enPiT(Education Network for Practical Information Technologies)」とは、文部科学省による「情報技術人材育成のための実践教育ネットワーク形成事業」のことで、同プログラムに参加する日本国内の15大学にて、クラウドコンピューティング、セキュリティ、組込みシステム、ビジネスアプリケーションの4分野を対象に、1年間で実践的な技術が身につくことを目指した教育が行われている。

enPiTのビジネスアプリケーション分野で教育プログラムを提供する大学のひとつが、AIIT(産業技術大学院大学)である。enPiTに参加する学生は通常、実施大学に所属する学生が大半を占めているというが、AIITでは「すでに現場で実務に携わっている人をふくめ、幅広い人材に教育の場を提供し、共に学ぶ場所を作り上げたい」(AIIT准教授・中鉢欣秀)と考えているという。

受講対象者
・主にenPiTに参加する大学、大学院の修士課程学生
・AIITのコースは、一般社会人も対象(ただし審査あり)

基礎知識から本格的な開発まで
「無料」で学べるプログラム

このenPiTプログラム、受講料はなんと無料である。とはいえ、その内容はとても無料とは思えない充実ぶりだ。

プログラムが始まるのは6月中旬。最初の8週間は、平日夜間と土曜日に行われる基礎知識学習コースにて、ソフトウェア工学分野とビジネスアプリケーション開発の基礎科目を学ぶ。その後、9月上旬の短期集中合宿では、外部の識者を招いた特別講義や演習はもちろん、ミニPBL(Project-Based Learning)として10月から行われる分散PBLコースに備えたテーマの計画立案やグループワークを実施、分散PBLのたたき台となる開発計画書を作成する。

10月以降は、10週間の分散PBLコースが始まる。分散PBLでは、参加大学である沖縄の琉球大学とともに、少人数のグループに分かれて分散環境によるPBLを行う。具体的には、アジャイル開発手法のひとつであるスクラムにより、Webアプリケーションの企画立案やアーキテクチャベースラインの確立、そして継続的な機能強化と運用・保守を実施することになる。週に3時間はチームに分かれて自主的に作業を進め、毎週90分のレヴュー枠で全チームが集合し(琉球大学チームはテレビ会議システムを介して参加)、その週の成果物を発表する。

アジャイルコンサルタントとして開発現場に携わりながら同コースでも教鞭を執るAIIT 特任准教授の永瀬美穂は、2013年度に実施したこのコースについて「10週間かけてひとつのものを作って、最後に1回発表するのではなく、毎週必ず何かリリースできるソフトウェアを発表するようにした。最初はコードが書けない人や、プログラミングの経験はあっても今回利用した開発言語Rubyは知らないという人もいたが、10週間実践で手を動かし続けるとできるようになった」と話す。

同じく同コースを担当する楽天 技術理事の吉岡弘隆も、「10週間の最初の発表では、みな自分たちが何を作るかという資料を必死でプレゼンする。しかしこの授業で学ぶべきことは、立派なプレゼン資料を作ることではなく、コードを書いて実際のモノを作ること。この考え方を”demo or die”と呼ぶ。まずこれを理解してもらった上で毎週成果物を発表し、デモを行い、フィードバックを受けながら発展、成長させていく。すると、モノも発表内容もすばらしく良くなっていく」と述べる。

その結果、enPiTビジネスアプリケーション分野で連携するAIITと、公立はこだて未来大学、筑波大学が共同で実施した最終発表会では、両氏が担当した琉球大学の学生チーム「ryuPiT」が優勝した。「やはり習うより慣れろだ」と永瀬氏は言う。

「enPit」は時代に乗り遅れた現状の大学教育に対するアンチテーゼの意味もこめられているという。中鉢欣秀 AIIT准教授(左)。土屋陽介 AIIT助教(右)。

ソフトウェア工学の世界では、大学は時代に乗り遅れている

永瀬氏、吉岡氏が担当するスクラムコースとは別に、AIITでは海外の大学と共にプロジェクトを進めるグローバルコースも用意している。同コースを担当するのは、AIIT助教の土屋陽介だ。

2013年度のグローバルコースでは、ベトナム国家大学ハノイ校およびブルネイ・ダルサラーム大学と共にPBLを遠隔で実施。ベトナムやブルネイでどのようなサーヴィスが求められるかを調査しつつ、ロボット掃除機「Roomba」にAndroidベースのタブレット端末を搭載したハードウェアをベースにサーヴィスを考案するというプロジェクトを進めた。海外との連携プロジェクトのため、授業もドキュメンテーションもすべて英語だ。

土屋氏は「今回のプロジェクトでは、メイドを雇う習慣のあるブルネイにて、自宅にいるメイドとわが子の様子を見守るシステムなど、日本人だけでは思いつかないようなサーヴィスが誕生した。これまで日本のIT業界で国際化といえば、国外の市場にアウトソースすることを中心に考えていたが、今後はものづくりのパートナーとして共同で作業を進めるという考えも重要になってくるだろう」としている。

2013年度にAIITでenPiTプログラムを受講した人数は約28人で、うち20人が全課程を修了した。中鉢氏によると、2014年度の定員は昨年同様20名であるが、今年は学外の社会人学生を増やしたいという。今年度の受講者は、2014年4月頃より募集を開始する。

AIITでは、enPiTに限らず夜間の授業が充実しており、社会人に適した教育環境が整っている。そのため、「すでに開発現場で働いているものの体系的に開発について学びたい人や、実際に働いてみて足りない部分に気づいた人、新しい開発手法を試してみたいが現場ではそのチャンスがないという人にぜひ来てもらいたい」と中鉢氏。また、永瀬氏は「AIITの特徴は、サポートする人のダイヴァーシティが幅広いこと。企業内の研修や実務だけでは学べないことも多い」と話す。

一方の吉岡氏は、enPiTが社会で求められている実践的な能力をつけるプログラムを提供するのは、現状の大学教育に対するアンチテーゼの意味も込められているはずだと話す。

AIITだけでなくビジネス・ブレークスルー大学でも授業を持つ吉岡氏は、「日本でコンピューターサイエンスを専攻する大学生の多くは、約20年前のことしか大学で学ぶチャンスがない」と述べ、日本の高等教育への危機感を示す。

「ある種の暗黙知が大学に到達するには何十年もかかることがある。例えば、アジャイル開発を定義したアジャイルマニフェストは2001年に宣言されたが、10年かかってようやく大学教育の場に降りてきた。しかし、アジャイルの手法そのものは、マニフェストが宣言されるより何十年も前から開発現場で行われていたことの積み重ねなのだ。いまでもWebの世界では数多くの暗黙知が存在するが、言語化されていないため大学では教えられていない。こうした暗黙知を授業に組み入れない限り、実践的な人材は育たないのだ。だからこそAIITでは、論文だけでなく実際にモノを作ることの重要性を伝えたいと思っている」(吉岡氏)

中鉢氏も、「多くの分野で大学は最先端の研究を行っているが、ソフトウェア工学の世界では大きく遅れを取っている。特に、ITの現場の経験値やベストプラクティスが大学内で蓄えられない」と話す。それは、大学教員は1人で地道に研究を続けるケースが多いためだという。「ITサーヴィスの構築は、ひとりでできるものではない。作る人、使う人、またその先のマーケットやビジネス展開も見据えて世界レヴェルのものを作るとなると、いままでの大学研究の枠組みでは難しい」と中鉢氏は述べ、enPiTと同プログラム内で多くの時間を費やすPBLの重要性を説明した。

毎年同じような講義をする時代は終わる

中鉢氏は、今後の大学のあり方について「大学の閉じられた教室内で限られた学生に対し、教員が毎年同じような講義を行う時代は終わる」と話す。AIITでは、録画授業と対面授業を組み合わせるブレンド型学習(Blended Learning)をすでに取り入れており、授業の半数はヴィデオによる学習が可能になっているという。

「ヴィデオによる授業は、学生が学校に通う回数を削減できるだけでなく、いつでもどこでも視聴できるという利点がある。まとまった時間がなくても細切れにヴィデオを見たり、必要であれば何度も確認できる。将来的には単位を取りたい学生が、どこででも授業を受けられるようになるだろう」(中鉢氏)

こうした時代が到来すると、大学に求められるのは講義ではなくグループワークやPBLとなる。AIITではすでにenPiTにて遠隔PBLを実施するなど、この分野では他大学より一歩前進していると言っていいだろう。

さらに、「本学にはAIIT単位バンクという制度があり,受講したenPiTの授業を単位として登録することもできる(別途費用が必要)。将来、本学に入学した際には、登録した単位に加え、受講料も単位バンクから“引き出す”ことができる。こちらも併せて活用していただきたい」と中鉢氏は言う。

次世代の大学に最も近い環境を実現しつつあるAIITで学べることは計り知れない。

録画授業と対面授業を組み合わせる「ブレンド型学習」など、AIITでは世界最先端の授業の仕組みを、他大学に先駆けて積極的に取り入れている。