セラピーとしてのTRPGについての心配事

AGS様で更新がありました。
【テーマ連載】CBT的アプローチのセッション運営(第1回): Analog Game Studies
伏見健二様による、認知行動療法(CBT)としてのTRPGセッションです。
xenothの立場は、TRPGを安易にセラピーとして見ることは危険であるというものです。

TRPGの力

TRPGというのは、精神的に大きな力を持ちます。
協力して物語を創り上げるという活動は、互いの心を深くつなげる力があります。
TRPG好きの身贔屓もあると思いますが、たとえば感情移入ということであれば、様々な娯楽の中でもTRPGは非常に強い力を持つほうだと考えています。


一方で、強い感情移入というのは、良いほうにも悪いほうにも働きます。
TRPGによって、成功体験を与えたり認知を補正したりすることができるというのは、そのまま、強いストレスを与えて認知を歪めることもできるということです。


故に、TRPGをプレイする際は、その力について慎重かつ自覚的であることが大切と考えています。

私たちとTRPG

医師や専門家が治療方法の一つとしてTRPGを研究してゆくことがあれば、それは素晴らしいことだと思います。


一方で、記事の冒頭にあるとおり、伏見氏自身、医師や臨床心理士ではありません。それでも伏見氏は、実際に介護の経験がある伏見氏ならともかく、私を含むAGSの読者のほとんどは、介護についてもカウンセリングについても完全に素人です。


何が恐ろしいといって素人のカウンセリング気取りほど、恐ろしいものはありません。


xenothが素人として理解しているカウンセリングの基本は、受容と共感です。自分の意見を押し付けず、かといって相手の意見に流されすぎず、受け入れて理解を示しながら行ってゆくわけです。
それは簡単にできることではなく、だからこそ専門家がいるわけです。


一方、TRPGにおいては「自分の世界」を見てもらうことが、GMの楽しみの一つです。だからこそGMが好きな人は、自己顕示欲の強い人が多い。
もちろん、押し付ける一方では嫌がられるので、マスタリングには受容が大切ですが、ともあれ強い自己顕示欲とGMは、なかなか切れないものです。


そんなわけで、GMをすることとカウンセリングの両立は、非常に難しいのではないか、というのがxenothの素人考えです。

 逆に、失敗すること、そして失敗を挽回する、という経験を与えることも重要です。精神的に健康な児童に対してのゲーム体験は、このような「失敗経験」こそを与えるように、慎重で巧妙なストーリー展開を用意するべきです。しかし失敗は大きなストレスとなり、ゲームを「投げ出す」危険性がありますから、薬を糖衣で包むように、成功と報酬を準備する必要があります。この視点においては、「喜び」は「苦しみ」を覆い隠すための調味料として活用すべきものであり、それそのものが目的ではありません。

例えば、ここに書かれているようなことは、必ずしも間違ってはいないかもしれません。
専門家が適切に行うのならば効果があるのかもしれません。
一方で、私がGMという立場から児童への教育という位置づけで、「失敗経験を与える」ために、「苦しみ」を薬とし、「糖衣で包むように、成功と報酬を準備する」マスタリングをすることを考えると、非常に危険な感じがします。


そういう視点、目的で、相手のことを思いやってマスタリングできるでしょうか?
「自分がエラい」と勘違いしてしまわないでしょうか?
思い上がった神となって、相手をコントロールするようなマスタリングになってしまわないでしょうか?
「失敗からの挽回経験を与える」はずが、「ぬるい若者に現実の厳しさを教えてやる」的な勘違いをしないでしょうか?
相手の心に共感して寄り添うのではなくて、自分の正しいと思う信念を一方的に押し付けてしまわないでしょうか?
それによって相手を傷つけたり歪めたりしてしまわないでしょうか?


そうしないでいられる、という自信は私にはありません。

TRPGをやる前に

 会話型RPGが遊ばれる現場において、精神疾患を有していたり障害を有していたりする方の状況が正しく理解されず、いわゆる「困ったちゃんプレイヤー」として排斥されてしまう事例がままあります。これらの問題や対応について、容易な解決を見ることは難しいでしょうが、認知行動療法の予備知識があれば、状況を改善するための何らかの糸口、思考のヒントを得られるかもしれません。少なくとも、従前よりも状況をより的確に理解することができるようになるのではないでしょうか。

岡和田氏の前書きにはこうありますが、その場合に必要なのは、精神疾患や障害を持つ方についての知識や経験、心構えでしょう。あるいは知識も経験もないので、慎重になること、専門家の助けを仰ごうという判断でしょう。
いきなり「認知行動療法」は話が飛び過ぎです。


生兵法は怪我のもとと言います。
本来、どんな知識でもきっかけとしては大切ですが、不十分な知識に基づいて行動することの危険性もまた理解すべきです。


繰り返しますが、専門家が適切な知見の上で、TRPGを応用することを否定するわけではありません。そうした研究があってよいと伏見様が提案することも理解できます。

 もしも貴方がTRPGに飽きが来たとしたら、次はこのような視点で、遊びの中で人に干渉し、人を手助けできるツールとしてのTRPGの分析と利用を考えてみてもらいたいと思います。

ですが、ここに書かれているように、ただの素人が「人に干渉し、手助けするツール」としてTRPGを利用しようとすることは、大変に危険であると考えます。


私たちが行うセッションはセッションとして、ただのゲームであって、現実ではないと割りきって、娯楽として行うのが良いと思うのは、そういうわけです。

追記

お知らせです。Analog Game Studiesに、伏見健二さまによる「CBT的アプローチのセッション運営(第1回)」、再掲されました。RPGを通じて、福祉や精神医学について考えてみましょう。 興味が湧いたら専門書にも触れて下さい。http://t.co/Nd1i2Zd
http://twitter.com/orionaveugle/status/62311341821673472
素人が、こうした問題に半端に手を出すのは危険ではないか、という懸念があるかもしれません。しかし、まったく予備知識がない状態のほうがかえって危ういのでは、と私は考えます。なまなかな価値判断は禁物ですが、まるで予備知識がなければ、専門家へと繋ぐ、橋渡しもできはしません。
http://twitter.com/orionaveugle/status/62312582362574848
素人である私たちにできることは限られています。また、精神分析を装った疑似科学も古くから存在しています。 ですが、最低限の知識を持つことで、私たちが、まま陥りがちな、偏見を緩和することは可能でしょう。
http://twitter.com/orionaveugle/status/62313436935233536

ツイッターでの、こちらの岡和田氏の紹介を拝見しました。


予備知識は切に必要と思います。
一方で、今回のAGS様の記事は、一般的な読者にとっての予備知識には全くなっていないところを懸念しております。


まず今回の記事は、基本的に、介護者やカウンセラーが、TRPGを利用する場合に基づいて書かれており、「TRPGセラピストになる」と題して、読者にもそうした視点からのTRPG利用の検討を勧めています。
その危険性についても書かれていますが、それにしてもこれは「専門家へとつなぐ橋渡しのための予備知識」の部分を超えています。


伏見様の文章は、読者が、精神障害や知的障害、あるいは児童との教育において、一定の知見を持っていることが前提となっています。


たとえば児童教育において「失敗体験とその挽回」を重視しています。
多種多様な児童とのつきあいかたの中で、場合に応じて、そういう教え方を選ぶのは良いと思います。
でも、教育を専門としていない一般的な読者は、そうしおた子供の多様さを把握できていません。
そこで「失敗体験と挽回」だけ言われても受け入れにくいですし、無理に受け入れれば、「子供にはみんな失敗を!」的な薄っぺらく危険な理解になってしまいます。
知的障害者における反復ソーシャルスキルレーニングのお話も同様です。お話自体は意味があるのでしょうけれど、一般読者としては「知的障害者ソーシャルスキルレーニング」的な理解しかできない。


繰り返します。
予備知識は大事だと思いますが、一般読者向けの予備知識としては、今回のAGS様の記事は間違った方向に向いていると思います。
一般読者にとっての予備知識であれば、一般読者に向けたものをお願いしたいと思います。