とどけたいことば

大変な状況だからこそ、お互いの事を信頼し、前向きな遣り取りが出来る事をどらねこは願っています。そんな気持ちで思うところを正直に書いてみました。
■ボクたちはそんな風に社会化された
小さい頃、『知らないおぢさん(人)についていってはイケナイよ』、そんなふうな話をされた記憶があります。知らない人が全部アブナイわけじゃない、中にはイイ人もいるのかもしれないけれど、知ってる人よりアブナイことはたしかです。子どもにはその人がアブナイ人なのかイイ人なのかの判断はとても難しい。だから本当はアブナイおぢさんじゃないのかもしれないけれど、知ってる人より知らない人のほうがアブナイのは事実だから、知らないおぢさんにはついていかないように、と教えることでリスクの回避を図るわけですね。でも、それってつまり、そう教えないと子どもは知らないおぢさんにでもついていくってことだよね。じゃあ、どうして知らないおぢさんでもついていってしまうんだろう?
それはきっと、子どもは自分に対して好ましい(好ましくみえる)態度や対応を示してくれるヒトを信用することにメリットがあるとすでに学習しているからだよね。最初は母親、父親など身の回りの面倒を見てくれる人たち。そして親族や近所に住んでいるヒト、お店の人たち。保護者に抱かれておっかなびっくり、いろんな人と出会っていく。そうして、多くの人がにっこりほほえみ、大丈夫だよ、ほらイイコだね、と声を掛けてくれる。そうしてボクたちは知らない間に社会化されてきた。誰に対しても猜疑心タップリではすぐに疲弊をしてしまうから。人を疑うなんてホントは割に合わないことなんだ。向こうから手をさしのべてくれる人を拒否することは割に合わないってことを、ボクたちは早い内から自然に学習してるんだね。
だから、あえて『好ましい態度を示してくれる人→信じて良い』にも例外があることを示してリスクを回避させる必要があるんだろうね。そんな例外が有ることを学びながらも、ボクたちはおおむね友好的に接してくるヒトに対しては緊張をゆるめ、相手のお話を好意的に聞くように社会化されていった。人間の社会はみんなで協力して一人の力でできることよりも大きなことを成し遂げていくものなんだから、基本的にはお互いの信頼で回っていくほうが効率が良いものなんだよ。

■円滑な社会
自分の周りは敵だらけだ・・・。そんな風に思ってしまうと、ちょっとした事を実行するのにも大変な手間が必要になってしまうだろうね。

店員が話しかけてきた、コイツ僕に不要な在庫品を売りつけようと企んで居るんじゃないか?

財布落としましたよ?知らないオジサンが話しかけてきた。でも、それは僕のじゃない。きっと拾った瞬間泥棒扱いするに違いない。

まぁ、ちょっと極端な例ではあるんだけど、笑顔で話しかけてきた相手を見て、すぐに何かを企んでいるに違いない、みたいに思ってしまうのではとても生きにくいと思うんですよね。でもさ、そこまで極端では無いにしても、一度痛い目にあったら他人が信じられなくなると謂う気持ちはよく分かるんですよ。詐欺師の手口なんてまさに、集団社会を生きるうえで重要な信頼関係を悪用しているわけですね。だから、一度詐欺に引っ掛かったヒトは本当は悪意の無いヒトまで疑うようになってしまうかも知れない。そうやって人を信じられなくなることは、金銭的な直接被害とはまた別の二次被害と謂えるんじゃないかな。
悪意や猜疑心が蔓延する社会だったら、信頼で成り立っている社会活動の多くは円滑に行われない事になってしまう筈だよね。だから、ヒトの善意や信頼を弄ぶような悪徳商法や詐欺に対しては厳しい目を向けて、取り締まることが必要だと思うのも自然だよね。
それでも、『疑わしきは罰する』と謂うようなやり方はスジが悪くて、それって結局権力が猜疑心だけで人を裁く行為だよね。人々が猜疑心を抱く代わりに権力が人を疑いだけで裁くのなら、そっちのほうがもっと怖い。人を罰するのは犯罪を行ったことが明白な場合だけに留められるべき。冤罪ダメっ、なわけ。
だからさ、人の信頼感を損なうような犯罪がなるべく行われないように、自分たち自身が自分たちの為に努力していく必要があるのでしょうね。本当はそんな犯罪を犯そうと思うヒトが居なくなれば一番良いのだけれど・・・。
その為の方法には、法律で取り締まるとか個々人が慎重になるとかあるのだけれど、そうじゃなくって、幼い頃ワクワクした正義の物語を信じる気持ちを、親からニッコリ笑いかけられ安らいだ気持ちを思い出したりして、相手の信頼を逆手にとるような方法は良くないこと!と、思いとどまるようになれたらなぁ、なんて思うんだよね。相互の信頼が喪われた社会は高コスト社会なんだよ、と謂う理解がみんなに共有されていれば、人の信頼につけこもうと思う人も少なくなるかもしれない。
『誰かに騙されるのは騙されるほうが馬鹿なんだ』って言い分は、一見合理的に見えるけど、もっと大きな視点で考えるととっても非合理なんだ。相手が自分を騙すかもしれないと身構え自衛するコスト、相手を信頼出来ないことで協力して行う作業の能率が落ちるコスト、そう謂うふうに考えていくと『騙されるほうが馬鹿なんだ』式の考え方って、無駄なコストを払うのが当然だと言ってるのと同じことなんだよ。

■そんな理由で買ってくれた
僕は昔、接客販売業務をしていた事がある。最初の頃はお客さんに話しかけるとき、緊張してしまいぎこちない笑顔になっていたと思う。慣れてくるとだんだん余裕が出てきて、笑顔に遠慮がちな自信を覗かせながら話しかけるようになった。そうしたら面白いように売れるようになった。
僕は、お客さんからまず必要とする機能をはじめとした要望を聞いてから提案を行った。すぐには満足してくれることは少ないからそうした遣り取りを繰り返した。そうして最後にお客さんを後押しする納得を引き出すヒトコトで購入してもらうことが出来た。こうやって商品を買ってもらった後にはなんとも謂えない満足感が残った。
それとは違い、僕を不安にさせてしまうような事もあった。ある時、高齢の方が買い物に来て、僕は最大限丁寧な接客をしようと優しく笑顔で話しかけた。そうして、こんなのはどうですか?と提案した。そしたら、すぐに購入を決めてくれた。どうして購入を決めてくれたのだろう。
『あんたが薦める商品なら悪いわけは無いと思った。あんた正直で優しそうだから』
その時は嬉しかったと思う。僕の接客技術が受け入れられた、と。でも、今の僕はこの話を思い出してちょっと恐ろしくなる。あの人に必要のないモノを提案したとしても同じように買ってくれただろう・・・と。
それから、僕はずぶの素人の割にはバンバン売りまくった。その様子を見ていたメーカーの販売促進の人が僕に商品券を手渡した。ウチの商品を沢山売ってくれるから気持ちだよ・・・、と。僕は受け取ってしまった。あの商品が良いと思うから薦めたんだ・・・、だからナニモモンダイナイ、モンダイナイと。何で受け取ったんだろう?
それから間もなく僕はその仕事を辞めた。別に罪悪感とかじゃなくて・・・でも、自分には合わないと思った。もし、その仕事を続けていたとして、必要のないモノを薦めないで居られただろうか?
その方は『どらねこさんだから買うんだよ』と言ってくれたけど、僕は本当は『貴方の説明に納得できたから買ったよ』と言われる事を目指していた。その説明を聞いてもらう為に必要な手続きが、相手に受け入れられそうな笑顔と好ましい話し方だったのだけれど・・・その方が欲しかったのは、『説明』じゃなくて『笑顔と話し方』だけだったのかもしれない。
だから僕は、僕の『笑顔と話し方』を信じて『説明』を必要としないような全面的な信頼が怖かったんだと思う。相手の信頼につけこんで自分の成績を上げようなんてワルイ事を考えなくても、僕が必要だと考える物が必ずしも相手にとって必要だとは限らないよね。僕とその方は別の人間なんだから、そんなことまでは分からない。だから僕はキチンと説明してその方自身に判断してもらいたかった。
でも、その方は僕が必要だと言ったら『そうだね、必要だね』って思って買ってくれるかもしれない。多分相手は説明なんて聞いてなくて、僕の笑顔や話し方だけを見て、そこでもう『判断』を終えてしまっていたのかもしれない。本当はその人自身が自分で判断しなきゃならないことを、他人の僕が判断して僕がその判断に責任を持たなきゃならなくなっていた。
僕はそれを仕事だからやっていて、その仕事や能力が評価されて褒められたいと思っていただけなんだけどね。
でもある時ふと考えた・・・その方は僕が必要だと言えば必要だと思ってくれるのだから、全然騙したことにはならないんじゃないの?だったら、その人にたくさん買って貰って売上を増やすことはちっとも悪いことではない・・・、と。だんだんとそんな風に納得をさせようとする自分がいた。この仕事は続けられないな、なんとなくそう思った。


■好悪で判断と合理的に判断
相手に対する印象で価値判断を歪めてしまう事は誰にもあると思う。同じ事を謂われても、○○さんなら受け入れやすいけれど、△△さんからだと反発してしまう・・・みたいな。前段で書いた、相手に対する印象で購入を決めた人はその傾向が強かったのだと思う。
でもね、その方だって全部が全部好悪の基準だけで物事を判断していたワケではないと思う。極端に言えば、いくら相手の印象が良くても、買いに来たモノと別なモノをいきなり薦められたら買うワケなんて無いからだ。その中にはある程度の合理的な判断が存在するはずだ。
判断を行うにあたり、人によって好悪と合理性の寄与する割合が違っていたり、その時のコンディションや何を決めるのかによっても判断の参考基準は変わってくるのだと思う。だからこそ、自分が信じてもらいたい話、妥当であると思われる話を相手に伝えたい場合には、なるべく好悪の判断基準についても働き掛ける努力は続けるべきだと思ってるんだ。
さっきの話で謂うと、たとえばお客さんが何か欲しいと思ってお店に来て、店員の態度が『えっ、そんな事もわかんないの?』『自分のお金を遣うのにそのくらいの勉強もしてないの?』『ちょっとは勉強してこいよ』みたいな冷たく見下したものだったら、誰も買ってくれないよね。そのお客さんが何かを欲しいと思ってお店に来たことは事実なのに、店員の人柄が信じられないから何も買わずに帰ったとしたら、それはお客さんにとってもお店にとっても一つも良い事はないよね。
だから、僕は笑顔と話し方を良くすることは、お話を聞いてもらう為の必須条件なんだと思う。あのお客さんの事でも、笑顔と話し方のおかげで『話を聞いてもらう』と謂う段階までは行っていたのだから、今ならもっと違うことが出来たんじゃないかな。『どらねこさんが良いと言うんなら買うよ』と言われても、自然にご本人に判断してもらうような説明の持って行き方があったんだろうと思う。
僕が『これが一番良い』と決めてそれを薦めるのじゃなくて、いろんな選択肢を用意してきちんとその違いを説明することで、自然にその方自身に判断してもらうことは出来たんじゃないかな。そう謂うふうに説明すれば、少なくともその方が本当に欲しかったものを一緒に探しながら見つけていくと謂うことくらいは出来たのだろう。僕はその程度に人間って合理性を持っていると思うんだ。。


■鏡を見る
そんなふうに人を好悪で判断する事って、『何も知らないお客さん』だけに限ったことなのかな、とも思ったりする。僕自身、その方みたいに僕を信頼してくれるお客さんには熱心に説明しようと思ったり、逆に態度の悪いお客さんにはちょっと不親切な説明をしてしまったり、と謂う事はあったんじゃないか。『おっ、この人ちゃんとわかってるな、勉強しているな』と思うと説明に熱が入ったりね。
『こんな奴には説明してもわかりっこないから無駄だ』『こんなイヤな奴に親切にしたくない』と思う気持ちって態度に出たりするよね。それが相手に伝わることで、説明を聞く気がなくなってもしょうがないんじゃないかな。相手が好悪で物事を判断しているのと同様に、こっちもその相手を好悪で判断している所はあるんだと思う。でも、話を聞いて欲しいと思ったらそれじゃダメなんだ。
僕はこのブログで代替医療やアヤシイ健康法の問題を採り上げることが多いけど、それはそれが間違っているから指摘したいわけじゃない。それが人を不幸にするから、それが人を騙して他人に対する信頼を喪わせるから、僕に出来る限りそれに対抗して阻止したいと思ってそんなお話をしています。だから一人でも多くの人に僕のお話を聞いてもらいたいと思っている。
僕は人間が代替医療やアヤシイ健康法に騙されるのは、その人が合理的な考え方が出来ないからじゃないと思っている。lets_skepticさんがこのエントリ*1で仰っていることなんかまさに僕の考えていた事と同じです。

ひとは意外と合理的で、まがりなりにも合理的な筋道が立たないものを信じるのは難しい。間違った結論に達する過程には、事実誤認があったり、論理展開が間違っていたり、飛躍があったりするもんだけど、信奉者がどのような筋道で信じているのかが重要。多くの場合、信奉者と批判者の一番の違いというのは、暗黙の前提が全く異なることが原因なので、そこまで落とし込むことができたら第一段階成功と考えていいと思う。

状況を全て把握する事なんて不可能だから、全ての場面で的確な判断を下せるなんて事は幻想に過ぎないと思うのね。この過去記事*2でも語ったけど、自分は偶然にその暗黙の前提の違いに気付くことが出来たから、こうやって根拠の無い代替療法やアヤシイ健康法に対する批判めいた事を行っているわけで、根拠の無い言説と気がつかないで、ソレを正しいモノと誤解をしてしている人たちとの違いはそこだけなんだと思う。
だから、まず話を聞いてもらうところから始めなくちゃならないんじゃないかな。同じ目線で話し合うところから始めないと、誰も自分の間違いに気付こうとはしないだろうし、説明するほうだって何処が間違っているのかわからない。頭ごなしに間違いを指摘したって、話を聞いてもらえなかったら意味がないじゃない。
そして、少しでも多くの人たちに話を聞いてもらう為には、対話のチャネルを広くしていかないといけない。その場合、好悪の選択基準をクリアすることって第一条件なんじゃないかと僕は考えている。『自分の話を聞くべきだ』『聞くのが当然』なんて態度の人の話なんか、僕だって聞きたいとは思わないからね。
自分に対して優しく親切に話しかけてきてくれたことで、妥当性の無い言説を信じてしまった人が居たとしても、その人の行動は社会的には批判される類のモノではないと僕は思う。この社会は原則的に信頼関係で回っているんだし、その信頼を踏みにじる悪意が横行しているからと謂って、その判断基準で人を信じるかどうかを判断する行為自体は間違っていないんだから。

■あの事故があってから
去年までと今年では、社会状況が大きく変わっていると考えるのは当然だよね。僕たちは、今の状況で、福島以外の地域では放射性物質についてそれほど厳重な警戒を要する状況じゃないことは知っているし、電力供給以外のリスクがそんなに高くないことも知っている。だから危機的状況なんかじゃないと謂う前提で物事を考えてしまいがち。
たしかに原子力発電所が大爆発して大量被曝したわけでもなければ、致命的なレベルで放射性物質が飛散したわけでもなくて、被害規模は大きいとしても、大勢の人が亡くなるような取り返しのつかない大惨事になったわけじゃない。
でもね、そこに事故を起こした原発があって、未だに事故を完全に終熄させることが出来てなくて、何だかわからなくて目に見えない怖ろしいものが毎日空から降ってきていると謂うことは事実なんだし、ある日突然原発が大爆発して破滅的な状況にならない保証なんか何処にもないことも事実なんだよね。たとえそれがたった1%の確率にすぎないとしてもさ、起こり得ることは事実なんだから。
だから、やっぱり怖い。怖いと思っている大勢の人たちは間違っていないんだし、その意味ではやっぱり今は危機的状況なんだろうと思う。こう謂う時に大事なのは科学的思考だと謂うのは正しいけれど、でもそれだけじゃないんだよね。危機的状況において人間が誰かを信頼する基準って、『その人が正しい事を言うかどうか』じゃなくて、『自分を助けてくれるかどうか』だと思うんだよ。
少なくとも、僕は出来ることなら一人でも多くの誰かを助けたいと思っている。だから、誰かを助けたいと思っている気持ちを信じて欲しいし、その為には僕自身が好悪の判断基準に働き掛ける努力は必要なんじゃないかと思う。
まして今って、とっても怖いのが当たり前なのにその怖さが実現していないから、怖いと言っても理解してもらえないって不満が蔓延しているわけじゃない? だったら、人を信じる基準が『正しいかどうか』じゃなくて『自分を助けてくれるかどうか』『自分の為に何をしてくれるのか』になるのは仕方ないんじゃないのかな。
そして、そう謂う人々が事故が起こる前とは桁違いに増えているんだろうね。以前はニセ科学代替医療には一部の親和的なメンタリティの持ち主がハマり込むものだったとしても、今はそうじゃなくて、ごく普通のたくさんの人々が、優しく手を差し伸べてくれるかどうかを基準にして騙されやすくなっているんじゃないかな
でも、それってニセ科学代替医療のワルイ所なの? 優しく手を差し伸べてくれる人を信じて何処がワルイの? 僕たちが誰かを助けたいと思った時に、どうして同じようにしちゃいけないの? そんなワルイ連中は、「話を聞いてもらう」と謂う第一段階を簡単にクリアしているんだよ。そして、人々がそんなワルイ連中を信じてしまうのは、優しく手を差し伸べてくれるのがワルイ連中ばかりだからじゃないの?
なんで僕たちは、困っている人たちに優しく手を差し伸べて、笑顔を向けてはいけないと考えなくちゃいけないのかな。それって人と話をする時に当たり前に必要な手続きなんじゃないの?

■科学的思考法は当たり前じゃない
たとえば科学的思考法を養う為には、そんな人間の基本的な考え方とは別の方法論を学ばなくちゃいけないのだから、学校のような専門的な訓練の場が必要です。今科学的な思考法を身に着けている人たちは、学校にも行かず勉強もしないで人から『正しいこと』を言われただけで『そうか、そうだよな』って納得出来たのかしら。
どらねこは違うと思います。科学的思考法って、tikani_nemuru_Mさんがこのエントリ*3で次のように語っているとおり、黙っていても習得できる類のモノでは無いからです。

個々のニンゲンにとって「しっくりと」くる部分をそぎ落として事実そのものをとり出すことによって成立するのがカガクなのだから、カガクは最初から非人間的であり「しっくりと」くるものではにゃーんだ。

このように、僕が今まで言ってたような人間社会の合理性とは全然別の、人間にとって馴染みのない考え方なのですね。それってコストを掛けて長年訓練して漸く習得出来るものなんでしょ。そんな訓練を積んでいない人たちに向かって、同じように考えろなんて頭ごなしに言って、それで通じると思うなんておかしくないですか?それは科学的思考法を養う為のコストの重要性を軽視する考えなんじゃないでしょうか。
好悪の基準に働き掛けてまず話を聞いてもらうことが必要なのは、その基準だけで相手を支配する為じゃないと思います。それは、多くの人々が当たり前に持っている日常的合理性を発揮してもらう為の入り口なんだと思います。
ニセ科学代替医療を流布する人々とそれを批判する人々の違いは、笑顔を向けるかどうか、優しく話し掛けるかどうかじゃないんだと思います。そこは同じであっていいし、寧ろ同じであるべきだ。でも、ニセ科学はその基準にしか依拠していないのに比べて、それを批判する人々はそこを入り口にして人々が当たり前に持っている日常的な合理性に訴える、そこが一番違うのだと思います。
『科学的に考えれば自明のこと』と謂う指摘は、専門的な科学の訓練を積んだ相手にしか通じないのは当たり前のことなんです。そして、専門的な訓練を積んだ人は妥当な情報がどれであるかを判断する能力がありますが、そうでない人々に対して科学的なやり方で説明をしても通じないことのほうが多いと思います。
ニセ科学の問題に効果的に対抗するには、大多数の人々が当たり前に持っている日常的な合理性に基づいて正しい情報に辿り着くことを手助けする事が大事なのではないかな。どらねこはそう思うのです。

■おわりに
あなたにつたえたい、でもとどかないことば、それでもとどけたい・・・
僕は以前、とどかないことばと謂うエントリでそのもどかしい気持ちを綴りました。今回のエントリはそのアンサーとして、気持ちを込めて書きました。どうかみんなに届いてほしいな。