法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

超映画批評には映画を超えて重視しているものがあるらしい

グエムル 漢江の怪物』のパクリ疑惑批判の承前。


超映画批評というサイトを作っている映画ライター前田有一*1の作品評が、パクリ疑惑を指摘する記事で紹介されていた*2
サイトの作品評ではパクリという主張はしていないし、100点満点中75点と評価も低くないのだが*3、作中事実の読解レベルで誤謬に満ちているのであらためて批判しておきたい*4
超映画批評『グエムル-漢江(ハンガン)の怪物-』75点(100点満点中)

よりにもよって映画のキモとなる怪獣のVFXを、丸々ハリウッドに外注して無理やり成立させた臆面の無さ。そのくせ、めちゃくちゃ反米的な設定(怪物は在韓米軍の廃棄物不法投棄により誕生した)であっさり恩を裏切るなど、『グエムル』は製作の背景がいかにも韓国らしくて笑える。

いきなりVFXを外注することに対して「臆面の無さ」と評する映画ライターの存在に驚くところ。ロケ地なりBGMなり俳優なりセットなり、様々な要素で構成される映画が、国内のみで制作されなければならない決まりはない。たとえば香港映画『北京原人の逆襲』は日本の特撮技術で制作された。邦画でも『REX 恐竜物語』は主役の恐竜を制作するためカルロ・ランバルディをクリーチャークリエイターとして招いた。黒澤明監督の映画『夢』ではVFX外注どころか資本まで米国の協力をえた。近年では、過去の日本を舞台としていたはずのマンガ『どろろ』がニュージーランドロケで制作された。
事実認識レベルでも不正確だ。VFXを外注した先は米国の「The Orphanage」だけでなく、映画『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズで名を上げたニュージーランドの「WETA」もふくまれている。「丸々ハリウッドに外注」という表現は誤っている。むしろ「WETA」の存在を重視して、大作映画のVFXが国境を越えて制作されることが常態となっていると説明してもいいくらいだろう*5
VFXで重要なのは、どこが下請けをしたかではない。イメージを作品に具現化させられたか否かだ。土手を駆け上がる怪物をカメラが追って逆光となるワンカット。車窓から俯瞰で見下ろす怪物の惨殺劇。印象的なVFXシーンの多くが、怪物が衆人環視の白昼に突如として全身を現すという、作品の独自性から導かれた場面だ。
ちなみに怪物誕生の経緯は現実のホルムアルデヒド流出事件*6を引用したものであり、そのまま安易に反米と考えるべきではない*7。物語の批判も米国のみに矛先が向かったりはしない。何しろ怪物が初登場した時点で最も英雄的な活躍をするのが、たまたまいあわせた米軍人というくらいだ。どちらかといえば在韓米軍の存在をふくむ韓国社会全体への風刺を描いている。
「あっさり恩を裏切る」と太字強調するにいたっては意味不明。米国映画では米軍批判が存在しないとでもいうのだろうか。実際には米軍に批判的な側面を持つ作品に、米軍が協力したりもしているのだが。

中盤以降、役者の人件費が尽きたかのように、軍隊警察がさっぱり町から姿を消すのも笑えるし、そもそも怪物がなぜ娘だけは食わずに連れ去ったのかわからないあたりも、ツッコミ所のひとつ。

前者の指摘は、映画の見方を理解していないとしか思えない。場面ごとに必要な人物だけ整理して描写することは映画の一般的な技法だ。だいたい中盤以降にも、主人公がビル街で多人数から騙され追われたり、川岸でデモが行われる描写もある。「人件費が尽きた」というツッコミはネタとしても的外れだ。
後者の指摘も、作品を真面目に見るだけで解消される疑問にすぎない。あたかも怪物が少女を愛するキングコングかのような紹介だが、実際には複数の人間を巣へ連れ去っている。一見して五体満足な死体もあれば、白骨化した死体も巣に吐き出される。そして他にも生きた人間が連れ去られてくるのだ。食糧を保存していたとかいった明確な説明こそないが、巣に連れてこられた多くの人間で娘をふくむ少数がたまたま生き残っただけということは見ればわかる。


前田氏は保守派らしい固定観念をもって映画を批評する傾向が強い。それが韓国映画に対する偏見の原因と思われるが、過去の日本を描く映画でも見方をゆがめる方向にはたらくようだ。
特にひどいのがアニメ映画『ストレンヂア 無皇刃譚』の批評だ。いや、アクション演出に対する視点や、できる範囲で作品をまとめつつ冒険したという評は、問題ないどころか大筋で同意できる。問題は武士に対する幻想だ。
超映画批評『ストレンヂア -無皇刃譚-』70点(100点満点中)

中国大陸からやってきた明軍団は、少数ながらなにやら怪しげなドーピングを行っているので、現実レベルを超えた強さを誇る。そんなものが実際にいたら、ヘタレな現代人は尻尾を巻いて逃げてしまいそうだが、劇中彼らと対峙する屈強な戦国武士たちはまるで引かず、自分らの信じる戦法で堂々と戦い、ダメージを与えていく。このあたりはじつに見ごたえがある。そして、重要な敵であろうと決して無敵にしなかったあたりが、この映画のバランスのよいところだ。キャラクターの安易なムテキ化は観客を興ざめさせる。とくにこの映画の場合、それをやっていたら敵側の最終目的の必然性を完全に失うところだった。

前田氏も「シンプル」と評しているくらい平易な設定と物語なのに、どうしたらこういう解釈ができるのか。
まず、「怪しげなドーピング」が、そのまま「現実レベルを超えた強さ」を生んでいるわけではない。作中の薬物は現実にもありえる程度の限定された機能しかなく、後述の羅狼は薬物を用いていないのに最強だ。
もちろん戦国武士は堂々と戦ったりはしない。下克上が当たり前の戦国時代なのだ。敵に対して正面から技術で勝利した武士は若者一人が一度だけで、もちろん戦いの趨勢を決めるにはいたらない。基本的には敵の不意をつくように、物量で力押しする正攻法の戦術で戦うだけ。さらに明の一人は味方だった時点で騙し討ちにあい、明の大半を倒した「名無し」は戦国武士という立場にない。
しかも対抗するため明の薬物を利用する武士も出てくる。もしかして真相を示す描写を見落としていたのだろうか。

そして何より敵軍最強の剣士、羅浪。ひとりナチュラルパワーにこだわり、決して組織に束縛されぬ男。集団の論理より一人の剣士としての信念で動く、もっとも恐ろしい敵だ。山寺宏一の渋い声も合わせ、ハードボイルドを地でいく最高にカッコいいキャラクターで、クライマックスの名無しとの対決は、まさに両方応援状態。

こちらの評価は、字面では必ずしも間違っていない。しかし羅狼ははっきりいって典型的な戦闘狂だ。その行動は信念というより、滑稽と裏腹の狂気に満ちている。「ハードボイルド」という表現でイメージされるような、厳しく自制するようなキャラクターではない。利己的に動くため、平気で通りすがりの人間へ切りかかり、仲間を踏みにじっても平然とする。
過去の時代劇が美しく描いてきた信念の多くを、この映画は皮肉り断ち切る。それは命のやりとりで高揚をおぼえる戦士も例外ではない。映画の結末で描かれる殺陣は、時代劇の一つの到達点と思わせる質をほこりながら、タイトルが示すように武士の枠組みを外れた「ストレンヂア」が織り成す風景だ。


むろん、複数の要素で構成される映画から、どの要素を切り取って批評するかは書き手の自由だ。極端な思想を持っていても、だからこそ独特の切り口でもって意外な視点を提示できるかもしれない。また、判断が難しい描写に対して、あえて誤読に近い補助線を提示することで、面白い解釈を作り出せることもあるだろう。プロの批評家なればこそ、情報を隠すため重要な主題に言及できない問題もありうる。
しかし、あらかじめ持っている固定観念で作品の描写をゆがめて視聴し、テンプレートのような評価をあてはめることは、さすがに批評とは呼べまい。プロの映画批評家ならば、厳につつしむべきではないだろうか。

*1:チャンネル桜のパネリストとしても有名。明らかに危険な域の自然分娩を礼賛する映画『玄牝』に対して高評価をしたり、一部で悪名高い。http://movie.maeda-y.com/movie/01532.htm

*2:http://www.chosunonline.com/entame/20060907000028

*3:ただし2006年ダメダメ映画にも名前を上げている。http://movie.maeda-y.com/movie/2006.htm

*4:過去にも幾人かから批判されている。http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20070220http://d.hatena.ne.jp/Kai1964/20100104/1262572210等。

*5:日本VFXではデジタル技術の多くが外国製ソフトウェアにたよっている。ハリウッドのVFXでは、プロダクションが作品ごとに新たなソフトウェアを自作することが珍しくない。

*6:http://d-navi.org/node/1241

*7:以前にid:buyobuyo氏が同じ指摘をしていたが、残念ながらプライベートモードになっていて読めない。http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20060905#p3