項羽の字

史記項羽本紀第七の冒頭に、「項籍者,下相人也,字羽」(項籍は下相の人である。字は羽といった)とある。三家注のひとつ『史記索隠』は、ここについて「按,下序傳籍字子羽也」(調べると、下って序伝に籍の字を子羽としている)と注釈している。序伝とは、太史公自序のことである。
史記』太史公自序第七十に「秦失其道,豪桀並擾,項梁業之,子羽接之,殺慶救趙,諸侯立之,誅嬰背懷,天下非之,作項羽本紀第七」(秦はその政道を失い、豪傑が並び立って世情を騒がせた。項梁が情勢を憂いて起兵し、子羽が項梁に呼応して、慶(宋義)を殺して趙を救ったため、諸侯が子羽を立てた。子嬰を殺して懐帝にそむいたため、天下は子羽を非難した。ここに項羽本紀第七を作った)とある。ここの子羽は項羽のことである。
また自序の続く部分に「子羽暴虐,漢行功德,憤發蜀漢,還定三秦,誅籍業帝,天下惟寧,改制易俗,作高祖本紀第八」(子羽は暴虐であり、漢は功徳を行っていた。蜀と漢中において怒りの挙兵をし、三秦を奪還して平定すると、籍を殺して帝業を創始し、天下を安定させ、制度を改め風俗を変えた。ここに高祖本紀第八を作った)とある。ここの子羽と籍はやはり項羽のことである。
同じく自序に「以淮南叛楚歸漢,漢用得大司馬殷,卒破子羽于垓下。作黥布列傳第三十一」(黥布は淮南をもって楚にそむいて漢に帰順した。漢は黥布のおかげで大司馬周殷を用いることができ、ついには子羽を垓下で撃破した。ここに黥布列伝第三十一を作った)とある。
さらに「諸侯畔項王,唯齊連子羽城陽,漢得以閒遂入彭城。作田儋列傳第三十四」(諸侯が項王にそむいたとき、ひとり斉が子羽と城陽で争ったため、漢はそのあいだに彭城に入ることができた。ここに田儋列伝第三十四を作った)とある。
史記』では項羽のことを項羽あるいは項王と呼んでいることが多いのだが、上に見たようになぜか太史公自序でのみ、子羽と連呼している。その理由は判然としない。
ところでそもそも項羽はなぜ名の籍ではなく、字の羽で呼ばれるのか。史書において名を避けて字で呼ばれるのは、なんらかの避諱のタブーに触れているからである。『晋書』で劉淵が劉元海と呼ばれるのは、唐諱に触れているからであるし。『三国志』で韋昭が韋曜と呼ばれるのは、晋諱に触れているからである。しかし項籍が漢諱に触れているとは思われない。ならば司馬遷の父祖の諱に触れているのだろうか?あえて無理をいえば、司馬錯の諱が問題だろうかとも思われるが、これはやや苦しい。あるいは『史記』の先行史書に籍の諱を避けなければならない理由があったのか。
項羽の呼び名などという基本的なことから、わりと謎はあるということを述べてみた。