、そこまでの内幕なんて、いち観客であるボクに分ることじゃあない。ボクにできるのは作品に対し畏怖を覚え、打ち震え、彼女の見た“完璧さ”とはどんな景色だったのだろうとの想いを馳せ、その感動をなんかスゲエんだよ!と周囲に伝えることだけなのだ。黒鳥になって踊り狂うニナへと拍手を送る観客たちに自分の「鏡像」を見つつ。